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1992年9月16日ー『沖縄タイムス』

講談社の『日本写真年表』に「1853年(嘉永6)年、5月アメリカのペリー艦隊の従軍写真師Eブラウン.Jr琉球を撮影する」とあり、また那覇のニライ社から刊行された『青い眼が見た「大琉球」』の中にその撮影状況の石版刷りが掲載されている。


1875年(明治8)年に松田道之と琉球処分で来琉した河原田盛美の『琉球紀行』に「写真は既に垣田孫太郎なるもの創めたれとも之を内地に輸送せさるは亦全き利を得るに至らさるなり」とあり、垣田という鹿児島商人の手によって沖縄での写真屋は始められたが短命であったようだ。
 現時点で見られる沖縄写真屋の最初の広告は、1895(明治28)年の『袖珍沖縄旅行案内』所載の「岩満写真場ー那覇東村上の倉」で後の上之倉写真館である「那覇東村上の倉・岩満写真場「写真ー琉球絶景の眞趣を穿つは写真なり弊店写真中優等なる者は首里城、中城殿、師範学校、崇元寺、波の上、墓所、辻遊廓、市場、通堂浜、那覇市街、吾妻館、奥武山、港口、三重城中島海岸、蓬莱山なり琉球の眞景を知り度き人は続々御注文を乞う」とある。この沖縄旅行案内には旅店遊廓及び割烹店も紹介されている「遊廓ー辻を第一とし中島渡地之に次ぐ辻にて」有名なるものは荒神の前大福渡名喜伊保柳香々小新屋染屋小等とし又内地芸妓を養ひ宴会の席に侍せしむる所を通堂とし辻中島渡地を通じて貸座敷631戸娼妓1442人芸妓辻9人中島4人又通堂の貸座席兼割烹店は東屋芸妓21人を有し常盤芸妓9人小徳芸妓10人海月3人合計46人」、演劇場は「本演芸場中毛演芸場壬辰座及び首里演芸場等なり開場は毎日午后2時より6時半より12時迄木戸銭は晝四銭夜三銭場代とてはなし」とある。同書発行5年前の1890年『沖縄県統計』を見ると写真師のところに那覇2人となっている。

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沖縄青年会卒業生送別会記念写真ー1896年4月2日/前列右2人目・宮里良盛、4人目・渡久地政勗、2列右から4人目・高良隣徳、3列右2人目・山城正擇(後に写真師)、5人目・富川盛睦ー沖縄県立図書館所蔵

1900年2月 『太陽』第6巻第2号 山城正澤撮影「琉球風景」


1901年2月ー写真集『旅野家都登』第35号(琉球之巻・中山門、守礼門)□発行所は光村利藻。光村は1893年に慶応義塾入学、そこで渡部乙羽、巌谷小波と親しく交わる。


那覇東上ノ倉 写真館春華園
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1901年6月『東京人類学会雑誌』加藤三吾「沖縄通信(をがん、仮面、舞踊、丸木弓、古鏡、曲玉等の)ー1月27日の日曜に小生は那覇写真師・山城正澤並に琉球新報主筆・太田天南(両人とも沖縄人にて太田氏は慶応義塾出身に侯)同道にて参り山城は其外面一部を撮影致候」

 

山城正擇写真館/清容館(吉村貞)


1900年4月28日ー写真左から小嶺幸得、渡久地政勗、小嶺幸慶、前列左から渡久地政憑、小嶺幸秀、幸厚(山城正擇謹写)
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2011年『琉球新報』伊佐眞一「沖縄と日本の間でー伊波普猷・帝大卒論への道」10月25日(39回)に、伊波普猷夫妻、金城朝永夫妻と山之口貘、伊波普哲らの写っている写真を金城朝永関連で琉文21から引用している。
11月29日(43回)に「伊波の『海の沖縄人』ー『海上王国』を喚起 沖縄人の自覚、矜持示す」とし伊波を高く評価していることに意表を突かれた。この連載は確か伊波批判が主題ではなかったか。本人に聞くと「いや、見るべきものはチャント見ている」と言うことらしい。

写真家・𤘩宮城昇探求
𤘩宮城昇は沖縄j県第二中学校を卒業、1924年に東京高等工芸学校に入学した。

在学中の昇は1926年11月、表調社主催の写真展に「白衣を着たる少女」を出品する。27年11月には表調社第3回展覧会に「詠子さんの像」「MaKe up」を出品。同年、東京写真研究会主催の第16回展覧会に「ひろ子さん」出品し入選する。28年3月、東京写真専門学校()卒業。同年、第3回日本写真美術展覧会(大阪毎日新聞社・東京日日新聞社主催)で特選を受賞。このころ写真雑誌『フォトタイムス』に論考を発表していると思われる。

1930年10月、秀英舎(現・大日本印刷)を退社し帰郷。31年、那覇で「昇スタヂオ」開業する。

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2000年5月27日『沖縄タイムス』写真人物、右から山田有登(写真家・山田實の父)、翁長助成、𤘩宮城宗倫(写真家・𤘩宮城昇の父)、山川文信、山城正好、宮里良貞


1912年2月ー太平洋画会の吉田博、石川寅治、中川八郎と丹青協会ー前列右端に座っているのが山城正綱。真ん中の柱の中列右が瑞雨。左端が比嘉崋山、右へ一人おいて兼城昌興

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沖縄青年会卒業生送別会記念写真ー1896年4月2日/前列右2人目・宮里良盛、4人目・渡久地政勗、2列右から4人目・高良隣徳、3列右2人目・山城正擇(後に写真師)、5人目・富川盛睦ー沖縄県立図書館所蔵
富名腰義珍『琉球拳法 唐手』の処女出版は武侠社から発行された。装幀は小杉未醒、山城正綱が挿絵。山城正綱の父は山城正澤。



1929年
オリエンタル写真工業(現在のサイバーグラフィックス)の宣伝課内に置かれた「フォトタイムス社」が刊行した写真雑誌『フォトタイムス』の編集主幹・木村専一は、1929年から同誌に「モダーンフォトセクション」というページを設け、新しい写真の動向を積極的に紹介した。これが本研究会結成の基礎となる。1930年に結成。名前の通り、新興写真を志向しており、その一大拠点となった。本会の名称が「新興写真」の名前を生み出したとも言われる。
𤘩宮城昇も参加ー主要メンバーは、木村のほか、堀野正雄、渡辺義雄①、伊達良雄(1907年-1946年)、古川成俊(1900年-1996年)、光村利弘(1901年-1943年)ら。結成と同年に『新興写真研究』という会誌を発行し、写真作品や板垣鷹穂らの論文を掲載していたが、木村専一の渡欧により、翌年発行の第3号で休刊した。ただし、展覧会を全部で7回、1930年から1932年まで開催していることから、会自体1932年までは存続していることがわかる。

渡辺義雄氏①、山田實氏(1990年)
渡辺義雄( わたなべ-よしお )
1907-2000昭和-平成時代の写真家。
明治40年4月21日生まれ。街の風俗をスナップでとる手法で注目される。昭和9年木村伊兵衛らと国際文化振興会に参加。戦後は建築写真にとりくみ,33年芸術選奨,49年毎日芸術賞。32年日本写真家協会会長,日大教授。平成2年文化功労者,東京都写真美術館初代館長。平成12年7月21日死去。93歳。新潟県出身。東京写真専門学校(現東京工芸大)卒。写真集に「帝国ホテル」「伊勢神宮」など。

1963年7月 『100万人の夜・写真版』新風社 渡辺義雄(日本写真家協会会長、日本大学教授)「作品解説」
フォトタイムス写真選集・木村専一編・フォトタイムス社・1926年
掲載されている主要な写真家:高田皆義、西山清、菊地東陽、窪川得三郎、安本紅陽、南実、竹田梅汀、木村専一、真継不二夫、石田喜一郎、吉野銈一郎、掛札功、飯田幸次郎、唐健吾、森一兵、小石洌、山田秀光、浅野松雨、橋本秋月、伊藤蒼海、前田悟迷(→ウィキペディア)

1935年3月『海邦』創刊号 𤘩宮城昇「赤外線寫眞」
人の世は、一寸先は闇であると、そして、その闇の中は見えないと同様に、人の目も暗黒である闇は見へない。即ち、光の無い所は見えないが、その暗黒の中でも、寫眞は撮影出来る時代になって居ます。この寫眞が最初に研究せられましたのは独逸で、次いで米國で、今から16年前にアダム及ハラ―の両化学者により完成されたものです。この寫眞の特徴と致しまして軍事上重要視される點多く各國とも秘密に研究されたのです。でありますが、最近になって各國とも公表されたものですから皆の目にふれる様になりました。
さて、それでは、どんな寫眞であるか、又どんな風に寫されるかとお話し申します。それは寫眞術を御存知の方にはすぐ解ることですが、その知識のない方の為めに判りやすく、専門用語をのぞいて一般寫眞術から申し上げます。
寫眞術の原理は、カメラ(寫眞機)(物理的に自然の畫像を寫し出すもの)に依って出来た畫像を、ガラス板、又は、セルロイド板に薬品をぬって作った乾板、及び、フヰルムに寫し取り、その時、白黒の明暗のみで、しかも、明暗が逆になった、即ち明るい所は黒く、暗い所は明るくなった畫像が出来上がります。それを、原板、種板と申します。この次は、同じく紙に、薬を引いたもの(即ち印畫紙)にその原板を合わせて、原板の方から光をあてまして、再び、紙に畫像をつくり上げます。それで原板は、白黒が反對になって居ますので、紙に再度畫像を作った時は、その原板の畫像が出来ます。今度は、明るい所は白く暗い所は黒くなって、自然と同じ様になるわけです。
でありますから、寫眞の使命は、いかに、自然を吾々の目に見えるやうに寫し取るかと云ふ事でありまして、今まで考へられた様に、人物寫眞のみでなく、あらゆる物體、一枚の紙の上に、その物體を忠實に畫き上げるかと云ふ事です。寫眞は繪と違って、物理學と、化學とによって、仕上げられるのでありますから、決して、不美人を美人に仕上げるための寫眞ではないといふ事を良く考へていただき度いのです。

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1940年 日本民藝協会同人(識名園で)ー2列目右から5人目が島袋源一郎、前列左から2人目が田中俊雄、左端が土門拳から3人目が式場隆三郎、3列目左が山里永吉、右へ3人目が保田與重郎。3列目右2人目が坂本万七、中央が柳宗悦、前が棟方志功(坂本、土門が写っているので、撮影者は𤘩宮城昇であろう)