私たちの京都沖縄青年グループ(都沖青)は京都三条河原町にある松田祐作さん経営「琉球料理・守禮」に連絡所を置き、表札や名簿も作ってもらった。近くの三条大橋で鴨川を渡るとエイサーの元祖、袋中上人が開創した檀王法林寺がある。

 1970年12月、私は京都鳴滝にある沖縄学生たち(同志社大・立命館大)の借家のひとつ、山口浤一さんの部屋に居た。沖縄から帰ったばかりの山口さんの婚約者が興奮さめやらぬ口振で語る「コザ騒動」の話を学生たちと聞いていた。沖縄学生たちの機関誌は、1964年、京都在学沖縄県学生榕樹の会『がじゅまる』、65年、同志社大学大学沖縄県人会『珊瑚礁』、67年、関西沖縄県学生会『新沖縄』などがあった。
1973年  福木, 詮『沖縄のあしおと―1968-72年』 (岩波書店)儀間比呂志「表紙版画」

1974年4月、司馬遼太郎が沖縄関係資料室に来室、西平守晴と対談  司馬遼太郎『街道をゆく6』朝日新聞社
○大阪の都島本通で、篤志でもって「沖縄関係資料室」をひらいていおられる西平守晴氏にもきいてたしかめることができた。西平氏は、「そうです、そんな話があります」といって、南波照間の「南」を、パイと発音した。ついでながら本土語の南風(はえ)は沖縄でも「南」の意味につかう。本土語の古い発音では、こんにちのH音が古くはF音になり、さらに古くはP音になる。つまり花はパナである。八重山諸島の言葉はP音の古発音を残していて、南(ハエ)が南(パイ)になるらしい。西平氏はこのまぼろしの島を、「パイ・ハテルマ」と、いかにもその島にふさわしい発音で言った。

〇石垣島の石垣という以上、島主だった家なのかと思って、その家の中年婦人(末吉麦門冬の娘・石垣初枝)にきくと、「もとは大浜という姓だったそうです。何代か前に石垣と変えたときいています」ということだった。家の人の説明によると、「このお庭は、文政2(1819)年の作だということです。庭師は首里からきました。方式ですか、日本の枯山水です」ということだった。枯山水というのは池もなく遺水もなしに石組だけで山水を表現する作庭形式だが、滋賀県の園城寺金堂の庭園などを見ると、平安期からこの思想はあったらしい。しかし完成したのはよく知られるように室町期からで、この様式が江戸期に八重山諸島にまで及んでいたということは、不覚にも知らなかった。/ごく最近、古美術好きの私の友人(鄭 詔文)が、沖縄へ行った。かれは在日朝鮮人で、齢は五十すぎの、どういうときでも分別のぶあつさを感じさせる人物である。
nullnull

null
写真左/1999年5月11日沖縄ハーバービューホテルで神坂次郎氏(作家・熊野の生き字引で司馬遼太郎の文学仲間)、新城栄徳。末吉麦門冬の取材を終えての祝盃。撮影・末吉安允
写真右/1974年4月、司馬遼太郎が沖縄関係資料室に来室、西平守晴と対談。

null null

null
京都市美術館「第49回 京展」新城さやか「キジムナー」

null



 出口王仁三郎は辛未 かのと ひつじ の1871年8月27日(明治4年旧7月12日)生まれ - 1948年(昭和23年)1月19日)。2015年の干支は「乙未(きのとひつじ)」。
1921年1月出口王仁三郎『瑞能神歌』大日本修斎会出版局
○りう球につづく台湾澎湖島、御国に遠きこの島に、心を配れ日本人(やまとびと)、外国魂のここかしこ、国売る曲(まが)の多くして、主人の留守の間鍋たき、柱を崩すカミ斗(ばか)り、ヤンキーモンキー騒ぐとも、降る雨リカを防ぐ由なし。
(略)
○むかしの神の仕組まれし、最も便利な世が参り、蒸気、電気の働きで、三千世界を近よせる、交通機関も完備して、千里万里も夢の間に、是も昔の神代から、神の御裔の奇魂、奇しき力の賜ぞ。艮金神①現れて、世界一つに統べ玉ふ、天の時節の来たものを、訳の分からぬ人民が、人智や科学の活きと、誤解して居る憐れさよ。
①「艮の金神」とは、日本に古くから伝わる陰陽道の言葉です。「金神」とは“祟り神”のことで、また「艮」(うしとら)とは東北の意味で、もっとも恐れられている“鬼門”(きもん)の方位です。したがって、「艮の金神」とは数ある金神の中でも、もっとも恐ろしい鬼門の方位にわだかまる“猛悪の祟り神”ということになります。→大本
王仁三郎が説くように、今では東洋も西洋もチャンポンの一つのネット世界である。

1928年ー辰年の元旦を琉球で迎える出口王仁三郎
1927年8月ー出口瑞月『道之大本』「先祖は昔の吾であり、吾は此の世の先祖である。子孫は未来の吾である。故に吾の身は独りのものではないから、祖先のためには道を守り力を尽くし、十分に善を尽くし徳を積まねばならぬ」

1927年12月28日ー出口王仁三郎一行、西表島船浮着。29日は宮古島。31日は那覇港。信者の謝花雲石ら62名が沖縄支部に集まる。慶留間知徳、志良堂清英琉球新報記者、豊平良顕沖縄朝日新聞記者、沖縄タイムス記者来訪。

1928年1月1日ー午前10時過ぎ人力車を列ねて波の上神社に参拝す。斎神は諾册二尊、速玉男命、事解男命にて、綾部の権現様と同祭神なり、元旦に正式参拝をされしも偶然に非ざるべし。(略)
null
出口王仁三郎ー波上宮ちかくの岩にて

1月2日ー雨は止みたれど風強く本日出帆すべき基隆丸朝の内入港せず。午前10時、自動車二台にて首里に行く。簡単んる塩田を左右に見ながら盆景式の纏まりたる小丘を廻り、首里城跡を見る。(略)棟の大龍神は台湾式よりも偉大にて、正面、左右にも奇形なる龍神の石柱を建てたり。→聖師様琉球大島御旅行記

出口王仁三郎「龍神の顎の玉の初日の出 球の島根に拝みけるかな」「龍の顎の玉をば取りて きみの土産にして見たい」


出口王仁三郎 書「龍」

null
出口王仁三郎聖師『歌日記』

null
出口王仁三郎聖師『歌日記』


1931年3月18日 天恩郷での王仁三郎、頭山満②、内田良平③
②頭山満
国家主義者。福岡県生。萩の乱に通謀して入獄。出獄後、向陽義塾を起して青年の教育に当たり、ついで玄洋社を創設、超国家主義を唱えて大陸進出を主張。以来黒龍会等の大陸浪人を支配し、国家主義運動の重鎮として政界の裏面に暗躍した。昭和19年(1944)歿、90才。 →コトバンク
③内田良平
国家主義運動家。福岡県生。黒龍会を組織し日露開戦を主張、また日韓合邦を推進し、辛亥革命に際しては孫文を助け、革命派を援助した。のち大日本生産党総裁に就任、常に国家主義の代表者として国民運動の中心的存在であった。昭和12年(1937)歿、64才。 →コトバンク
1957年8月ー出口王仁三郎『大本の道』「古今東西聖者の説をとりまとめ活かすは弥勒の働きなりけり」「画や歌に筆はしらせて天地の神のいさをわれはひらくも」

出口王仁三郎「まだ人の夢にも知らぬ神界の奥義を漏らす霊界聖談」「日地月をあわせてつくる串団子星のゴマかけ喰ふワニぐち」「日地月星のダンゴも食いあきて今や宇宙の天海をのむ」「主の神はあまつ月日を生みまして森羅万象を育てたまえる」

出口王仁三郎「登龍」(部分)

○1962年2月 出口栄二、琉球訪問ー沖縄戦の体験を金城真行、謝花雲石から聞く/7月19日、出口栄二、北京で周恩来と会見
null
1972年2月10日ー出口直美・栄二御夫妻を中心に大本琉球主会で「琉球国魂鎮座祭」。主会屋上で
〇沖縄那覇の大本琉球主会での出口直美・栄二①夫妻列席のもと行われた「琉球国魂神鎮座祭」には私も参加した。上田正昭氏の自宅は瑞泉郷に隣接しており何かと大本には縁がある。当時、京都で発行されていた『日本のなかの朝鮮文化』の執筆常連でもあった。沖縄との関わりも多い。私も朝鮮文化社にはよく遊びに行き、編集室奥の部屋で鄭詔文さんのコレクション、李朝の白磁などの陶器を見せてもらった。


愛善苑でー出口三平氏(左)1946年佐賀県生まれ。京都大学文学部哲学科宗教学卒業。大本の教学研鑽所に勤務後フリーに。主に出口王仁三郎の宗教思想や活動を研究。共著に『スサノオの宇宙へ―出口王仁三郎の「霊界物語」を語る』『新宗教時代〈1〉大本』など。 /1995年ー右が琉球での出口信一氏(1949年8月~2009年9月)

1997年10月31日『沖縄タイムス』新城栄徳「出口王仁三郎 予言の芸術展」





 沖縄県護国神社の鳥居には日本民主同志会・松本明重とある。かつて1971発行の平良盛吉『関西沖縄開発史 : 第二郷土をひらく 』を援助し日本民主同志会本部名で発行していた。松本は世界救世教外事対策委員長、祇園すえひろ会長だが、沖縄に関わり、「京都の塔」「小桜の塔」などに碑を建てている。松本は東本願寺紛争にも名が出てくる。相対する西本願寺、第22世門主の大谷光瑞は、戦前の沖縄新聞に、「光瑞来沖か」と云う記事を見たことがあるが、結局来なかったようである。その代わりというか弟の大谷尊由が1918年2月に来沖し相当に歓迎されたようである。 


1979年12月 三宅忠一『日本の陶磁14 民窯』保育社
 「元祖スエヒロ」という「しゃぶしゃぶ」の店を経営している大阪日本工芸館長の三宅忠一である。館長は金光教本部のある岡山県玉島出身で、館長もその信仰に篤い。この人も沖縄民芸振興などに力を入れていた。私は難波の日本工芸館はよく行くところで、ここで館長と親しく熱心に会話する儀間さんを見た。このときは儀間さんも館長も面識はないので挨拶はしなかった。1973年、通産省が企画した第一回沖縄民芸振興展を日本民芸協団(三宅忠一理事長)の主催で東京、大阪、福岡で開催した。74年の第二回展の小冊子の表紙は儀間の版画「赤瓦の屋根の下で織物をしている女性」で、「表紙のことば」としてその解説も載っている。75年「紅型染色の城間栄喜父子」、76年「沖縄ガラス」、77年「琉球玩具」、78年「シーサー」も同様である。

沖縄展(那覇市民会館中ホール)のチラシ