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1990年2月『彷書月刊』54号□新城栄徳「沖縄に来た画家たちー(略)沖縄の美術史研究家の草分けは麦門冬・末吉安恭(南方熊楠、折口信夫と親交があった)で、沖縄美術史研究は麦門冬の手ほどきを受けた鎌倉芳太郎(人間国宝)、比嘉朝健によって、さらに発展する。この研究をふまえ、沖縄に来た画家たちの絵や紀行文を新聞雑誌から収集し、人物を主体に沖縄の美術、文学、風俗の事項を網羅した文庫版の『近代沖縄文化年表』を友人たちと実現してみたい。」/この文化年表は下記のように『琉文手帖』4号として1999年5月に発行した。「文人・末吉麦門冬」を補足するものである。/2006年5月『彷書月刊』248号□新城栄徳「全国古書店案内65沖縄那覇・宜野湾編」

 『彷書月刊』(ほうしょげっかん)は、1985年9月に創刊された日本の月刊誌。株式会社彷徨舎から刊行。のち弘隆社より刊行。古書と古書店をテーマにした情報誌で、毎号異なる特集記事、本に関する連載、古書即売会の情報のほか、巻末には数十ページの古書店目録(古書店が売り物を公表するカタログ)が掲載されている。編集長は田村治芳(田村七痴庵)。2010年10月号(300号)をもって休刊した。→ウィキ



田村治芳、元日に逝く
2011年の元日に、田村治芳が死んだ。享年60。食道がんだった。2日の朝、星谷章くんが電話で知らせてくれた。→源泉館備忘録2011年01月06日


2017年2月 鹿島茂『神田神保町書肆街考-世界遺産的”本の街〟の誕生から現在まで』筑摩書房〇目次ーⅠ・神保町という地名/蕃所調所の設立/東京大学の誕生/『当世書生気質』に描かれた神保町/Ⅱ・明治十年前後の古書店/明治二十年代の神保町/Ⅲ・神田の私立大学/漱石と神田/神田の予備校・専門学校/Ⅳ・神田神保町というトポス/中華街としての神田神保町/フレンチ・クォーター/お茶の水のニコライ堂/Ⅴ・古書肆街の形成/神田と映画館/神保町の地霊/Ⅵ・戦後の神田神保町/昭和四十~五十年代というターニングポイント
◇「学者が去って、オタクがやってきた」私が田村書店洋書部の奥平禎男氏と2001年に月刊誌「東京人」で対談したときの見出しにはたしかにこう書かれていたはずだ。これは果たして、神田神保町の未来を開くことになるのかそれとも閉じることになるのか(略)政府がクール・ジャパンの輸出などと浮かれたことを言っているあいだに、オタクの牙城である神田神保町が崩壊しないとは限らない。杞憂に終わることを祈るのみである。
 ◇クールジャパンとは、日本の内閣府「クールジャパン戦略のねらい」によると「外国人がクールととらえる日本の魅力」であり、クールジャパンの情報発信・海外展開・インバウンド振興によって世界の成長を取り込み日本の経済成長を実現するブランド戦略「クールジャパン戦略」政策で使われている用語である。 →ウィキペディア
 ◇青木 正美(あおき まさみ、男性、1933年4月22日 - )は、古書店主、日本近代文学研究者。 東京生まれ。1950年(昭和25年)東京都立上野高等学校定時制課程中退。半年ほど玩具工場に勤務したのち、1953年(昭和28年)東京都葛飾区堀切に古本屋・青木書店 (開業当時の名称は一間堂)を開業する(2008年現在の店主は、青木正一)。 古書店業のかたわら、文筆活動にも精力的に取り組む。神保町の業者中心の「明治古典会」の会員となり、のち会長をつとめた。→ ウィキペディア


 『庄司淺水著作集』出版ニュース社(1979)、『世界古本探しの旅』朝日新聞社(1998)に出てくるバーナード・クォリッチをWikipediaで見る◇ Bernard Quaritch 、 Bernard Alexander Christian Quaritch (1819年4月23日 - 1899年12月17日)は、ドイツ生まれの英国の書店とコレクターです。 Quaritchはドイツの Worbisで生まれました 。 書店に弟子入りした後、彼は1842年にロンドンに行き、出版社のヘンリー・ボーンに雇われました。 1847年、彼はレスター・スクエアから本屋の事業を始めた。英国の主題として帰化した。 1848年、彼は外国と英語の書籍の毎月のカタログを発行し始めた。 1858年頃、彼は珍しい本の購入を始めました。その中で最も早く購入されたものの1つはマザリン聖書のコピーであり、40年の間に、この希少価値の高い版を6つ別々に持っていました。
1860年に彼はピカデリーに移りました。1873年、彼はすべての国の印刷機の初期制作の著名なカタログBibliothecaXylographica、Typographica et Palaeographicaを出版しました。 彼はヨーロッパとアメリカのすべての主要書籍販売で通常の買い手になり、時々、古書の他のさまざまなカタログを出版した。 これらの中にはSupplemental Catalog (1877)、1880年には2,000ページを超える膨大なカタログがあります。 彼の株式の最後の完全なカタログは1887-88年に、古書と写本の総合カタログのタイトルの下で7巻で出版され、その後の補足で12枚増加した。 これらのカタログはすべてかなりの書誌的価値があります。 この時までに、クォリッチは世界の古い本の中で最大の貿易を生み出しました。
 
 
 彼が出版した本の中には、 Edward FitzgeraldのOmarKhayyámの翻訳があります。 彼は大英博物館と古代社会学の刊行物の代理人でもあった。 彼はロンドンのハムステッドで亡くなり、息子のバーナード・アルフレッド・クォリッチ ( Bernard Alfred Quaritch 、1870-1913が、ロンドンで父親の事業を続けました。 →ウィキBernard Quaritch

 「ジョルダン」2017-4-27-阪急梅田駅の商業施設「阪急三番街」(大阪市北区)が27日、リニューアルオープンした。梅田エリアに初出店する新業態の店舗をはじめ73店舗が開業。ターミナル駅直結の好立地を強みに、働く女性や家族連れの利用を見込む。 阪急電鉄と阪急阪神ビルマネジメントが北館と南館の一部を改装した。36店舗が新たに出店したほか、既存の37店舗をリニューアル。阪急三番街は合計で253店舗になる。 (略)南館1階には紀伊國屋書店に隣接して「うめ茶小路」が誕生。「阪急古書のまち」から古書や美術品などを扱う9店舗が移転開業した。併せてメード・イン・ジャパンにこだわったバッグやメガネなどの専門店が開店した。

 『毎日新聞』2016年12月5日ー大阪の代表的な古書街「阪急古書のまち」(大阪市北区)が来春、約150メートル南の阪急三番街に移転することになった。1975年12月に開業し、司馬遼太郎らも通った。店主らは「新たな場所で新たなお客との出会いがあれば」と話している。 古書街関係者によると、阪急側から昨年、移転の打診を受け、今年夏、現在と同じ営業時間を条件に店主側が移転に同意した。営業中の12店舗のうち9店舗が移転する。新しい古書街は、京都の町家を思わせる外観にするという。来年4月中旬をめどに現在地での営業を終了し、4月下旬に移転先で営業を再開予定。 移転先は、紀伊国屋書店梅田本店の東隣。古書街関係者は「紀伊国屋書店には本好きが集まっており、新たなお客さんとの出会いにつながることを期待している。今まで以上にお客さんの期待に応えられる街になる」と話した。【道下寛子】 〇1993年7月10日、阪急古書のまちの藤沢書店で、八尾市に古書の買い付けで来阪した村口一雄・第一書房社長と偶然出会い、喫茶店でコーヒーを飲みライオンズホテルへ案内した。梯梧屋、沖縄関係資料室へ同行したことがある。陸橋の階段を上るときしんどそうであったので聞くと肺が半分無いと言われた。


→「萬字屋書店」

「うめ地下」にあった萬字屋書店本店、2014年12月25日に移転、オリエントハウス萬字屋がオープン。/天牛書店、大阪府吹田市江坂町、大阪市北区の天神橋店の2店舗およびインターネットでの営業を行っている。


山阪神社近辺にあった、ムラタ書店/日之出書房 今里本店・大阪府大阪市生野区新今里4-10-10
2017年3月31日、今里本店・近鉄今里店を閉店。→平野喜連店 〒547-0026 大阪市平野区喜連西4-6-59


阪急東書房/四貫島にあった杉本書店古書部



 「山羊ブックス」2012年6月ー1980年(昭和55年。画像は「大阪スタジアム興業株式会社 三十年の歩み」より拝借しています。当時、大阪球場ができてから丁度30年だったそうです。)大阪球場なんばん古書街 14店が集結、約160坪 18年間営業。1998年(平成10年)球場の解体のため移転。現在の南海なんば古書センターがこれに当たる。このときは5店だった。画像はなんばん古書街時代、右入口からはいって、左側すぐが福永書店。その並びは下山書店、平田書店、奥がイサオ書店だった。


○右側下の天牛新一郎のハガキに「今度長い間御贔屓に相成りました道頓堀角座前の天牛新一郎書店が家主さんの一身上の都合で立ち退く事になりました。誠に残念でございますが、9月15日を持ちまして閉店させて頂きます。これから孫の高志の周防町店を手伝ってやろうと思っております。私もこの11月で88歳になります・・・・