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1982年4月13日 「啄木忌」「沖縄啄木同好会」発足〇中列中央が比嘉晴二郎
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1977年10月16日 真教寺境内「石川啄木歌碑除幕式」
啄木歌碑の前列左から外間政彰、比嘉晴二郎、藤田嗣治画の山城正忠像を手にしているのが國吉眞哲、左に宮里栄輝、その後が末吉安久、右が正忠の息子の山城守一。歌碑の右側前列、真教寺住職の田原惟信。その後が喜納勝代、右へ4人目が真喜志康徳、屋部公子。

藤田嗣治画「山城正忠」


1982年9月9日ー『河北新報』南条範男(仙台啄木会会長)「沖縄の啄木歌碑ー県民の”共通の心”に密着ー」
□沖縄の歌人と歓談ー沖縄県那覇市在住の真教寺境内に啄木歌碑が建立され、その除幕式が行われたのは、昭和52年10月16日だった。東北、北海道には、たくさんの啄木文学碑がある。それらは、ほとんど啄木と何らかのかかわりがあり、それに基づいて建立されている。
しかし沖縄は、啄木にとって未踏の地である。私は建立されたころから訪ねたいと思っていたが機会がなく、やっと今年の3月、碑を訪ねることができたのである。
雪がちらつく仙台から3時間余りで那覇市に着いた。地元の歌人、國吉眞哲氏をはじめ屋部公子さんら数人と真教寺でお会いした後、席を移して歓談の機会を得たことは誠に幸いであった。そもそも啄木歌碑を建てたのは、國吉氏である。國吉氏は、明星の歌人、山城正忠氏を歌の師とする方なのである。
山城正忠氏は那覇の生まれで、明治40年ごろ、東京で歯科修学中、新詩社に入門して与謝野鉄幹、晶子夫妻に師事、啄木との交流もこのころだった。啄木日記に山城氏のことが書かれている。啄木は、山城は感情家すぎて、歌にも感情が入りすぎると言っていたようである。(略)

写真左から山城正忠、国吉真哲、糸数祥運、宮城長順/扁額「護国寺」は汪楫(1621頃~1689尚貞の冊封正使。字は舟次。安徽省休寧県の人。冊封時の官は翰林院検討。1683年に林麟とともに来琉した。『中山沿革志』『使琉球雑録』『冊封疏鈔』を著す)の書

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坂西志保の先駆的仕事によって石川啄木の作品が初めて英訳されたのは1934年であった。

1947年12月 坂西志保・譯者『詩集 一握の砂』讀書展望社(新城良一氏所蔵)〇坂西志保 1896年東京生まれ。教職を経て1922年渡米、ミシガン大大学院卒。米議会図書館日本部長などをつとめ、1942年帰国。戦後は参議院外務専門調査員等を歴任。評論家としても活動した。おもな著書に『狂言の研究』『時の足音』、訳書に『一握の砂』(英訳)『カーネギー自伝』など多数。1976年歿(みすず書房)。→古書の森日記 by Hisako「2005年11月01日 石川啄木、坂西志保訳『A Handful of Sand』」


1985年4月17日 琉球新報社・沖縄啄木同好会主催 「’85啄木忌 記念講演会」講師・渡辺喜恵子
わたなべ‐きえこ〔‐キヱこ〕【渡辺喜恵子】
[1914~1997]小説家。秋田の生まれ。本姓、木下。郷土に根ざした作風の歴史小説などを執筆。南部藩の御用商人の家族を描いた大河小説「馬淵川」で直木賞受賞。他に「啄木の妻」「原生花園」など。→コトバンク


沖縄県歌話会1982

釧路市


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(撮影・渡部貴子)







石川啄木

1964年12月 金田一京助『思い出の人々 金田一京助随筆選集2』三省堂


1996年7月 太田愛人『石川啄木と朝日新聞』恒文社

 初詣で沖縄県仏教会発行「れんげ」第85号をもらった。真教寺の田原大興副住職が「現代社会を末法五濁の世であると断言はできませんが、多少なりとも当てはまる部分はあると思います。近代の人類の活動によって土壌や大気は汚染され、自然環境はバランスを失い、たくさんの生物が絶滅しています。竟には戦争や温暖化、放射能汚染に至って私たち人類が害を受けることになりました。仏教はこのような人類の未来に、遠い昔から警鐘を鳴らし続けていたのです。(略)私たちは、今どんな時代を生きているのかを再確認し、そして一人ひとりが自身(正報)の生き方を見つめながら、自然環境(依報)との関係回復を考えることが大切ではないでしょうか。」と説いている。
(撮影・渡部貴子)

1973年1月 沖縄の雑誌『青い海』20号 瀬良垣宏明「沖縄の歌人 山城正忠の人と歌」
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1980年6月 瀬良垣宏明『とぎすまされし剣』明徳学院

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謝花雲石「山城正忠歌碑」
1961年3月18日 那覇市波上宮「山城正忠歌碑除幕式」



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山城正忠歌碑「朱の瓦屋根の糸遊(かげろう)春の日にものみなよろしわが住める那覇」


昭和8年3月『冬柏』第4巻第4号




2017-7-18 那覇市若狭の朱の瓦屋根


2017-7-27 那覇市若狭の朱の瓦屋根
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 今は亡き国吉真哲翁は個人紙『小春秋』を1967年11月の文化の日に発行している。1968年の12月発行の5号には大城立裕さんの「書斎内外」が載っている。



 備仲臣道:ヴ・ナロードと彼が書いたとき、彼の体はすでに病んでいた。けれども死が彼に行動を起こさせなかったのかと言えば、そうではなく、行動を起こせなかったのは、啄木の思想の致命的な欠陥ゆえにである。思想の幼ないことを責めはしない。現にこの時期、日本の社会運動の思想は幼なかった。日本の社会主義を代表していた幸徳秋水でさえも、自由党左翼の残渧を引きずっている程度のものであった、と荒畑寒村の『自伝』(板垣書店)にはある。だが、啄木の場合は、幼ないではすまないものがあった。
 一九〇九年、啄木は岩手日報に寄せた文の中で「既に憲法が国民の権利を認容した以上、最大多数の安寧福利を目的としなければならぬことは勿論で、此第一義が間違ひでない限り、立憲国の政治は当然社会主義と称する思想の中、其実行し得べき点を採りあげて政策の基盤とすべき先天的の義務を有する」と定義している。(岩波文庫「啄木歌集」の斎藤三郎による解題)
 ここにいう憲法とはもちろん大日本帝国憲法のことで、それは天皇主権を基本原則としている。なんと、啄木はそういう憲法のもとで、つまり天皇を戴いた社会主義と言っているのである。いったい、彼の言うロシアの青年たちはなんの圧制と闘っていると思っていたのであろうか。彼の言うテロリストはツァーリの圧制に対して刃を向けていたのではなかったのか。
 さて、ここに前記の「啄木歌集」から引用する十一首の短歌は一九〇九年十一月四日の朝日新聞と翌日の岩手日報に掲載された「十一月四日の歌」と題するものである。長くなるが全部を引いておこう。
  またとなく悲しき祭りをろがむと集へる人の顔の悲しさ
  とぶらひの砲(つつ)鳴りわたり鳴りをはるそのひと時は日も照らずけり
  もろもろの悲しみの中の第一のかなしき事に会へるものかも
  火の山の火吐かずなれるその夜のさびしさよりもさびしかりけり
  御柩の前の花環のことさらに赤き色など目にのこりつつ
  ゆるやかに柩の車きしり行くあとに立ちたる白き塵かな
  目の前にたふれかかれる大木は支えがたかり今日のかなしみ
  くもりたる空より雨の落くるをただ事としも今日は思わず
  しかはあれ君のごとくに死ぬことは我が年ごろの願ひなりしかな
  いにしへの彼の外国(とつくに)の大王の如くに君のたふれたるかな
  夜をこめていたみ給へる大君の大御心もかしこかりけり
 最大級の敬意を払って悲しみが歌われている。これを見た限りは誰のかは不明であるが、葬儀であることは間違いがない。それも盛儀である。
 この日、東京・日比谷公園で盛大に行われていたのは、実は伊藤博文の国葬であった。安重根に射殺された伊藤の遺骸は、彼を哈爾浜へ運んだ特別列車によって長春から大連へ移され、十一月一日、軍艦「秋津洲」で横須賀軍港に入った。午前九時、霊南坂の官舎を出た柩の両側には陸海軍から日露戦争歴戦の将軍たちが従い、会場には朝野の名士多数が参列したという。
 この文章の冒頭に引いたように、やがて「日韓併合」に秋風を聴く歌を作る啄木が、朝鮮侵略の元凶として殺された伊藤の死を、このように悲しんで歌うとはとても考えられない。考えられないことではあるけれど、当時、世間一般では伊藤は維新の元勲で、また朝鮮を平らげた英雄だったのであり、啄木もそのように考えていたのに違いない。であればこそ、伊藤の死を悲しむ歌と「日韓併合」時の秋風の歌との間に、少なくとも啄木の中ではなんの矛盾もない。
 これが啄木の思想の実体である。彼にあっては思想こそは悲しき玩具であった。
 明治憲法下での社会主義を夢想する啄木には、そのときに応じて心地良くでき上がる歌だけが必要だったのであろう。「秋風」や「危機」も、「日韓併合」によって踏みつけられ、血を流して呻吟していかねばならない、朝鮮民衆のことなどまるで眼中になかったのである。大逆事件に対することも同一の思考の上にあったのに違いない。
 啄木の精神は、この歌に象徴されている。
  地図の上朝鮮国にくろぐろと墨をぬりつつ秋風を聴く
 彼は、墨を塗って、「朝鮮」という国号を消したのである。