屋良朝信 やら・とものぶ 川崎沖縄県人会会員。1949年川崎市川崎区生まれ。両親に連れられ幼い頃から沖縄を訪れる。学生運動が盛んだった10代の終わり頃、在籍した都内の明治大では休講が続いた。作家・小田実さんの著書の影響を受けて休学、「何でも見てやろう」とバックパッカーの旅に出た。北欧や英国の街角で、ギターを抱えて日本の歌を歌った。1年間で復学。卒業後、沖縄や欧州、アジアの安宿を泊まり歩く旅を30歳近くまで続けた。旅の途中、親交を深めた日本人の尺八奏者とも楽曲を制作した。その後、出版社や電子部品メーカー勤務などを経験。退職後は沖縄出身者やその子孫を応援する。

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「私設文学資料室」主宰・新城良一氏、右が屋良朝信氏/沖縄県立博物館・美術館入口の民家前
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沖縄県立博物館・美術館館長室で右が田名真之館長/左から豊見山愛さん、屋良朝信氏、亀海史明氏

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渡口万年筆店で右が渡口彦邦氏、屋良朝信氏/那覇市民ギャラリーで左から屋良朝信氏、伊佐真一氏、高良憲義氏

屋良朝信「富士瓦斯紡績工場」
 川崎は江戸時代には 東海道の宿場の一つとして賑わったが,1872(明治5)年に 新橋-横浜間の鉄道が敷設されて、川崎駅ができるや駅周辺の都市化が急速に進んだ。
明治後期,現在の京浜急行・大師線が開業し多摩川の南岸沿いに工場が建設される。以降、京浜工業地帯の中核となった。
明治初期から大正にかけて建設された主要な工場群;
・1908(明治41)年 東京電気 (後の東芝)・1909(明治42)年 日本蓄音器 (後の日本コロンビア)・1911(明治44)年 東京製線 (後の三菱電線)・1912(明治45)年 日本鋼管 (後のJFE)・1914(大正3)年 富士瓦斯紡績
-関東大震災-
沖縄県出身者は大正初期から紡績工場などへの出稼ぎのため川崎にわたり、親類縁者を呼び寄せた。23年の関東大震災で多くの県人が被災した。特に富士瓦斯紡績川崎工場では沖縄からの出稼ぎ労働者から72人の死傷者を出したという。被災県人を支援しようと震災翌年結成されたのが川崎沖縄県人会だった。初代会長は那覇市出身の玉那覇有盛氏。会員は千人ほどで、多くは富士瓦斯紡績の女工たちだったという。沖縄戦の後は、混乱の中で沖縄に戻れない県人や復員兵らの受け皿となり、琉球芸能を催して慰めとした。「川崎の沖縄県人70年の歩み」で、照屋元義氏(川崎沖縄県人会理事-当時-)は「県人の皆さんが集まり、踊りを練習して、お互い沖縄を忍びながら過ごした」と記している。→2017-6 旅の記憶 〜遊民雑記〜 tomoyaraのblog


1986年7月「川崎の男女共同社会をすすめる会 会報ー吉見周子『川崎の男女共同社会をめざして』」第5号/1985年2月4日『琉球新報』「大震災で散った”沖縄女工たち 〟犠牲者の名簿 川崎市の吉見周子山脇短大講師が発見」「富士瓦斯紡績川崎工場関東大震災時琉球列島出身犠牲者一覧」

仲田ウト 明37,8,5 戸主名 朝政 七女 年齢19 名護村世富慶37 入社 大11,9,18 所属 撚糸科  



屋良朝信「よみがえる沖縄1935 ーニュースパーク(日本新聞博物館)」
 横浜・新聞博物館で開催されている「よみがえる沖縄1935 」の写真企画展に寄った。天気にも恵まれ周辺の横浜スタジアム、中華街から山下公園一帯はすごい人出の上にトライアスロンの世界大会当日で港周辺は過熱気味でした。新聞博物館玄関ホールの吹き抜けには巨大な新聞輪転機が設置されている。明治時代に使われていたイタリア製マリノニ型輪転機というすごい年代物印刷機だ。


よみがえる沖縄1935
2018 3.31(土)-7.1(日) ニュースパーク(日本新聞博物館)
朝日新聞記者が1935年に沖縄で撮影した写真の数々が展示されている。1935年、太平洋戦争末期の10年前だ。にぎわう那覇の市場、のどかな軌道馬車(那覇⇔糸満 約9キロ)、糸満の漁師たちーー。人工知能(AI)技術と住民の記憶をもとにカラー化した写真数点を含む約100点。「海洋ニッポン」は、糸満を7回、古謝(現在の沖縄市)、久高島、名護を1回ずつ計10回連載。「海洋ニッポン」というテーマのせいか取材地は糸満が多い。1935年という撮影年月日が判るというのは資料としてとても貴重だ。1935年は満州事変(1931年)後、日中戦争(1937年~)前で、沖縄も含めて日本が総力戦体制に向かう時代、沖縄がどんな状況下にあったかということも念頭に入れて観て欲しい。

2017年7月 朝日新聞社・沖縄タイムス社『沖縄1935』朝日新聞出版〇右写真ー右から朝日新聞社の守山義雄記者、「海洋ニッポン」にカットを描いた安仁屋政榮、玉城瑩、豊平良
1935年1月23日『大阪朝日新聞 九州朝日』「猫の手も欲しい黒糖の製造期 沖縄農村の初春風景」(写真ー改良型圧搾機)
1935年3月8日『大阪朝日新聞 九州朝日』「沖縄の模範部落②小湾 古謝」
1935年6月21日『大阪朝日新聞 九州朝日』「琉球商人の海外雄飛 那覇市の県立図書館で 文献”歴代寶案„発見さる」
1935年7月11日『大阪朝日新聞 九州朝日』「ブラジルの制限を尻目に新天地へ飛躍 南洋ペルー渡航は激増す さすが移民県”沖縄„」

1935年7月13日『大阪朝日新聞』守山義雄・記/藤本護・撮影「海洋ニッポン(1)裸一貫、度胸の塊り 海底に”ふか„と闘ふ 果敢無雙・琉球の糸満漁夫」
1935年7月14日『大阪朝日新聞』守山義雄・記/藤本護・撮影「海洋ニッポン(2)転覆するが、浮く 遠洋を”歩く„舟 原始的らしくてまさに流線型 糸満名物の”刳舟„」
1935年7月15日『大阪朝日新聞』守山義雄・記/藤本護・撮影「海洋ニッポン(3)透きとほる深海に 裸人群像の活躍 謎! 息もつかぬ追込み漁法 泡は悲壮のS O S」
1935年7月16日『大阪朝日新聞』守山義雄・記/藤本護・撮影「海洋ニッポン(4)女権の町・糸満の珍景 夫婦が濱で取引 亭主の漁獲を女房が買取る 露呈する個人主義経済」
1935年7月17日『大阪朝日新聞』守山義雄・記/藤本護・撮影「海洋ニッポン(5)荒海稼業の大声 舟唄も奪はれて 衣類を食べる危険線上の勇士 よく稼ぐ女性群」
1935年7月18日『大阪朝日新聞』守山義雄・記/藤本護・撮影「海洋ニッポン(6)糸満第二世達は 武勇伝の持ち主 我子に腰縄うって海に落す 峻烈な”獅子„」
1935年7月19日『大阪朝日新聞』守山義雄・記/藤本護・撮影「海洋ニッポン(7)碧眼漁夫が驚いた ”魚„か”人間„か ”一潜り百両„の沖縄漁夫 海外制覇の朗話」
1935年7月20日『大阪朝日新聞』守山義雄・記/藤本護・撮影「海洋ニッポン(8)深夜の共同耕作に 娘達は松明係り 蘇鉄地獄の汚名そそぐ”古謝„ ユートピア建設へ邁進」
1935年7月21日『大阪朝日新聞』守山義雄・記/藤本護・撮影「海洋ニッポン(9)女護ケ島に残る 奇習”貞操試験„ めづらしい共有地割 牛馬も犬もゐない 仙境・久高島」
1935年7月22日『大阪朝日新聞』守山義雄・記/藤本護・撮影「海洋ニッポン(10)人間群と巨獣群が 海上の大闘争 忽ち下る全町総動員令!? 名護湾の海豚狩」
1935年7月31日『大阪朝日新聞 九州朝日』「暴力団検挙続く すでに二百二十名に上る 那覇署の大活動」