2018年9月12日~ 10月28日 沖縄県立博物館・美術館」「宮城健盛展」

 宮城健盛(みやぎ・けんせい1915-2001)はユーモア溢れる親しみやすい人物である一方、指導者としての功績は基より沖縄画壇に尽力した人物でした。独自の創作活動に対しては柔軟で真摯に挑み続け、型にはまらず、画風が変化し続けた稀な画家です。この宮城独特の作風はどこから来たのか。宮城の変遷をたどりながら、その全貌と絵画活動を紹介。


宮城健盛/表紙絵 1966年6月『今日の琉球』104号「ハーリー」



2004年9月 『新生美術』13号<特集・比嘉景常・島田寛平・南風原朝光・名渡山愛順・大城皓也・宮城健盛・安谷屋正義・新川唯盛・仲嶺康輝・山之端一博>


宮城健盛画伯、新城栄徳


2018年9月15日ーひより親子で「宮城健盛展」


二中樹緑会

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撮影場所は那覇尋常小学校、撮影は昇スタジオ。前列右より飛岡隆、上間仙一郎、我喜屋勝二(富山)、瀬嵩政吉、佐久川章吉、真栄城朝潤、上里謙蔵、比嘉景常。中列右より浦添勲、百名朝健、大山隆司、山田實、天願俊貞(1982-12天願俊貞『詩集・水底の光』)、志喜屋孝信、荒木遼一、豊里友幸、国吉真栄、春成健正、具志堅以徳。後列右より又吉正雄、図師巌、百名朝成、大嶺信一、我那覇生義、国吉昇、伊差川新吉、許田、下茂門英樹(中村)、大城貞成、平良乃武。最後列右より不詳、益田、不詳、山元恵太、不詳、金城、荒木義浩、許田重吉、漢那憲正、安次嶺勇、根路銘、西銘生一。このころトーゴーカメラを入手して一中の友人の宮城健盛、大城貞成を撮影する。徳田安周も友人であった。

2012-09-11@18:36
石川和男ー 真栄城朝潤氏は私の首里中・首里高の1期先輩で今年4月まで糸満警察署長でした真栄城毅さんの父君です。この記事を読んで長く琉大の事務局長を務め、沖縄県立芸大の創立に深く関わり、初代学長の山本氏をお招きしたお仕事はここに遡るのだとしりました。

あゝ驚いた!!
気まぐれに兄の名前(図師 巌)で検索したら「2中緑樹会」の写真に当たりました。投稿なされた方に厚く感謝申し上げます。図師 巌は大正5年那覇市で生まれ2中に進んでいます。平成13年東京で死去しました。戦後は映画監督して数本の作品を残しています。
弟の小生(図師 利佶)は昭和2年生まれ、那覇尋常小学校に昭和13年まで在校しましたが両親の死亡により宮崎に移り戦火を免れました。小学校校時代の友達を懐かしく思い出すこともあります。当年85歳です。
ありがとうございました。

新城さま
先日は同文を再三投稿してご迷惑をおかけしました。
尚、通信の機会を与えて下さり嬉しく思います。
兄、「図師 巌」と私は11歳も年齢差があり、往時の記憶も確かではありません。
兄が二中在学当時の私達家族は「那覇市久米町1丁目10番地」に居住していました。お隣は画家の「大嶺政寛」さんでしたので個人的な指導も受けていたと思います。
2中時代は又。水泳の選手で、「波の上プール」に応援に行った思い出もあります。1939年、「東宝撮影所」に在職中「都城23連隊」に召集され爾後約7年間軍役、戦後は「東宝砧撮影所 演技課係長」の折、1948年「東宝大争議」に巻き込まれ「反日映演」の第2組合委員長で頑張っていましたが撮影所は閉鎖・・・その後「日活」で映画監督として数本時マゲものなどを撮ったようです。(gooで検索でできます)その後は映画界の衰退で脚本を書いたりしつつも回生ならず、2001年武蔵野市の養老院で死亡しました。
私は1933年那覇尋常小学校幼稚園に入り1938年宮崎に移りました。同級生数名の名前は今も記憶していますがあの戦禍でどうなったでしょうか、今も気になります。兄は「許田君」に会いたい・・と言ったことがありましたが、写真を見ますと、二人おられますね。
どのような運命を辿られたことでしょうか??
「琉文21」の今後のご発展をお祈りします。2012-07-31 @ 13:58ntoska514115.oska.nt.ftth4.ppp.infoweb.ne.jp