私にとって、絵本は保育園や幼稚園を連想する。敗戦前の那覇市内の幼稚園をみる。1876年に東京に官立の「東京女子師範学校附属幼稚園」が設立されている。那覇では遅れて、1893年に天妃尋常高等小学校附属幼稚園が設立された。1907年4月、真教寺の田原法馨らが真教幼稚園を設立している。同年1月の『琉球新報』に森柳子が「愛花幼稚園生に就いて」を書いている。翌年11月の『琉球新報』には「森柳子主宰になれる那覇区内字久米安仙坂の善隣幼稚園は元愛花幼稚園の改称せしもの」とある。1930年に永田ツルが愛泉幼稚園、32年に那覇市が上山幼稚園を設立した。33年には八重山でヤエマ幼稚園が設立されている。
□→2004年1月 斎木喜美子『近代沖縄における児童文化・児童文学の研究』風間書房
 沖縄県立沖縄図書館の初代館長は言うまでもなく伊波普猷であるが、厳密には嘱託館長で正式な館長になったのは12年後である。伊波の図書館には当時としては画期的な児童室があった。ここで、その背景をみてみる。1874年、新島襄がアメリカでの修行と勉学を終えて帰国。故郷の群馬県安中に一時帰郷した。そこでアメリカ文化やキリスト教の話を若者たちにした。その中に16歳の湯浅半月も居た。1875年11月、新島襄は山本覚馬、J・D・ディヴィスと協力して「同志社英学校を」を設立した。1877年、半月は同志社に入学。

1885年10月 湯浅半月(本名吉郎)『十二の石塚』(一大長編叙事詩)湯浅吉郎
 1885年に渡米しオハイオ州オペリン大学神学科やエール大学で学んだ。1891年、帰国し直ちに母校同志社の教授。1899年に平安教会の牧師。1901年に新設の京都帝大法学部講師となり大学附属図書館事務にも従事した。
 1900年9月、伊波普猷は京都の第三高等学校に入学。01年夏に京都でコレラ流行、伊波は一時東京に避難したという。このころ極度の神経衰弱で、気を散らすため考古学会に入り宇治辺りまで出かけた。また西本願寺の仏教青年会主催の講義や平安女学園音楽講師だったオルドリッチ女史のバイブルクラスにも出入りした。伊波は03年7月に第三高等学校を卒業し9月、東京帝大文科大学に入学した。
 1902年、湯浅半月(44歳)はアメリカへ図書館事業調査のため旅立った。アメリカではシカゴ大学図書館学校、オルバニー市の図書館学校で貸出の必要性と児童室の必要性を学んだ。1904年、半月は京都府立図書館長に就任。京都府は09年に岡崎公園内に工費15万円を投じ、図書館本館を完成(□→武田五一)。そこには日本最初の児童閲覧室が設けられた。また半月はM・デューイの「十進分類法」を取り入れ「和漢図書分類目録」(美術工芸編、歴史地誌編等10分類全16冊)を刊行した。このときの蔵書は現在、京都府立総合資料館にある。因みに京都府立図書館の一部と、奈良県立図書館( http://www.library.pref.nara.jp/index.html )の建物は移築され今も残っている。
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京都府立図書館長

 1906年、宮古の比嘉財定が第五高等学校を終え東京帝大法科大学に入学した。在学中、柳田國男に出会い、比嘉は柳田に「比嘉村の話」をする。比嘉は10年7月に東京帝大を卒業。農商務省勤務を経て1915年にアメリカ留学。17年にカリフォルニア州立スタリント病院で死去。
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奈良県立図書館ー1908年に奈良公園内に建てられたもの。昭和43年に郡山城内に移築された。 1909年8月、伊波普猷は3週間にわたって鹿児島、山口、大阪、京都、奈良の図書館を視察する。そこで伊波は財政的規模を奈良図書館に求め、運営に関しては湯浅半月京都図書館長のアドバイスを受けた。



2014年1月8日~20日 沖縄県立図書館「奈良県立図書情報館交流展示」

「戦争体験文庫」は、奈良県立図書情報館3Fの戦争体験文庫コーナーで公開。戦中戦後の体験に関する資料群で、全国の方々からの寄贈によって成り立っています。現在約5万点の資料を収集しています。 「戦争体験文庫」が当時の人々の思いや生活を知る手がかりになることを願っています。→奈良県立図書情報館

□1910年7月、伊波普猷は関西において比較的規模の狭小なる奈良県立図書館を視察し、湯浅京都図書館長のアドバイスを受けて沖縄県立沖縄図書館の図案を調製し其の筋へ提出したと、新聞に報じられた。私は、2008年5月8日に奈良県立図書情報館を初めて訪ねた。2Fで「Yahoo!」と「Google」の日本、アメリカでのサービス開始時期をみる。いずれも1990年代である。3Fで司書の人をわずらわして同図書情報館の前身で1909年に開館した奈良県立図書館の建物の写真を調べた。建物は戦後も図書館として使われたが、奈良県文化会館・図書館建設にともない。大和郡山城内に移築された。図書情報館の帰途、郡山城を訪ね、旧図書館の建物が今も健在で教育施設になっている。初期のころの奈良県立図書館長は奈良県内務部長が兼任していて、初代館長が小原新三、2代目が川越壮介であった。川越はのちに沖縄県知事となる。伊波普猷がアドバイスを受けた湯浅京都図書館長は湯浅吉郎(半月)といい明治・大正期の一流の文化人であったことは、1998年10月発行の京都府立『総合資料館だより』に詳しい。1909年4月に京都府立図書館の新館が岡崎に開館した。設計者は武田五一で湯浅館長は早くから児童閲覧室を設けていた。

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湯浅半月京都図書館長。伊波普猷は沖縄県立沖縄図書館創設にあたって半月のアドバイスを受けている。京都図書館は1909年2月落成した。現在は外観だけ残して、後ろにガラス張りのビルが新築された。 
 1910年5月、伊波の友人、八重山の岩崎卓爾が図書館に新渡戸稲造『英文武士道』など、漢那憲行が薄田泣菫『二十五弦』ほか、浦添朝忠は『資治通鑑』など700冊を寄贈。6月には末吉麦門冬が『俳句の研究』『蜀山人全集』などを寄贈している。かくして琉球学センターとも云うべき沖縄県立沖縄図書館は8月1日、那覇の南陽館で開館式を迎えた。折りしも8月22日は「日韓併合」があった。沖縄図書館の児童書は「中学世界、少女世界、少女之友、少年之友、日本少年、少年、少女、幼年之友、幼年画報」などがあった。
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1910年7月31日『沖縄毎日新聞』


丸岡莞爾と「琉球史料」
丸岡莞爾1836-1898 幕末-明治時代の官僚,歌人。
天保(てんぽう)7年5月28日生まれ。鹿持雅澄(かもち-まさずみ)に国学をまなび,坂本竜馬(りょうま)らとまじわり脱藩して長崎にすむ。維新後,内務省社寺局長などをへて沖縄県知事,高知県知事となる。明治31年3月6日死去。63歳。土佐(高知県)出身。本姓は吉村。字(あざな)は山公。通称は三太,長俊。号は建山,掬月,蒼雨など。歌集に「蒼雨余滴」。(コトバンク)

1887年2月、森有礼文部大臣が来沖した。6月、尚家資本の広運社が設立され球陽丸を那覇-神戸間に運航させる。11月に伊藤博文総理大臣、大山巌陸軍大臣が軍艦で画家の山本芳翠、漢詩人の森槐南を同行して来沖した。1888年4月に大阪西区立売堀南通5丁目に琉球物産会社「丸一大阪支店」を設置する。9月18日に丸岡莞爾が沖縄県知事として赴任。10月には塙忠雄(塙保己一曾孫)を沖縄県属として赴任させる。丸岡知事在任中、琉球塗の監獄署にての改良、夫人による養蚕の奨励、歌人として護得久朝置、朝惟らと歌会での交友。そして「琉球史料」の編纂をさせた。1892年7月 沖縄県知事を解任され、故郷の高知県知事に転出。

<資料>1992年4月 南西印刷出版部『地域と文化』第70号 池宮正治「丸岡莞爾沖縄県知事の演説(速記録)」
1992年8月 南西印刷出版部『地域と文化』第72号 望月雅彦「丸岡莞爾関係資料にについて」

丸岡桂 まるおか-かつら
1878-1919 明治-大正時代の歌人,謡曲研究家。
明治11年10月17日生まれ。丸岡莞爾(かんじ)の長男。歌誌「あけぼの」「莫告藻(なのりそ)」を創刊する。明治36年板倉屋書房を創立し,義弟松下大三郎と「国歌大観」を刊行。のち謡曲研究に専心,観世流改訂本刊行会を設立し,大正3年「謡曲界」を創刊した。大正8年2月12日死去。42歳。東京出身。号は月の桂のや,小桜など。→コトバンク
丸岡明 まるおか-あきら
1907-1968 昭和時代の小説家。
明治40年6月29日生まれ。丸岡桂(かつら)の長男。昭和5年「三田文学」に「マダム・マルタンの涙」を発表。戦後「三田文学」復刊につくす。能楽の普及と外国への紹介にもつとめた。昭和43年8月24日死去。61歳。東京出身。慶大卒。著作に「生きものの記録」,「静かな影絵」(41年芸術選奨)など。→コトバンク

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薬師寺:奈良市ホームページ

1971年11月ー琉球新報社、沖縄、那覇、名護の青年会議所と共催で文芸評論家・村岡剛と薬師寺管主・高田好胤を招き「文化講演会」開催。
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高田好胤と真喜志康徳
高田好胤 たかだ-こういん
1924-1998 昭和-平成時代の僧。
大正13年3月30日生まれ。昭和10年12歳で奈良の薬師寺にはいり,橋本凝胤(ぎょういん)に師事。戦後薬師寺参観者のガイド役をつとめ,修学旅行生らに説教をつづける。42年同寺管主,43年法相宗管長。金堂の再建を計画し,100万巻般若心経写経勧進をおこす。51年落慶,のち西塔も再建。平成10年6月22日死去。74歳。大阪出身。竜谷大卒。著作に「心」「愛に始まる」など。
【格言など】やたらに忙しいのはどんなものでしょう。「忙」という字は「心が亡びる」と書きます。→コトバンク
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薬師如来、右が日光菩薩、左が月光菩薩



1924年2月 沖縄県立沖縄図書館『琉球史料目録』
伊波普猷が書いている県庁の琉球史料について説明しておくと、沖縄県政に資するための旧慣調査書類(目録に「旧慣早見」)と、丸岡知事が分類編成させた琉球史料(目録に「琉球史料総目録」)が主なもの。
笑古・真境名安興
伊波普猷、東恩納寛惇の名を冠した賞はあるが、真境名安興賞は聞いたことがない。無理もない、その業績がボーダーインクによって編集され琉球新報社から発行されたのが1993年2月のことであるから。今年は沖縄県立図書館100年ということなので沖縄県がその賞を考慮してもバチが当たらないと思う。真境名安興は伊波普猷と一緒に県立図書館の基礎をつくり、且つ第二代沖縄県立図書館長だからである。其れはさておき『真境名安興全集』の全集の編集には私(新城栄徳)も協力した。「真境名安興全集だより」№3(1992年9月発行)に「真境名安興の資料がこのほど新城栄徳氏により『図書館雑誌』から見つかった。これまで台湾へ行ったということは知られていたが、東京・京都に行ったことは知られていなかった。中央の記事なので真境名自身の細かい日程は不明」と記されている。
「真境名安興全集だより」№1(1991年12月発行)新城栄徳「『笑古漫筆』の魅力」
随筆と言えば『日本随筆大成』の全集がすぐ頭に浮かんでくるが、とくに江戸末期の国学者の高田与清(松屋)は京都の古書店で直筆の短冊を入手して以来、その随筆『松屋筆記』や、孫の高田早苗(早稲田大学総長)の自伝など愛蔵している。沖縄関係で頭に浮かぶのが東恩納寛惇の『童景集』や「有余録」、尚順の「鷺泉随筆」、山城正忠の「蠧房雑記」や「乾闥婆城」、末吉安恭(麦門冬)が『日本及日本人』に連載した随筆などであるが、ここでは真境名安興の「笑古漫筆」について私事を交えて紹介する。
 真境名安興の原稿本「笑古漫筆」は1940年の末、神戸の奥里将建が古書店の図書目録で見つけて入手した。本来は真境名安興の備忘録で、甥の真境名安宜が1935年3月『琉球新報』に整理して連載するにあたって「笑古漫筆」としたものだろう。伊波普猷の「真境名君の思い出」に「明治43年にいよいよ県立図書館が新設されて、私はその館長を嘱託されました。最初に買い取った書籍は、官生津波古親方の蔵書の殆ど全部で、それに義村浦添両御殿の蔵書の寄贈があり、間もなく県庁の琉球史料約5千冊が移管されたので、それを整理するために私は同君(真境名安興)に手伝ってもらうことにしました。(略)また、沢山の備忘録をもっていましたので、帯には短く襷(たすき)には長いといったようなものは、随筆の形式で後世に遺すようにすすめたこともありました」とあるから、伊波普猷も真境名の備忘録の存在は知っていた。
 「笑古漫筆」には余り知られていない琉球史料の久米村例寄帳からの抜書きが多く貴重である。また、知られざる人物も紹介されている。世に言う「按司系図」、「長浜系図」とか呼ばれている系図の作者、長浜里腆について、笑古漫筆の昭和3年のところに「長浜(崎山)は近代の学者又吉全道翁の師なり、長浜系図といふものありしと廃藩後2,3年にして死亡せりと(高くして痩せ型なりしといふ)今居れば百余歳ならんと(略)
置県前に秘本たる球陽を手抄批評した人で性剛直、人と合わず、その一族たる友人の話によると、彼は首里崎山の産でその書斎には書籍がいろいろ積まれてあった。聖経なども批評したので当時の官憲から睨まれ、彼は異端者であるとして入牢仰せつけられた」とある。屋良朝陳の『琉歌集』から長浜の歌を紹介しておこう。「鷲の鳥てしや空に飛ぶばかり 暁の鶏や国の宝」。


読書禮讃
 人間の智識の八十六パーセントは、眼から得られるといふことで、読書の効力の偉大なる一面を禮讃されますが実に図書館の利用は学校教育と社会教育を兼ねて、即ち生徒のときから社会に出て働き、功成りて棺を蓋ふまで=その実益と趣味に生きて=の連続です。
 今日のスピード時代に、読書人の模範とさるべき英国の労働宰相マグドナルド氏は「日に読書四時間、著作三時間、これぞ地上の楽園である」と六十五歳の彼は傲語しています。彼は世界中で最も忙しい第一人者ではありませんか。
 一日一ページ侮り難し」などといふわれわれの標語どころではありません。当館は蔵書二万冊、全国でも中位の位置を占めています、蔵書分類を御覧になって愉快に利用して下さる様にしたいのであります。 沖縄県立沖縄図書館