(翁長良明コレクション)
1973年12月ー又吉眞三『琉球歴史・文化史総合年表』琉球文化社
この年表は一級建築士の著者より署名入りで贈られた。首里城復元に関わった人で、崎間麗進氏や大阪の沖縄関係資料室主宰の西平守晴、琉球文化社の大城精徳社長とは親交があった。私も色々とお世話になった。 →□ 郷土史年表

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写真左から、又吉眞三氏、新城栄徳、伊敷勝美さん、武石和実氏

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又吉眞三氏を囲んでー右から3人目が又吉眞三氏、左奥から西村貞雄氏、新城栄徳 


1982年8月 又吉真三『住吉神社並垣花各拝所合同神殿復興工事報告書』那覇市垣花奉頌会



9月4日 浦添市美術館「ここから始まる!日本近代洋画への道」 
 午前中、久しぶりに浦添に行く。美術館で「ここから始まる!日本近代洋画への道 高橋由一から藤島武二まで」を見る。山岡コレクション①を中心としたものだ。元『新生美術』編集人の星雅彦氏も夫人同伴で見えていた。会場を見て浦崎永錫氏の著『日本近代美術発達史ー明治編』(1974年7月東京美術)の世界だと思った。会場の出展者の画家たちから連想した事柄を記す。
 ①山岡コレクションは、日動美術財団が運営する笠間日動美術館の所蔵になる、山岡孫吉氏が収集された日本洋画の一大コレクションです。山岡孫吉氏は、明治21年3月に、当地の滋賀県伊香郡高月町に生まれ、明治45年に山岡発動機工作所を創業、小型ディーゼルエンジンの実用化に成功、後にヤンマーディーゼル株式会社を設立された実業家です。一方で、氏は、江戸時代から特に明治時代の洋画に強い関心を抱かれ、早くよりこの種の作品の収集につとめられ、優れたコレクションを形成されました。山岡氏は、滋賀県の農業の機械化に大きく寄与されるとともに、その文化活動にも私財を提供され、滋賀県立琵琶湖文化館の創設時などにも大きな貢献を果たされたのです。→近代日本洋画への道(山岡コレクション) 2005/11/05滋賀県立近代美術館

山本芳翠と琉球コーナーには芳翠「琉球風景」が2点。
①山本芳翠

1887年(明治20)11月21日 伊藤博文総理大臣、大山巌陸軍大臣、仁礼海軍大臣ら軍事視察のため軍艦で、画家の山本芳翠、漢詩人の森槐南③を同行して来沖。山本芳翠、首里城美福門、崇元寺などを描く(参照1989年11月 『沖縄美術全集』6巻 新城栄徳「沖縄美術・工芸年表」)
③森 槐南(もり かいなん、文久3年11月16日(1863年12月26日) - 明治44年(1911年)3月7日)は、明治期日本の漢詩人、官僚。名古屋生まれ。父森春濤も漢詩人で、母の森清子(春濤の後妻)は女流歌人。名は公泰、字は大来(たいらい)。別号を秋波禅侶、菊如澹人。通称は泰二郎(泰次郎/泰治郎)で、詩壇以外では森泰二郎の名で呼ばれた。鷲津毅堂、三島中洲に師事。枢密院属、図書寮編集官、式部官などを歴任。帝国大学では文科大学講師として中国文学を教えた。随鴎詩社を主宰。明治漢文学の中心的存在であった。三条実美、伊藤博文など明治政府の要人とも親しくして、1909年10月、ハルビンでの安重根による暗殺事件の際に秘書官として同行し被弾したが、軽傷だった。約1年半後に49歳の若さで他界。→ウィキペディア

1887年12月9日『郵便報知新聞』○伊藤、大山両大臣沖縄県滞在中の記事ー沖縄県那覇港よりの通信に拠る伊藤、大山両大臣の一行は浪速艦に乗り込み葛城、海門の二艦之を警衛し去月21日正午12時當港に到着せり伊藤大臣は第一号官舎へ、大山大臣は汽船問屋池畑方へ、仁禮中将、伊東少将は建築組山川宅へ、東園侍従は第百四十七国立銀行支店へ夫々投宿せり此日は何れも船中の疲れなりしや投宿の儘何事もなかりしが翌日22日午前中両大臣の一行は沖縄県庁、警察本署、県立医院、高等小学校、裁判所、監獄署の諸所を巡視し午後は首里へ登り尋常師範学校、中学校を巡視せり尤も・・・

翌23日は早天より那覇を距る八里余にして中城間切なる琉球第一の勤王家護佐丸王の古城を巡視し帰りて首里なる中城尚典氏の館に赴き・・・

芳翠作「琉球東城旧跡之眺望」/写真「中城城内ヨリ遠望の景」(宮内庁書陵部所蔵)


五姓田芳柳とその一門のコーナーに五姓田芳柳「美人吹笛図」があった。山田真山は1942年10月の月刊『文化沖縄』「天日を拝す」で五姓田芳柳「藩使東上の図」について感想を述べている。


1942年10月 月刊『文化沖縄』山田真山「天日を拝す」

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 明治の洋画家として知られた二世五姓田芳柳は昭和18年1月9日淀橋区で病気のため逝去した。享年80。本名子之吉、元治元年下総の倉持正重六男に生れ、明治11年上京、五姓田義松に師事したが、13年初代芳柳の養嗣子となつた。義松渡欧後はワーグマンに学び、14年からはサンジヨバンニ及びカペレツチにも師事した。第2回内国勧業博覧会に「飾鳥図」、同第3回博覧会には「鷺沼平九郎大蛇を屠る図」「羅漢図」を出品、25年以降は明治美術会や各国博覧会にも出品した。35年トモエ会設立の際は会員となつたが、文展以降は作品を公表せず種々の依嘱に応じて主として歴史画、風俗画を描いている。
 その主要なものは明治時代を回顧したもので、大正6年「聖徳記念絵画館考証図」同「十三年昭憲皇太后金子邸へ臨時行啓図」同14年聖徳記念絵画館壁画「枢密院憲法会議」昭和6年―8年「明治天皇御事績画」81図、昭和10年「笠置山」「吉野山」などが知られる。日本赤十字社特別社員で、同社依嘱のものが多数であつた。弟子に鹿子木孟郎、満谷国四郎など。出典:『日本美術年鑑』昭和19・20・21年版(82頁)
 〇1935年9月 東洋文化協會『幕末・明治・大正回顧八十年史 』第六輯/1968年 沖縄文教出版「幕末・明治・大正 回顧八十年史 」
 〇五姓田芳柳「藩使東上の図」/山田真山「琉球藩使那覇出港図」
 〇1942年10月 月刊『文化沖縄』山田真山「天日を拝す」で五姓田芳柳「藩使東上の図」について感想を述べている。

富安 路葭