めいじしんぶんざっしぶんこ【明治新聞雑誌文庫】
東京大学法学部に所属し,同大学史料編纂所地階にある。1981年以降,原資料部(旧,近代立法課程研究会)とともに,〈近代日本法政資料センター〉と呼ばれる。明治時代に発行された全国各地の新聞・雑誌を専門に収蔵している(大正以後のものは明治の創刊で続刊されているものに限られた)。内外通信社博報堂の創業者瀬木博尚の寄付により1926年設立決定,翌年2月から事務を開始した。初代主任宮武外骨の努力で多くの貴重な新聞・雑誌が収集された。

「関西日誌2011-9」
大阪市・靱公園から北のほう西区江戸堀と土佐堀通の交差点に「宮武外骨ゆかりの地」(滑稽新聞社跡)の碑がある。近所には薩摩藩蔵屋敷跡、大阪上等裁判所跡などがある。場所名を確認しようと検索したら「ときどき日記」(同名のブログ多し)というブログに出会った。中に「確認まだ先の見えない原発事故の行方だが、最近、事故の悪化の責任を内閣の不手際にして問題をすり替えようとする動きや、事故の原因は地震ではなく津波だったことにしたいという東電の思惑などが見え透いていて不愉快だ。原発を再稼働する条件として「地元の了解」ということもまことしやかにいわれているが、原発問題は空港の騒音問題などと違って、国民全体の了解が必要なことはいうまでもない。地元の範囲をどこまでと考えるか、という問題もあるが、地元はすでに原発と利害関係をともにするような関係になっているのだから、その地元に客観的な判断をもとめるのはどだい無理な話なのである」と、外骨に関心がある人にしては健全な考えの持ち主である。(その後、調べてみたら吉野孝雄氏であった。氏は1945年、東京生まれ。早稲田大学文学部露文科卒業。元千葉商業高等学校国語科教諭。近代文学史、ジャーナリズム史研究者。また外骨の甥で外骨研究者)。

□ブログ「宮武外骨解剖」連載お休みのながーいご挨拶で吉野孝雄氏はー「外骨の跡地を訪ねて」の連載が終わり、さて次に何を書こうか、と考えているうちに震災と原発の問題が起こった。もうそれどころではなくなった。毎日、原発の放射線やヨウ素などの数値などの正確な情報を集めるのに忙しくなにか落ち着かなくて、頭に余裕がなくなった。単純作業をしていると落ち着くので、空いている時間は掃除や片付けなどの単純作業に没頭している。なにしろ、災害に際しては自分の身は自分で守る、という防災政策をモットーにしている知事の東京都に生活しているので、自分の身は自分で守るしかなく、放射能などの危険性の正しい情報も自分で集めるしかないのである。日本政府の発表は信頼性がいまひとつなので、現在のところもっぱらフランスからの情報に依存している。なぜ、自分の国の情報を外国に求めなくてはならないのか?だから、原発の今後の見通しが不透明なのと同じように、この連載の再開も今のところまるで見通しが立たない。よって、連載は原発の見通しがついてからということにさせていただいて、当分の間お休みします。

□吉野孝雄「正しい、正しくない、乱れている、などという価値観をともなうことについては個人の意識の問題であって、そこに権力が入り込んでくることには問題がある。「日の丸」は美しい旗だという歌や、「富士山」が日本一の美しい山だという歌が戦前から戦後まで歌われていたが、美意識や価値観を国家が決めるとろくなことにはならない。そういえば、かつて「期待される人間像」などということを言い出した政権もあったなあ。」   




1918年6月24日 和歌山県田辺町中屋敷町三六南方熊楠殿⑰、末吉安恭書簡・沖縄首里区儀保町四ノ八□「昨年の『日本及日本人』春季拡大号に『酒泉等の話』という論文の中に耳塚のことにつき柳田国男氏説を駁されたことは至極尤もに存じ奉り候。丘浅次郎『進化論講話』。豚の化物。豚と不動」□安恭の人物ポンチ絵□1920年2月1日『日本及日本人』775号に、安恭は「糞汁が解毒剤ー支那の昔には誠に糞喰うことあり」、1923年7月15日『日本及日本人』866号に「支那人と豚」を書いている。「御問合せの茶臼、倒澆蝋燭のこと、我琉球にては何と申候哉と、小生いろいろ尋ね候ひしも知る者これなく・・・・・」とある。さすがの博覧強記の麦門冬も辻通いは専ら酒だけで、そういうことには疎い。前に、真喜志康忠優に「茶臼は沖縄口で何と言われるんですか?」と問うと、「むちゃき」と言われた。最近、仲宗根幸市氏の本を見ていると、八重山六調(坐興歌)に「ー思う男が上になり 下からもちゃげよ面白さー」と出ている。


1929年11月 再生外骨主筆『面白半分』第六號





1941年3月 宮武外骨『府藩縣制史』名取書店



null
『面白半分』(おもしろはんぶん)は、佐藤嘉尚が1971年に興した株式会社面白半分が発行した月刊誌。初代の編集長に吉行淳之介を迎え、同年12月に創刊号(1972年1月号)を出した。編集長は人気作家が(原則)半年毎に交代していた。1980年に倒産して廃刊となった。→ウイキ


1984年6月 中本正智・比嘉実『沖縄風物誌』大修館書店

2013年8月19日『沖縄タイムス』
比嘉実氏(ひが・みのる=元法政大学沖縄文化研究所所長、元トロピカルテクノセンター社長)17日午前4時54分、肝臓がんのため、那覇市内の病院で死去、70歳。浦添市小湾出身。自宅は那覇市寄宮1の11の35。告別式は22日午後1時から2時、那覇市古島353の1、富士会館古島ホールで。喪主は妻の千恵子(ちえこ)さん。1968年に琉球大学卒業。琉球史を研究し、79年に同研究所助教授、94年同所長に就任した。97年、2001年、05年、09年と浦添市長選に立候補したが落選。07年には県などの第3セクター、トロピカルテクノセンター(うるま市)の社長に就任、08年に辞任した。
null

【明治新聞雑誌文庫】
1985年11月24日ー沖縄文献委員(我部政男代表)会史料調査の旅
null
1985年12月ー『沖縄タイムス』伊佐眞一「沖縄関係史料を求めて<1>」
写真ー国会図書館書庫内で新城栄徳、後方が宮城剛助氏(伊佐眞一撮影)

1995年5月ー仲宗根将二『沖縄県・宮古史料の旅』
□在京史料機関をたずねてー沖縄文献委員会史料調査の旅
我部政男琉大教授を代表とする沖縄文献委員会は11月25日から28日にかけて、東京の各史料機関をめぐり、沖縄県関係史資料の調査をおこなった。この東京行動は在京各機関の沖縄県関係「史料の閲覧・収集をもって、地域史研究への幅広い活用をはかる」目的でとりくまれた。参加したのは沖縄県史料編集所の金城功所長をはじめ、那覇、名護、浦添、糸満など各市町村史の担当者ら19人である。代表は在京の我部教授、事務局長は県立図書館奉仕課係長の宮城保氏。

11月26日ー正午休みは階下の明治新聞雑誌文庫で両班合流、文庫責任者の北根豊氏と昼食を囲みながら、文庫の性格、内容について説明をうけた。我部代表はじめ浦添市史の又吉盛清氏ら少なからぬ委員が、北根氏とは旧知の間柄のようで、時に爆笑がわくなど、東大の一角のおびただしい史料の山にかこまれてのたのしい一刻をすごした。

明治文庫は宮武外骨、吉野作造らの収集資料を基礎に、昭和2(1927)年創設され、明治・大正期の新聞約1300種、雑誌5700種、関係図書資料類約7000冊を所蔵している。(略)同夜は夕食後、琉文手帖の新城栄徳氏のよびかけで、高円寺の球陽書房に古本さがしに出かけた。『平良市史』はじめ県内各市町村史がすべてといっていいほど店頭をかざっていることには、さすが、沖縄関係専門店と感じ入ったものである。県内ではすでに見当たらなくなった『与那覇邑誌』など数冊を買い込んだ。


宮武外骨資料

宮武外骨 みやたけ-がいこつ
1867-1955 明治-昭和時代前期のジャーナリスト。
慶応3年1月18日ー讃岐国阿野郡小野村(現在の香川県綾歌郡綾川町小野)に庄屋宮武家の四男として生まれた。明治20年「頓智(とんち)協会雑誌」,34年「滑稽(こっけい)新聞」ほか,多数の雑誌を創刊。権力を風刺してしばしば筆禍をこうむる。昭和2年東京帝大の明治新聞雑誌文庫主任となり,資料収集に専念した。昭和30年7月28日死去。88歳。幼名は亀四郎。著作に「筆禍史」「猥褻(わいせつ)風俗史」など。
【格言など】過激にして愛嬌あり(「滑稽新聞」の標語)→コトバンク


2014年5月27日 又吉通り