1887年2月、森有礼文部大臣が来沖した。6月、尚家資本の広運社が設立され球陽丸を那覇-神戸間に運航させる。11月に伊藤博文総理大臣、大山巌①陸軍大臣が軍艦で画家の山本芳翠、漢詩人の森槐南を同行して来沖した。1888年4月に大阪西区立売堀南通5丁目に琉球物産会社「丸一大阪支店」を設置する。9月18日に丸岡莞爾が沖縄県知事として赴任。10月には塙忠雄(塙保己一曾孫)が沖縄県属として赴任した。
 大山柏ー父・大山巌①公爵は維新の元勲の一人で、日清・日露の両戦役では参謀総長や満州軍総司令官として国運を賭けた大勝負で日本を勝利に導き、晩年に至るまで元老の一人として国政の枢機に接した元帥陸軍大将。母・捨松は、明治初年に初の官費女子留学生の一人として11歳で渡米し、11年後に日本人女性として初めて米国大学の普通科を卒業して学士号を得た。柏はその次男。→ウイキ

1922年9月 大山柏『琉球伊波貝塚発掘報告』→翁長良明コレクション
伊波貝塚 いはかいづかー沖縄県うるま市石川伊波にある貝塚。荻堂(おぎどう)貝塚と並ぶ沖縄先史時代(貝塚時代という)前期を代表する貝塚で、国指定史跡。1904年(明治37)鳥居龍蔵(とりいりゅうぞう)によって発見、調査され、20年(大正9)に大山柏(かしわ)の手で本格的な発掘調査が行われ、その結果は『琉球伊波貝塚発掘報告』(岸文庫所蔵)としてまとめられている。

1889年12月11日『大阪朝日新聞』「琉球の和歌」


写真ー丸岡莞爾 まるおか-かんじ
1836-1898 幕末-明治時代の官僚,歌人。
天保(てんぽう)7年5月28日生まれ。鹿持雅澄(かもち-まさずみ)に国学をまなび,坂本竜馬(りょうま)らとまじわり脱藩して長崎にすむ。維新後,内務省社寺局長などをへて沖縄県知事,高知県知事となる。明治31年3月6日死去。63歳。土佐(高知県)出身。本姓は吉村。字(あざな)は山公。通称は三太,長俊。号は建山,掬月,蒼雨など。歌集に「蒼雨余滴」。(コトバンク)


芝原佐一資料
□琉球新報創刊を報じたヤマトの新聞を見ることにする。9月15日の『東京朝日新聞』に「琉球新報の発刊-琉球新報は日刊として沖縄県那覇より本日十五日初号を発刊することとなり主任は同地名族護得久朝惟、高嶺朝教両氏(共に久しく慶応義塾に留学せし人)又東京にても岸本賀昌、今西恒太郎の両氏は同社の成立に尽力せりと」。同日に『時事新報』『郵便報知新聞』『毎日新聞』も同じように報じた。

1893年、京都で平安神宮の地鎮祭が行われ西村捨三が記念祭協賛会を代表し会員への挨拶の中で尚泰侯爵の金毘羅宮参詣時の和歌「海山の広き景色を占め置いて神の心や楽しかるらん」を紹介し、平安神宮建設に尚家から五百圓の寄附があったことも報告された。ちなみにこの時の平安神宮建築技師が伊東忠太であった。同年12月に平尾喜一が父喜三郎と母ハルエの間に生まれた。喜一は後に琉球新報社長となる。

 1894年2月、那覇の南陽館で第8回九州沖縄八県連合共進会が開催された。5月、沖縄尋常中学校生徒(伊波普猷、真境名安興、渡久地政瑚ら)が下国良之助教頭の引率で関西に修学旅行。下国は20歳のとき滋賀の学校に勤めていて中井弘①の薫陶も受けているので関西には知人が多く、どこでも歓迎された。京都滞在中に学生数人は六孫王神社②を訪ねて、天保三年の江戸上りの時に正使が奉納した額を書き写している。

1894年5月20日『日出新聞』

②六孫王神社
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大城弘明氏撮影
1870年□名妓小三-鳥取藩士松田道之と祇園下河原の大和屋お里との間に、ぎん(鈴木小三)が生まれる。

写真ー名妓小三

1870年、回漕会社が東京-大阪間に定期航路を開設し、赤龍丸、貫効丸などが就航した。翌年の7月、廃藩置県が断行され琉球は鹿児島県の管轄となった。この年、のちの琉球処分官・松田道之は滋賀県令に就任。1872年9月に琉球藩が設置されると川崎正蔵も戸籍寮の根本茂樹らと来琉し沖縄物産調査を行った。川崎は「日琉間に郵便定期航路を開き、武断政策よりも経済交流で琉球を日本に依存させよ」と主張して前島密に認められた。

1875年9月、日本国郵便蒸気汽船会社解散にともない明治政府は大有丸を琉球藩に下付。11月、郵便汽船三菱会社が琉球航路を開始した。

1876年8月27日の『朝野新聞』に「沖縄は他県からの商人50人、陸軍省派遣の職工138人、女性1人」と報じられた。同年、琉球正史『球陽』の書き継ぎが終わっている。

1879年3月、松田道之琉球処分官が、後藤敬臣ら内務官僚42人、警部巡査160人余(中に天王寺公園に銅像がある後の大阪市長・池上四郎も居た)、熊本鎮台分遣隊400人をともない来琉し琉球藩を解体、沖縄県を設置した。この時、内務省で琉球処分事務を担当したのが西村捨三であった

1879年5月4日 京都『西京新聞』「琉球ばなし」

1879-5-27 藩王尚泰、東海丸で東京向け那覇港出帆(6-4神戸で2泊)

1880年6月に、郵便汽船三菱会社の貫効丸が琉球、鹿児島・大島、神戸間を運航をはじめた。翌1881年3月に東京上野で開催の第二回内国勧業博覧会に沖縄からも織物、陶器、漆器が出品された。

1881年5月18日に上杉茂憲が沖縄県令として赴任してきた。7月の大阪『朝日新聞』に「沖縄県泡盛酒」の広告が載った。翌1882年の『朝日新聞』の3月「首里城が陸軍省所轄永世保存城と定まる」の記事、6月には「琉球カスリ-西平筑登之」の広告も載った。


1882年11月16日、第1回沖縄県費留学生の大田朝敷、謝花昇、岸本賀昌、高嶺朝教、今帰仁朝蕃が那覇港から平安丸で上京、29日には神戸に寄っている。
1883年4月に岩村通俊が沖縄県令として赴任した。12月には西村捨三が沖縄県令となる。

1884年2月6日、大阪中之島の自由亭で尚典新婚帰郷の饗応に岩村通俊、西村捨三、建野郷三らが参加した。3月12日に大阪西区立売堀に鹿児島沖縄産糖売捌所が設立された。5月12日には大阪北区富島町で大阪商船会社が開業。8月、尚泰侯爵、西村捨三と同行し大有丸で那覇港に着く。→1996年6月『大阪春秋』堀田暁生「自由亭ホテルの創業ー大阪最初のホテルー」

1885年2月、尚泰侯爵、西村捨三と同行し金毘羅宮①参詣。西村は中井弘(櫻洲山人)滋賀県令と計り尚泰に近江八景遊覧にさそう。8月には元彦根藩士で西村と同士であった横内扶が沖縄県七等属として赴任する。9月、郵便汽船三菱会社、共同運輸会社と合併し日本郵船会社となる。1886年3月、山県有朋内務大臣、益田孝、西村捨三らと同行し来沖。

石山秋月 [いしやま の しゅうげつ] = 石山寺(大津市)


写真ー西村捨三
生年: 天保14.7.29 (1843.8.24) 没年: 明治41.1.14 (1908)
明治期の官僚。父は彦根藩(滋賀県)作事奉行西村又治郎,母は貞。幼君井伊愛麿(直憲)に仕え,藩校弘道館に学んだのち同館国学方教授長野義言(主膳)の推薦を得て藩命により江戸に留学,塩谷宕陰に学んだ。この留学中の放蕩に対し,父が幼名の得三郎を捨三に改めると訓戒したのが名の由来。のち一代限騎馬徒士,藩校教授となる。その間京都周旋方として情報収集に当たり,大政奉還後は朝旨遵奉という藩の方針の下で東山道征討に参加した。明治5(1872)年旧藩主直憲に従い欧米を視察,10年内務省に出仕し,警保局長,土木局長などを歴任した。22年大阪府知事に転じ淀川改修,上水道整備に尽力し,次いで農商務次官のとき平安神宮創建に参画。大阪築港にも貢献した。
(コトバンク・長井純市)


①ことひら‐ぐう 【金刀比羅宮】
香川県仲多度(なかたど)郡琴平(ことひら)町にある神社。祭神は大物主神を主神とし、崇徳天皇を配祀(はいし)。海上安全の守護神として信仰される。明治初頭までは神仏習合で、象頭山(ぞうずさん)金毘羅(こんぴら)大権現と称した。琴平神社。こんぴらさん。→コトバンク


写真ー尚泰


「小泉八雲」2005年5月 新城良一・編『ビジュアル版 日本・琉球の文明開化ー異国船来航の系譜』天久海洋文学散歩会

1895年、大見謝恒昌が渡米。後に北太平洋鉄道会社に勤める。
1897年11月20日、比嘉統熈、北京丸で横浜出航。12月4日にサンフランシスコ上陸。→1996年4月北加沖縄県人会『沖縄県人サンフランシスコ移住百周年記念誌』

1899年12月、当山久三の斡旋で第一回ハワイ移民。

1901年4月3日、長崎在住の安仁屋政修(琉球新報通信員)渡米。→1903年2月13日『琉球新報』安仁屋政修「アメリカだより」
1902年、湯浅半月(44歳)はアメリカへ図書館事業調査のため旅立った。アメリカではシカゴ大学図書館学校、オルバニー市の図書館学校で貸出の必要性と児童室の必要性を学んだ。1904年、半月は京都府立図書館長に就任。京都府は09年に岡崎公園内に工費15万円を投じ、図書館本館を完成(□→武田五一)。そこには日本最初の児童閲覧室が設けられた。また半月はM・デューイの「十進分類法」を取り入れ「和漢図書分類目録」(美術工芸編、歴史地誌編等10分類全16冊)を刊行した。このときの蔵書は現在、京都府立総合資料館にある。因みに京都府立図書館の一部と、奈良県立図書館(http://www.library.pref.nara.jp/index.html )の建物は移築され今も残っている

1907年9月14日『琉球新報』比嘉統熈「本県人の世界徒歩旅行」

□1952年12月6日『沖縄タイムス』山田有登「50年前の野球ー捕手以外は空手・潟原で最初の米琉試合」
1903年2月25日  アメリカ艦ビッグ・スバーグ号が那覇に寄港、アメリカ水兵と沖縄中学生が潟原で親善野球試合/乗組員が首里城見学の途中、偶然沖縄中学の野球練習を見て、びっくり。翌日、沖縄県を通じて試合の申し込みをした。沖縄中学チームに沖縄野球の父といわれる山田有登選手も参戦、有登によれば「米兵たちは人力車で乗り込んできた。みんな6尺豊かな大男。言葉が通じないので要領を得ず、英語担任の先生が3人がかりでルールの説明を聞き・・・」。沖縄中学チーム対アメリカ水兵の対戦は3日後の28日にも行われた。 

1904年8月、アメリカ人・レブンウォース来沖→1905年『琉球島』刊行。

1905年5月 浦崎康久(浦崎康華の父)移民で渡米するも騙されてメキシコで炭鉱夫。後に脱出しアリゾナ州フェニックスで沖縄人が共同経営する農園に参加していたが1912年11月に腎臓病のため死去。

1905年11月 宮城新昌、アメリカに渡航□1908年ワシントン園芸学校を終えオリンピア牡蠣会社で牡蠣養殖を研究。

1906年、宮古の比嘉財定が第五高等学校を終え東京帝大法科大学に入学した。在学中、柳田國男に出会い、比嘉は柳田に「比嘉村の話」をする。比嘉は10年7月に東京帝大を卒業。農商務省勤務を経て1915年にアメリカ留学。17年にカリフォルニア州立スタリント病院で死去。/小橋川惣吉(小橋川秀男の父)メキシコ炭鉱より逃亡、北米へ(1917年、アリゾナ州フエニックスで秀男誕生)


1984年11月 H・B・シュワルツ著/島津久大、長岡祥三 訳『薩摩国滞在記ー宣教師の見た明治の日本ー』新人物往来社□原書は1908年アメリカで出版。
米国メソジスト監督教会宣教師のH・B・シュワルツが沖縄地区責任者として沖縄・鹿児島間を往復。1907年にシュワルツ一家は那覇区安里に移住する。同年の7月、伊波普猷は那覇区久米の沖縄美以教会で「古宇利島の神話」と題し講演、弟の伊波普成は英文聖書の講義をした。同年12月に本多庸一が来沖すると、伊波普猷は本多の感化を受け禁酒運動に取り組む。

1904年(明治37年)10月12日 -西郷 菊次郎 2代目京都市長に就任
1909年4月『琉球新報』□師範中学旅行生の消息ー4月6日、火曜日、神戸、京都 午前9時半汽車にて神戸駅を発し12時京都に着。直ちに東本願寺に参詣致し建築の壮大な に驚き入り候。これより途中耳塚を右に見立て豊国神社に詣で旧伏見桃山殿の唐門大仏殿、国家安康の大鐘を見て博物館に入り歴史美術上の珍品に知囊を養い三十三間堂を経て桃山御殿に詣で血天井を見。妙法院西大谷を過ぎて清水寺に詣で候・・・。

1908年1月の首里小学校での首里禁酒会発足を皮切りに、2月に松山小学校で美山寛一の禁酒演説会、5月にはシュワルツの娘による英語、聖書の研究会もはじまった。1984年に発行された『薩摩国滞在記ー宣教師の見た明治の日本』(新人物往来社)にはシュワルツ一家の写真がある。1908年にバプテストの善隣幼稚園が那覇区に開園した。同年10月には首里メソジスト教会で禁酒会、伊波普猷、佐久原好伝らが演説をする。クリスマス。メソジスト沖縄中央教会で村井牧師のクリスマス祈祷。伊波普猷の新旧聖書朗読、シュワルツ一家のオルガン合奏でクリスマスを祝う。

1909年8月、伊波普猷は3週間にわたって鹿児島、山口、大阪、京都、奈良の図書館を視察する。そこで伊波は財政的規模を奈良図書館に求め、運営に関しては湯浅半月京都図書館長のアドバイスを受けた。1910年5月、伊波の友人、八重山の岩崎卓爾が図書館に新渡戸稲造『英文武士道』など、漢那憲行が薄田泣菫『二十五弦』ほか、浦添朝忠は『資治通鑑』など700冊を寄贈。6月には末吉麦門冬が『俳句の研究』『蜀山人全集』などを寄贈している。かくして琉球学センターとも云うべき沖縄県立沖縄図書館は8月1日、那覇の南陽館で開館式を迎えた。折りしも8月22日は「日韓併合」があった。沖縄図書館の児童書は「中学世界、少女世界、少女之友、少年之友、日本少年、少年、少女、幼年之友、幼年画報」などがあった。

1909年2月28日『沖縄毎日新聞』「合衆国の東洋政策(4)」連載
1909年3月16日『沖縄毎日新聞』「米国石油販売広告ー紐育スタンダード石油会社① 鹿児島米油組合委託販売所/沖縄県下特約販売店・濱田平畩(那覇区字東市場角)、山下分店(那覇区字東町端)、富士丸支店(那覇区字西八十八番地矢野店隣) 」
①紐育スタンダード石油会社1911年にシャーマン法(反トラスト法)違反で解散を命じられ33の独立会社に解体されるまで、アメリカの石油産業を支配していた巨大トラスト。1897年にはニュー・ジャージー州法人の持株会社として再編成された。しかし、1911年、この持株会社もシャーマン法違反として解散を命じられ、ニュー・ジャージー・スタンダード石油(後のエクソン)、ニューヨーク・スタンダード石油(後のモービル)、カリフォルニア・スタンダード石油(後のシェブロン)はじめ33の独立会社に解体された。[佐藤定幸]→コトバンク

1909年3月17日『沖縄毎日新聞』「オペルク氏の沖縄観察談ー私は瑞典(スウェーデン)人でありまして英語で御話する事は随分困難な業ですけれど其英語は私に取っても外国である。また諸君に取っても外国でありますから同じ者同士で暫く御静聴御願いします・・・」

1909年3月19日『沖縄毎日新聞』「燈用石油の話/(略)世界に於ける石油の主産地ー北米合衆国露西亜ガリシア、ルーマニヤ、東印度諸島印度日本などで此の中で最も盛んなのは合衆国及び露国である北米のペンシルバニヤは實に最初に石油業が発達した土地で此地に石油が多いということは・・・・・」

1909年3月23日『沖縄毎日新聞』迂齊「米国便ー来て見れば聞く程もなし富士の山で米国の文明も故国にて思った程に結構なものには無之候愈々真相を知るに従ひ却て感心ならぬ處も多に有之候・・・・」
1909年4月29日『沖縄毎日新聞』「内外新聞記者恊会発起会」
1909年11月、アメリカ人・ウォーナー①来沖。

1991年5月30日『琉球新報』松島弘明「文化ノート/ウォーナー資料を追え」
1996年5月17日『沖縄タイムス』「ワーナー資料沖縄の民芸品 米博物館が保存」
 ①ラングドン・ウォーナー(Langdon Warner、1881年8月1日 - 1955年6月9日)は、アメリカの美術史家。ランドン・ウォーナーとも表記される。太平洋戦争中に日本の文化財を空襲の対象から外すよう進言した人物とされるが異論も多い。マサチューセッツ州エセックス生まれ。1903年ハーバード大学卒業。卒業後ボストン美術館で岡倉天心の助手を務め、1907年に同美術館の研修候補生として日本に派遣された。1910年にロンドンで開催される日本古代美術展の準備をしていた岡倉らを手伝い、3冊の詳細な出品カタログ『日本の寺とその宝物』の英訳に協力した。帰国後東洋美術史を講義、ハーバード大学付属フォッグ美術館東洋部長を務めるなど、東洋美術の研究をした。1946年、米軍司令部の古美術管理の顧問として来日。朝河貫一とは親交が深く、数々の書簡を交わしたりウォーナーの著書に朝河が序文を寄せたりした。→ウィキペディア
○日本各地にはウォナー記念碑が6か所もある。最初の法隆寺の碑から、最後はJR鎌倉駅前の碑。

1898年、那覇の喜屋武元持が酒造原材料仕入部を大阪に設置。小嶺幸之は大阪の漆商鳴神孫七と特約し製漆販売を開始、小嶺は後に広運社の常務になる。教育家・高良隣徳は滋賀師範学校教諭から奈良県立中学校教諭として赴任。1899年4月、在阪の銀行、商船会社、商店などの沖縄に縁故がある人たちが集う懇親会が大阪西長堀の岸松館で開かれた。

へいあんじんぐう【平安神宮】
京都市左京区に鎮座。桓武天皇と孝明天皇(1940年合祀)をまつる。桓武天皇の平安京遷都1100年記念祭に当たり,官幣大社として1895年創建された。社殿は平安京の大極殿,応天門を模したもの。例祭は4月15日。10月22日には神幸祭があり,平安時代より明治維新までの服装・風俗をまね,時代順に行列・供奉するので時代祭と称し有名である。境内の神苑は名園として名高い。→コトバンク
□大阪市港区の天保山公園には大阪港築港の功労者、第六代大阪府知事の西村捨三の銅像がある。西村捨三は彦根藩の出身で、若き日に井伊家第17代直憲に仕えた。西村翁は往時を偲んで、井伊家の庭園にあった名石朝陽岡をもらい受け、自宅の庭に置いていた。昭和32年西村翁の銅像を建設するに当たってこの石もこの地に移されることになった。


写真ー池上四郎ー1877年、池上は警視局一等巡査として採用され、間もなく警部として石川県に赴任した。その後、富山県などの警察署長、京都府警部などを歴任し、1898年からは千葉県警察部長、兵庫県警察部長を務めた。1900年には大阪府警察部長となり、その後13年間に渡って大阪治安の元締めとして活躍した。その清廉で、自ら現場に立ち責任を果たす働きぶりと冷静な判断力は、多くの市民からの信頼を集めた。1913年、市政浄化のため、池上は嘱望されて大阪市長に就任した。財政再建を進める一方、都市計画事業や電気・水道事業、さらには大阪港の建設などの都市基盤を整備し、近代都市への脱皮を図った。御堂筋を拡張し大阪のメインストリートとする計画は池上の市長時代に立案され、続く関一市長時代に実現を見た。また、市庁舎の新築、博物館や図書館などの教育施設や病院の整備など、社会福祉の充実にも注力した。池上は1915年に天王寺動物園を開園させ、1919年に全国初の児童相談所・公共託児所を開設した。1923年には大阪電燈株式会社を買収し、電力事業を市営化した。また1923年9月に発生した関東大震災では、いち早く大阪港から支援物資を東京に送り、被災者の救済を行った。(ウィキメディア) 池上の曾孫が沖縄に何かと縁がある秋篠宮紀子さん


1917年4月『琉球新報』□沖縄師範旅行たよりー午前8時、軽装して比叡山登りの道すがら、本能寺の信長墓を弔った。五尺ばかりの石塔で手向ける人とてもなくあはれ物寂しい。御所を拝して大学の裏道より、田圃の間にいで右に吉田の山を見つつ銀閣寺にいった。庭園の美、泉石の趣、形容も及び難いが義政将軍風流三昧をつくしたところかと思うと折角の美景も興がさめてしまう。狩野元信の筆や、弘法大師の書などは珍しいものである。ここから大文字山の森の下道を通ってその名もゆかしい大原白河口に出た。比叡山の登り口である。流汗淋満として瀧なす泉に咽喉を濕し息もたえだえに登ると境は益々幽邃である。ラスキンが山を讃美して、宗教家には聖光を付与す・・・。





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1968年12月ー『真鍋博の鳥の眼』毎日新聞社/この年、福岡の金平団地の土建屋でアルバイトをして旅費をためて鹿児島へ向かう。鹿児島の日本調理師会の事務所の紹介で温泉ホテル「中原別荘」(赤線の場所)で調理師見習。鹿児島は古本屋が少ないが、ビルの間から見え隠れする噴煙の桜島は幻想的だ。
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1968年4月6日ーデパート山形屋・丸屋での「日本の開眼・鹿児島百年」展パンフにあった未来の鹿児島。

 今年は「明治維新150年」ということで色んな催しがあった。かつて「維新」というアナクロニズムが流行っていた。これは手垢がつきすぎた坂本竜馬などが象徴となっていた。1968年4月に鹿児島での明治100年はデパート山形屋・丸屋で開かれ私も見た。
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1960年8月に那覇の琉映本館で「壮烈新撰組/幕末の動乱」を見て以来の新撰組大好き人間だから「維新」を口にする人間は生理的に合わない。そのころオリオンでは「地底探検」「類猿人ターザン」を上映していたせいでもないが、江戸文化を再評価してみたい。

東京江戸博物館や京都国立博物館で開かれた「新撰組展」


「壮烈新撰組/幕末の動乱」中央・片岡千恵蔵

映画ー1960年8月「壮烈新撰組・幕末の動乱」琉映本館・桜坂琉映



東映太秦映画村の片岡千恵蔵コーナー
かたおかちえぞう【片岡千恵蔵】 1904‐83(明治37‐昭和58)
映画俳優。本名植木正義。群馬県生れ。ヒット作の一つに《七つの顔》があるが,遠山の金さん18本,多羅尾伴内11本,宮本武蔵10本,国定忠治9本,浅野内匠頭8本,大石内蔵助6本,机竜之介6本と,当り役の作品本数に明らかなように,まさしく〈七つの顔〉をもつ映画スターであった。それらに共通する個性の特徴は明朗さで,若いころの美剣士ぶりにはユーモアの気配があり,中年以降,豪快さを演ずるときはむろん,一転して虚無的な心情を演じても,どこか明るさを感じさせた。(→コトバンク)

旗本退屈男 はたもとたいくつおとこ (映画)
市川右太衛門を世に知らしめた時代劇映画。もともとは、佐々木味津三*1の時代もの小説。1930年に映画化。以来、戦後の1963年まで作られ、舞台でも数え切れないぐらい上演した。旗本の早乙女主水之介の「眉間に冴える三日月形、天下御免の向こう傷」の名ゼリフと豪快な太刀裁きで人気を集め、右太衛門の代表的な作品になった。また、右太衛門の息子の北大路欣也もこの役を演じた。(はてなキーワード)
◎粟国島の幼年時代、少年雑誌の旗本退屈男をモデルにした劇画をよく模写した。


(上原実所蔵)
月形龍之介(1902ー1970)
阪東妻三郎、大河内伝次郎と並ぶ剣豪スターの一人。日本で最初に創られた俳優養成所の第一期生。尾上松之助の「仙石権兵衛」のチョイ役でデビュー。あらゆる下積みの苦労をなめ、妻三郎主演の「討たるる者」(1924)で準主役に抜擢され出世作とする。戦前戦後を通じての日本映画史上の名優。大スターではじめて性格俳優と呼ばれた。「剣士・沖田総司」(1929/監督・井上金太郎)で月形が自分で企画し自分の月形プロで初めて沖田総司を主役にした映画を撮った。もんくなく最初の沖田総司役者である。伊藤大輔監督と組んだ映画史に残る名作「斬人斬馬剣」、「堀田隼人」の家老役に評価が高い。(はてなキーワード)
 NHK大河ドラマは会津が舞台の「八重の桜」である。新選組は、鳥羽・伏見の戦いに始まる戊辰戦争に参戦するも、無念の敗北を繰り返した。甲州勝沼戦争を経て、近藤勇が西軍へ投降してもなお抵抗し、戦争の舞台は宇都宮さらには会津へと移る。 会津においては、負傷した土方歳三に代わり、斎藤一が隊長を務めることとなる。白河方面へ出陣し、白河関門の守備にあたる。猪苗代町の母成峠において、会津藩士や新選組隊士を含む800名と西軍3000名とが交戦。
 旧幕府軍の敗色が濃厚な中、土方歳三は援軍を求めて、単身仙台へ向かう。会津に残ることを主張した山口次郎(斎藤一)ら一部の隊士は、市内如来堂において西軍に急襲され全滅したと言われる。(実際には何らかのかたちで脱出し、その後も生存している。) 翌年、土方歳三の函館での戦死をもって、史上最強にして最高の剣客集団「新選組」は武士の時代とともに終焉を迎えた。 →「会津と新撰組」
 天寧寺の裏手の墓地には新選組の近藤勇の墓があります。土方歳三が遺髪などを持っていて会津戦の折、ここに仮埋葬したといいます。4月25日の近藤勇の命日には、墓前祭りが開催されます。
また、藩主松平容保が京都守護職にあった際の国家老で、戊辰戦争の責任者となり明治2年に切腹した萱野権兵衛と、その次男郡長正の墓もあります。→「会津若松観光ナビ」