11/09: 法政大学沖縄文化研究所
息子。小学校入学前に、左は麻布にあった法政大学沖縄文化研究所玄関で、初めて外間守善氏、比嘉実氏と談。/右は渋谷区の早川図書前。
比嘉実
奥が比嘉実氏、新城栄徳、崎浜秀明氏、明治新聞雑誌文庫の北根豊氏/中央が比嘉実氏、右が新城栄徳
外間守善(1924年12月6日 - 2012年11月20日)
2000年12月 伊波普猷 著/外間守善 校訂『古琉球』「琉球訳聖書」岩波文庫
写真ー伊江邸で外間守善氏(右)、新城栄徳/1990年10月ー外間守善(文)・桑原重美(写真)『沖縄の祖神アマミク』築地書館
2007年3月ー外間守善『回想80年 沖縄学への道』沖縄タイムス社
法政大学の沖縄文化研究所は中野好夫の沖縄資料センターが核になって設立された。□1961年8月『資料ニュース』№1「沖縄問題に関する資料の展示と懇談の会参考資料」。1963年12月『沖縄資料ニュース』№15「沖縄資料センター資料目録」。1964年6月、島田叡氏事跡顕彰会『沖縄の島守島田叡』中野好夫「最後の沖縄県知事」。1972年3月、中野好夫『沖縄と私』時事通信社。1982年3月、『沖縄資料センター目録』法政大学沖縄文化研究所。1982年7月『法政』№324・外間守善「中野好夫記念文庫について」。1985年4月『マスコミ市民』№201「追悼・中野好夫先生」、6月『新沖縄文学』第64号「追悼特集・中野好夫と沖縄」。1985年、屋宜宣仁『沖縄の日本復帰闘争あのころ』。
□6月10日ーモノレール美栄橋駅で屋宜宣仁氏と出会う。元気そうで何よりだ。
1973年6月 雑誌『青い海』通巻24号 「インタビュー/中野好夫ー沖縄と私」
なかのよしお【中野好夫】
1903‐85(明治36‐昭和60)
昭和期の評論家,英文学者,平和運動にも貢献。愛媛県松山市生れ。1926年東大英文科卒業。中学教師などを経て35年東大助教授,48年教授に就任。敗戦直後みずから〈戦犯第1号〉を名のり,以後一貫して民主主義と平和のために,〈知こそ力〉という姿勢を律義に貫いた。53年〈官学〉を辞し,著作活動に専念する。著作は多岐にわたり,モームの《雨》,シェークスピアの《ベニスの商人》など精細な原文分析による達意の翻訳をはじめ,専門の《シェイクスピアの面白さ》(1967),《スウィフト考》(1969),また人間の内面への飽くなき好奇心と歴史への関心に支えられた《アラビアのロレンス》(1940),《蘆花徳冨健次郎》(全3冊,1972‐74)などの評伝は,伝記文学に新生面を開いた。(→コトバンク)
2005年1月『世界』中野利子「漢那憲和のこと」
新星出版で左上から新城栄徳、松島弘明社長、下左・松居州子さん(漢那憲和の孫)、中野利子さん
中野利子
1938年東京生、慶應義塾大学文学部卒。父は中野好夫、母方の祖父は土井晩翠。私立高校教員、公立中学校教員、定時制高校教員、産休補助教員等を経て、フリーライター。著書は「君が代通信」「教育が生まれる-<草の根>の教師像」「教師たちの悩み唄-10の人生ドキュメント」「H・ノーマン-あるデモクラットのたどった運命」等。93年「父中野好夫のこと」により日本エッセイスト・クラブ賞を受賞。
1934年4月15日『琉球新報』に山城正忠「旅塵抄」の連載がある。その16回に「東京も琉球」と題し、東京の石川正通の自宅を訪ねたときのことが書かれている。
山城です。と名乗りを上げると、矢庭に襖が放いて、見知り越しの奥さんが顔を見せる。 上がれといふので、遠慮無しにあがった。小ざっぱりとした、八畳の間である。(略)額が二面、襖の上にかかっている。ひとつは、英文で斎藤秀三郎先生の毛筆揮毫だとすぐ判った。勿論、私にそれが読める筈もないが、かねて此家の主人から、その事をきいて居たからである。今ひとつは、巻紙に書いた手紙を表装したもので、おしまひの処に、短歌が一首、書かれて有ったやうに覚えて居る。能くこなされた筆づかひで、酒悦な風格を偲ばせる迫力があった。何人の心憎い業であらうかと、態々立上ってみると「晩翠」といふ署名が鮮やかに、私の網膜に映った。それと同時に、これが、その昔、有名な「天地有情」によって、一代の詩名を謳はれた、土井先生の筆蹟だといふ事を知ったので、一しほ、懐かしく仰がれた。(略)こんな閑寂な処にいて、常住心を落ちつけていたら、きっとそのうちには、自然の脈搏が聴かれるだらう。そしたら、思ふ存分に、自分の貧しい想も練られて行くにちがいない。などと、空想してる所へ「ハイサイ。イチメンソウチャガ」と、例の開けっ放しな聲で、斯う云ひ乍らはいって来たのは、紛れもない、あるじの石川正通君であった。正忠は触れていないが庭には空手家の本部サールーが建てた巻藁もあった。
2018年7月 『けーし風』99号 「追悼・新崎盛暉先生」
沖縄現代史研究の第一人者で社会運動に尽力した沖縄大学元学長の新崎盛暉(あらさき・もりてる)さんが31日午後5時38分、肺炎のため南風原町内の病院で死去した。東京都出身。82歳。告別式は5日、那覇市首里当蔵町3の4の1、万松院で。喪主は妻・恵子(けいこ)さん。(4月1日沖縄タイムス)
写真左から新崎盛暉氏、一人置いて新城栄徳、三木健氏/写真右から新崎盛暉氏、新城栄徳
写真左から秋山勝氏、鳥山淳氏、新崎盛暉氏、新城栄徳、屋嘉比収氏、大峰林一氏
新崎盛暉 あらさき-もりてる
1936- 昭和後期-平成時代の日本史学者。
昭和11年1月27日生まれ。中野好夫主宰の沖縄資料センター研究員として沖縄戦後史を研究。昭和49年沖縄大助教授となり,58年から平成元年まで学長をつとめる。また石油備蓄基地反対闘争,一坪反戦地主会など沖縄の住民運動に参加。東京出身。東大卒。著作に「戦後沖縄史」「沖縄の歩いた道」「沖縄現代史」など。(→コトバンク)
2017年1月 新崎盛暉『私の沖縄現代史ー米軍支配時代を日本で生きて』岩波書店
沖縄資料センター
1959年12月15日 『琉球新報』関西支局「沖縄資料センター 近く東京の自由人権協会内に設置」