1953年1月、源和は東京の雑誌『おきなわ』に「ウチナー・ヌ・ハナシ」を書いた。同年3月に琉球評論社(平山源宝)から『政党を裁く』を発行。55年、源和は評論社を設け1月に『評論集・政界診断書』、4月に『沖縄から琉球へ』を刊行した。6月『話題』を創刊、創刊号の表紙は屋嘉澄子(琉舞の山田貞子門下)、源和は「空手雑話」、友を語るとして「桑江朝幸君」を書いている。同年8月、2号を発行。表紙は琉舞の上津真紀子。平みさを「南方おけ対策」、自己を語るとして比嘉秀平が「辞書をマル暗記」を書いている。話題アルバムには1898年の久孔子廟那覇尋常小学校分教場の写真、池宮城積宝や上原恵里が居るという。

『話題』3号の表紙は根路銘房子、上間朝久の「舞姫・根路銘房子嬢」、幸地亀千代「三味線と伴に五十年間」。4号は1956年4月発行で、表紙は安元啓子。話題アルバムには首里城正殿などの建物が爆撃直前に撮られた写真が載っている。永田芳子「女の幸福」、大城朝亮「辻ものがたり」、島袋光裕芸談、安里永太郎「金城珍善」、荻堂盛進「ヌード喫茶」、船越義彰「男・女・裸体」、赤嶺親助「戦塵訓」が載っている。5号は56年8月発行で、表紙は伊礼公子。玉城盛義芸談などがある。
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源和は1956年3月には『手紙』を創刊した。内容は手紙形式で質問、呉我春信、護得久朝章が答えている。教科書が手に渡るまでを当銘由金が答えて「戦前の教科書はご存知のように国定で全国一律。そのために新学期の4月には桜の未だ咲かない北海道の生徒達も、既に桜は散ってしまった沖縄の生徒達も口を揃えて『サイタ、サイタ、サクラガサイタ』を学ぶという変則的な教育を強いられて来ました。こうした教育法によって国民を戦争にかりたてた」とあり今の教科書検定問題の問題はこのときから準備されていた。戦争への反省どころか戦争準備の教育に余念がない文部省ではある。永田芳子「アメリカ便り」も載っている


1956年10月発行の『手紙』は軍用地問題特集で、「干拓事業は大資源の発掘である」、「セメント製造を急げ」の記事が載っている。今では温暖化問題もあり到底受け入れることの出来ない提案である。源和は1957年3月に『事業と人物』を創刊、宮城嗣吉邸宅、沖映本館を設計した宮平久米男の紹介、「1956年主要年誌」が付いている。58年4月、『オキナワグラフ』が創刊。同年、源和は琉球果樹園株式会社を創立し社長となる。

1960年10月、『琉球画報』が創刊。61年9月、琉球画報の編集長だった佐久田繁が玉城盛英を発行人とし『月刊沖縄』を創刊した。この年は他にも金城五郎の『沖縄公論』、金城宏幸『沖縄マガジン』の雑誌が創刊されている。62年11月の『月刊沖縄』に源和は「長老会議崩壊の底辺」、12月には「稲嶺一郎伝」を書いている。63年2月は月刊沖縄のインタビューに応じ「パクリ屋といわばいえ!」、5月の『月刊沖縄』に「瀬長亀次郎伝」を書いている。1968年、源和は本部開発株式会社を創立し会長となる。

1973年5月、源和は月刊沖縄社から『琉球から沖縄へ』を再版する。75年4月の『新沖縄文学』のインタビューに応じ「仲宗根源和氏に聞くー大正期沖縄青年の軌跡」として掲載された。

□仲宗根源和は1895年、本部間切渡久地で父源一郎、母うしの長男として生まれた。手元の「仲宗根門中世系図」に大宗が仲宗根親雲上で源和はその8世、妻のところには錦子、後妻ミサヲ、子はないとある。仲宗根源和は1938年9月に東京図書から『武道極意物語』を、43年11月、萬里閣から『武道物語』を出版した。


左から 仲宗根源和、大宜味朝徳、兼次佐一、瀬長亀次郎




仲宗根源和『沖縄から琉球へ=米軍政混乱期の政治事件史=』


平みさを


1949年12月『月刊タイムス』平ミサヲ「青空」

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1992年3月 季刊『脈』第45号□平みさを「じゅり馬行列の復活を!-女権謳歌の先駆者たち」/平みさを『虹』東京図書出版会2004年3月

仲宗根ミサヲが自身から見た『仲宗根源和伝』(1987年)を書いている。ミサヲは1948年、満州から夫と沖縄に引き揚げてきた。49年12月、『月刊タイムス』の懸賞小説に香椎都というペンネームで「青空」を書き入選した。55年1月、『沖縄婦人之友』に「愛と死」、63年の『月刊沖縄』に「小説・落花秘話」、66年の『新沖縄文学』1号に「創作・黒潮怒涛記」を発表した。ミサヲは本名・平良みさを、1918年に羽地村真喜屋で生まれている。馬氏の末裔という。神戸市立第二高等女学校を卒業。

沖縄フリージャーナリスト会議編『沖縄の新聞がつぶれる日』(1994年)に西銘順治元沖縄ヘラルド社長が「私が群島政府から戻って沖縄朝日新聞と改題したあと、新聞社で1952年からミス沖縄を選定するようになった。その担当として平良ミサヲさんが婦人記者として入ってきたが、文学少女が大人になったようなお上品な彼女も最初のうちは記事をどう書いていいか分からず佐久田繁君に手伝ってもらっていた。ミサヲさんは琉球海運の桃原茂太社長秘書だったが、知事選挙で社大党の初代婦人部長を押し付けられた」と書いている。

平良ミサヲは知事選挙後、新聞記者になりたくて沖縄タイムスの上地一史編集長に紹介されたが、のちに婦人運動で活躍する伊波圭子が沖縄婦人記者と鳴り物入りで入社したばかりなので後回しになったようである。ミサヲが琉球新聞記者のとき、新聞社の相談役であった仲宗根源和と愛人関係になった(本人が書いている)。1966年、源和の2番目の妻・錦子が肝臓がんで亡くなると、ミサヲは源和の最後の妻となる。

仲宗根源和を反共の闘士と呼ぶものもいるが、それで論敵・瀬長亀次郎の反米運動が挫折したわけでもない。沖縄産業の育成には貢献したが右翼運動をしたわけでもない。戦前の話になる。源和が東京で第一社という社名で出版活動をしていたときのころ、上原永盛、山川又山、知念松一(元出版タイムス社)らから沖縄写真帳の提案の話をうけていた。最終的に知念松一の提案で実現したのが『沖縄県人物風景写真帖』(1933年8月)である。本写真帖には金城朝永の「沖縄県人著書目録」があり源和の著書『労農露西亜新教育の研究』(弘文社1925年)、『無産者教育読本』(無産者新聞社1926年)もある。

仲宗根源和が最初の妻・貞代と上京したのは1919年3月であった。23年5月、仲宗根源和が手配して近藤栄蔵、高津正道、佐野学をロシアに贈り込み、そのあと、山川均、佐野文夫、赤松克麿、鈴木茂三郎、饒平名智太郎らが共産党中央委員となったが、6月には第一次日本共産党事件で仲宗根源和、徳田球一らが検挙された。25年4月、源和は『労農露西亜新教育の研究』を弘文社から発行する。9月には源和が発行名義人となって『無産者新聞』を創刊する。事務局員が貞代と徳田正次、編集員が徳田球一、佐野学、井之口政雄らで、野坂参蔵らが出入りしていた。このころ、源和は表向きは実業之日本社に在職ということになっていた。26年5月には無産者新聞社出版部(仲宗根貞代)から『無産読本』を発行した。

仲宗根源和は1933年に柳田國男、比嘉春潮の島同人になっている。同人には奥里将建、久志芙沙子、大宜味朝徳、比嘉良篤らも居た。同年、源和は第一社に大南洋社を設け仲原善徳を編集長に『大南洋評論』を発行した。2号の表紙絵は竹久夢二の息子・不二彦である。源和は翌年に、摩文仁賢和『攻防自在護身術空手憲法』を出している。源和は1938年5月に『空手道大観』を沖縄師範学校の一期後輩の新田宗盛の東京図書から出版、1937年3月に沖縄県空手道振興協会(会長・知事、宣伝部長・島袋源一郎、指導部長・屋部憲通)が決定した空手道基本型制定も収録。また1905年の花城長茂が書いた「空手組手」を紹介、すでに空手の名称が使われていたことを強調している。


1936(昭和11)年10月26日『琉球新報』「名稱を”空手”に統一し振興会を結成!」