儀間比呂志 1923年3月5日 - 2017年4月11日

 ぼくは大正12年に、沖縄の那覇の久米村でうまれた。(妹に山田和子、湖城智子、弟に達、進)久米村は、中国の三十六姓の子孫です。琉球王朝が、中国から、技術者とかを招聘した。今でいう技術導入ですね。そして久米村に集めて住まわせたわけです。このことを考えてみると、中国人は世界中にちらばっていて、華僑になっていますが、なかなかその国々の中へ同化してしまうことがない。ところが沖縄では、そういう中国人の根強い意識さえ、沖縄化してしまった。沖縄には華僑はない。みんな沖縄人になって、ずっときた。そうした子孫です、ぼくは。小さい頃の記憶だと、村ではよく中国風の祭りをやったり、清明祭という」祖先をまつる祭りを、一族一門集まってやったことがあった。→1973年1月『やぽねしあ』儀間比呂志「民衆の絵を彫り続けて」


1940年5月7日 儀間比呂志、家を出て那覇港(母が見送り)から神戸、横浜と船を乗り継ぎ読谷村の呼び寄せ移民とともに15日目にテニアン島で下船した。→儀間比呂志「私の原風景」(1989年11月 『沖縄美術全集4』付録)。

 テニアン島には、1万人以上の県人が住んでいる。”沖縄県人の行くところ、歌、三味線あり〟で、そこに常設の郷土劇場があっても、不思議ではなかった。その球陽座という定員3百名ぐらいの小さな劇場は、異郷に「ふるさと」を求める人びとで膨れあがっていた。人びとは、役者がウチナーグチで演ずる一挙手投足に泣き、笑い、喝采し、フィフィと指笛を鳴らす。私の目頭も熱くなりっぱなしだった。なかでも座長・渡嘉敷守良の舞う「諸屯」は圧巻。長身に、色鮮やかな紅型衣裳をまとい、華麗に空間を切る名優の絶妙な古典女踊りは、妖しいまでに美しく、私たちを陶然とさせた。以来、昭和17年末、座が閉鎖されるまでの2年余を私は、道具方をし、太鼓をたたき、芝居絵を描きながら、沖縄芸能の世界に、どっぷりと漬かった。私のテニアンの青春の、もう一つのエポックは、わずか5か月ではあったが、彫刻家杉浦佐助先生に師事して、本格的に造形の基礎と理論を学んだことだろう。満二十歳にになった私は、郷里から徴兵検査の令状を受け取った。テニアンに残れば徴兵猶予もできたが杉浦先生は「帰りなさい。生きて、良い絵を描くんだ」その言葉を胸に、昭和18年5月12日、テニアンの青春に別れを告げた。→1983年8月29日『読売新聞』儀間比呂志「青春紀行124 南洋の果て・・・沖縄の心」

2008年5月 儀間比呂志『南洋いくさ物語 テニアンの瞳』海風社

 沖縄で徴兵検査に合格して、横須賀の海軍に入り工作兵にされた。一応の訓練期間が終わると南方方面へ行く軍艦に乗るために待機。防空壕を掘ったり、軍需工場の警備をしたりしていた。1年ぐらいで終戦。沖縄は玉砕して、親兄弟はみんな死んでしまっているという。沖縄へは帰れない。兵舎から出ないといけない。敗戦袋一つかついで復員列車にのった。その列車の終点が大阪。焼野原をうろうろして、阿倍野の寺田町、あの当たりはまだ家が残っていて、そこである家の2階に下宿した。→1973年1月『やぽねしあ』儀間比呂志「民衆の絵を彫り続けて」

1946年春ー大阪市立美術館に新設された美術研究所洋画部で、赤松麟作、須田国太郎、小磯良平の先生たちから油絵の指導を受けた(儀間比呂志「若い日の私」)。

1950年4月、大阪市立美術館附設美術研究所で一緒に学んでいた村上夫美恵(1927年生。京都丹波)と結婚


儀間比呂志が1951年に沖縄の家族や末弟・進に宛てた手紙。この手紙が届いて、6月に長男が誕生/1968年9月ー上野の行動展で儀間比呂志と末弟・進氏夫妻。このころ上京の度に進氏宅に泊まる。

1955年ー高橋亨「自費出版にはげんだ初期から」〇大阪の心斎橋筋で似顔絵かきをしていた儀間比呂志に合ったときのことを、ぼんやりとだが、覚えている。新聞記者として美術を担当しはじめてまもない1955年頃だったと思う。そのころ似顔絵かきのアルバイトをする画家たちのことが話題になっていたのであろう。それで取材に訪れた私に、かれは新聞記者には話をしないことにしているが、あんたならええといいながら近くの喫茶店にさそってくれた。1人百円で1日5百円くらの稼ぎになればさっさと引き揚げることにしていたと『儀間比呂志が沖縄について彫って語る本』(1982年3月・みやざき書店刊ー本文は1980年の朝日新聞連載対談再録)で語っているが、そのときも確かそんなことをいいながら似顔絵かきの道具を片付けていたような記憶がある。→1994年5月 『版画集 儀間比呂志の沖縄』海風社
〇高橋 亨 Takahashi Toru
1927年神戸市生まれ。美術評論家、大阪芸術大学名誉教授。
東京大学文学部を卒業後、1952年に産経新聞大阪本社に入り、文化部記者として主に展覧会評など美術関係を担当して11年後に退社。具体美術協会の活動は結成直後から実見し、数多くの批評を発表。美術評論活動を続けながら1971年より26年間、大阪芸術大学教授を務める。兼務として大阪府民ギャラリー館長(1976―79)、大阪府立現代美術センター館長(1979―87)。大阪府民ギャラリーでは、具体解散後初の本格的な回顧展「具体美術の18年」(1976)開催と、詳細な記録集『具体美術の18年』の発行に尽力。その他、徳島県文化の森建設顧問として徳島県立近代美術館設立に参画し同館館長(1990―91)、滋賀県立近代美術館館長(2003―06)を歴任。


1956年5月12日~14日 第一相互銀行(3階)「儀間比呂志 個人展」〇私は現代の沖縄に生きる人間像への創造を続けています。現代人の苦悩不安あらゆる困難なる時代にたくましく生きるオキナワのすがたは私に大きな感動をあたへます。出品作『生きる』『待つ』『あんまー』等はその一連のこころみですが造形的な処理に未だ難点を残して居りますし思想と造形を如何に立体的に構式するかが今後の私の課題なのです。

1956年5月16日『沖縄タイムス』新川明「沖縄画壇の収穫ー(儀間比呂志個展評)」


1957年3月 儀間比呂志・野口昭二『詩と版画 琉球』ユマニテ書店(大阪市南区櫓町14)。→1957年5月『図書新聞』火野葦平「『ちぎれた縄』という芝居を書いていて、自分も沖縄の苦しみのなかに入ってみようと試みたばかりの私には、この、詩と版画とで彩られた『琉球』という美しい本を、異様な息苦しさなしでは、最後のページまで見終わることができなかった・・・」



1957年5月『新日本文学』儀間比呂志(表紙絵)/1957年11月『新日本文学』山之口貘「沖縄島の霜多正次」


1957年6月9日『琉球新報』石野朝季「関西の沖縄地帯ー郷里の体臭ただよう ミナト神戸に沖縄通いの船」/1957年10月27日「商都に生きる(2)儀間比呂志ー商都のボヘミアン 画面に”生きるうた〟を」〇『何んやて”商都に生きる〟?そらきみ、オレの場合はちがうな。そらたしかに、ここでメシ食って、ここの空気を吸って・・・つまりここで生きてるにはちがいないが、ほんとのいみで”生きる〟となると”沖縄に生きる〟とでも云いたいな。』のっけからこうである。うるさい男だ。が、かれのいうのももっともなはなし。かれくらい商都に似つかわしくない風体の人間も少ない。

儀間比呂志「母と子」1972年


1957年3月『第9回沖展』/1958年3月『第10回沖展』儀間比呂志「那覇の市場」/1959年3月『第11回沖展』儀間比呂志「荒地」「働く女」


右1958年12月『琉大文学』/『琉球風物版画集』






1960年1月『オキナワグラフ』「僕は特派員ー石野朝季(琉球新報東京総局記者)、植木清直(琉球放送東京支社)、宮城直温(沖縄テレビ放送東京支社編成部)、遠山一平(琉球新報関西支局記者)、新川明(沖縄タイムス関西支社記者)、島袋俊一(沖縄タイムス鹿児島支局記者)、新田卓磨(琉球新報福岡支局記者)

1961年4月30日『琉球新報』「小学生のころからわたしは絵が好きでした。これは、担任の先生が今も沖縄で活躍しておられる画家の大嶺政寛さんで、つねに絵の話を聞かされていたせいもあったようです。・・・」/写真ー儀間比呂志の父・昌(次男、兄に盛)、母・初子(蔡氏神山家)


1963年6月11日~13日 沖縄タイムスホール「第4回 儀間比呂志作品展」


1966年1月 儀間比呂志『版画風土記 沖縄』題字/榊莫山 編集/高橋亨

榊莫山ー三重師範学校在学中、学徒出陣で徴兵され、沖縄に派遣される予定だったが、艦船がなかったために鹿児島で足止めされ、そこで敗戦を迎える→ウィキ)


1966年『現代沖縄人物三千人ー人事録ー』沖縄タイムス社

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1966年7月 沖縄タイムスホール「第5回 儀間比呂志個展」
宮本常一 1907(明治40)年〜1981(昭和56)年
 1907(明治40)年、大島郡家室西方村(現 周防大島町)で生まれました。大阪府天王寺師範学校を卒業後、小学校の教員となったころから民俗学への関心を深め、民俗学者・柳田國男の指導を受けました。1939(昭和14)年、渋沢敬三が主宰するアチック・ミューゼアム(現神奈川大学日本常民文化研究所)の研究員となります。以後、全国の離島や農山漁村などを訪ね、特に「歩く・見る・聞く」ことを大事にしながら地域の人々と語らい、記録し、生活の移り変わりを明らかにしました。
 常一は「暮らしの中の工夫こそが文化」と考え、周防大島では、常一の呼び掛けで生活文化の継承を目的に、失われ始めていた民具が集められ、それらは「久賀の諸職用具」「周防大島東部の生産用具」として国の重要有形民俗文化財に指定されました。また、周防猿まわしの復活を支えたほか、離島振興法の成立に力を尽くし、離島でも水道や電気が使えるようになりました。日本観光文化研究所所長、武蔵野美術大学教授などを務め、満73歳で亡くなりました。→山口県の先人たち




儀間比呂志ー1967年11月『新沖縄文学』7号「理知的な人<追悼・安谷屋正義>『作家は死んでからが勝負だよ、儀間くん』といつか彼がもらした言葉がいまあらためて私の胸を打つ。」/1971年12月『新沖縄文学』21号「儀間比呂志版画集」/1974年10月『新沖縄文学』26号「表紙絵」/1975年2月『新沖縄文学』27号「表紙絵」/1975年11月『新沖縄文学』30号「土地に根ざした『心』


1968年8月『今日の琉球』「好評を博した儀間比呂志個展」

1969年7月 『儀間比呂志版画集 沖縄』題字/榊莫山〇高橋亨「儀間比呂志の具象画と沖縄」


1970年4月 霜多正次『虜囚の哭』新日本出版社(儀間比呂志・装幀)

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1970年9月 瀬長亀次郎『沖縄人民党ー闘いの二十五年』新日本出版社(装幀・儀間比呂志)/8月7日  『人民』儀間比呂志「沖縄を描くー絵画を語る」


1970年 前川清治・横山広『白い波濤 夜明けをひらく看護婦たち』 労働旬報社


1970年11月 川平朝申 再話/儀間比呂志 版画『ねむりむし じらぁ』福音館書店

1971年1月 霜多正次『明けもどろ』新日本出版社(儀間比呂志・装幀)




『青い海』創刊号/儀間比呂志(行動会員)「表紙のことば」


1971年4月 沖縄の雑誌『青い海』創刊号 船越義彰/石野朝季「れーだー・さいと」
写真上・大阪沖縄会館「船越義彰講演会」でー右から2列目が伊藤勝一氏、その後ろ新城栄徳
写真下・左から伊禮吉信氏、伊藤勝一氏、新城栄徳


1971年7月 川平朝申 再話 儀間比呂志 版画『ねむりむし・じらぁ』(福音館書店)


『沖縄の歴史』表紙 儀間比呂志「かわき」 (琉球政府・大阪市立博物館・沖縄タイムス社・朝日新聞社 1972年発行)巡回展図録(東京三越、大阪市立博物館、名古屋オリエンタル中村、小倉玉屋、松山三越)/1972-5-3~9大阪梅田・阪神百貨店で開催された朝日新聞社主催「沖縄を彫る 儀間比呂志版画展」展覧会の図録,7-21~26 高知・土電会館


1973年1月~12月『青い海』扉原画 1974年1月~12月『青い海』扉原画


右ー1973年10月 国際ショッピングセンター4階「儀間比呂志木版画展」主催・球陽堂書房

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1974年 1月1日 『人民』 源河朝良・作、青山恵昭・挿し絵「炎の街」連載

□2018年6月22日ー沖縄県立博物館・美術館入口の民家前で青山恵昭氏

1974年 儀間比呂志『沖縄風物版画集』 限定600 岩崎書店〇宮本常一「ふるさとを背負った仕事ー儀間氏の版画と沖縄」


1974年5月『青い海』33号 霜多正次「ウチナーとヤマトゥ」


1974年5月 儀間比呂志『儀間比呂志の版画』講談社□三味線ー朝日新聞のT記者が、新風土記の沖縄編を書くにあたって、視座をコザにすえたのは感心した。それほど、コザには沖縄の政治、経済、文化が集約されている。なかでも、まわりに巨大な基地群をもち、その米軍へのサービス業で栄えている町なのに、島の人たちにしか用のない土着の文化が目立ちすぎるほど、根づいているのには一驚させられる。〇高橋亨「沖縄とは何かをえがく版画ー最近では毎年のように沖縄へ飛び、老母や弟妹の住む那覇の家で何日かをすごしてくるが、それは帰るというより訪れるといったほうがふさわしい。いま作者の帰るところは大阪である。(略)沖縄のみ、土地と作家との全的なかかわりあいのなかから、こんにち儀間比呂志を育てた。ただ人間形成の土壌もしくは環境としてでなく、作者の表現の形式、内容その他あらゆる成長にたえず根源の息吹を与えつづける沖縄という南の世界はいったい何なのか。それは私がここで語りうることではない。それこそ作者が版画によってえがきだそうとするところのそのものなのである。」


1974年7月 沖縄の雑誌『青い海』35号 川満信一「儀間比呂志の世界」/1978年6月 川満信一『沖縄・根からの問い―共生への渇望』 泰流社 儀間比呂志「表紙」



1976年『儀間比呂志版画集・沖縄の女』岩崎書店


1976年5月 『儀間比呂志版画連作集 みやらび』みやざき書店


1976年10月15日・16日 那覇市民会館「御冠船踊」パンフレット 島袋光裕「題字」/儀間比呂志「表紙」


1976年12月 沖縄の雑誌『青い海』59号 大江健三郎「沖縄の民俗に根ざした表現世界ー『鉄の子カナヒル』を読むー」/1978年5月 沖縄の雑誌『青い海』73号「儀間版画を実用化」



1978年1月 儀間比呂志『絵本からむしペーチン』青い海出版社


1979年7月 日本報道企画センター(大阪市北区南森町1-1-25)『グラフ日本』第8巻第7号〇河原町広小路上ル長浜バイオ大学(関西文理学院)1階に、儀間比呂志の壁画「鳳凰」がある。→アラフォーオヤジのなにわ日記



右ー中山良彦「目次原案メモ」
1979年11月 儀間比呂志・中山良彦『戦がやってきたー沖縄戦版画集』集英社□儀間比呂志ーここに収めた作品は、わたしが初めて手がけた戦争版画です。いままでのわたしの作品といえば、古い”美しい琉球〟であり、戦後を生きる”逞しいオキナワ〟であり、祖国復帰を闘う”沖縄人民〟であったのです。それらは版画集として、あるいは絵本として幾冊か上梓しています。それなりに人間の「生」の根源を追求したつもりですが、沖縄民衆の平和思想の原点ともいわれる沖縄戦をテーマにした作品は一枚もありませんでした。そのわたしに”沖縄戦〟の彫刻刀を握らせたのは、沖縄県史の戦争記録に収録された次のことばなのです。「わたしたちが味わったあの地獄絵図は、どんな小説にも、映画にも描きあらわすことはできませんよ!」
 そこに語りこめられたふるさとびとたちの生々しい体験と、記憶の奥ではげしく燃えつづけている戦争への憎しみの思念には、強く胸をうたれました。そこを出発点に、わたしの”沖縄戦〟への歩みは始まったのです。このとき、沖縄では戦没者の三十三回忌の法要が行われました。わたしは、戦記を読み、証言に耳をかたむけました。戦跡にもなんべんとなく足をはこび、ガマ(住民が避難した自然洞窟)にも入って、当時の人たちの凄絶なイメージを、わがものにしました。作画にあたっては、友軍とよばれた日本兵の、住民への残虐行為、ウジ虫を涌かした負傷者、集団自殺、腐乱死体の山など、酸鼻だからといって避けて通るようなことはしませんでした。それが沖縄戦の実相だからです。わたしは祈りをこめて版を彫り、バレンを押しました。
 こうして今ここに、二十五点の大版の木版画が完成したのです。この仕事はライフワークとして、つづけていくつもりですが、一区切りついたところで公にし、きびしいご批判を賜りながら、内容のより充実をはかっていきたいと思います。
 本に編むことにつきましては、畏友中山良彦氏に解説をお願いして共著として出版することにしました。各作品に付された氏の文章は、平易だが重厚な内容をそなえ、すぐれた平和論として、読者に感銘をあたえずにはおかないでしょう。
 表題の「戦がやってきた」は、わたしが証言者のことばから借用しました。これは、このシリーズの創作上の基本姿勢が、住民視点にあることをずばりと、いいあらわしているように思ったからです。
 さて、この戦争版画集。沖縄の生き証人たちが、どう受けとめて下さるか、大いに気になるところです。とくに、あのお婆さんの目がこわい・・・・・。 1979年9月

「もうたくさんだ」(部分)