1982年『青い海』新年号 109号 深沢恵子「松本つるーきびしい時代の息吹」 


□1995年10月 松本ツル『回想と随想』

1876年12月 王命により向徳宏、林世忠、林世功ら清へ密航
1879年旧8月 蔡大鼎、林世功、毛精長ら北京へ陳情に向かう  
1880年11月20日 林世功、中国の態度に憤慨自害する。

松本三益(1904年2月20日~1998年7月19日)
1904年(明治37年)2月20日、那覇市松山町2丁目57番地に生まれる。父正栄(本家の三男 林氏十世)、母ウトの長男、系図によれば林氏久米三十六姓、旧姓真栄田。八世。林世功は武装力による琉球処分に抗議し、明治13年旧10月20日北京で自決した。
1913年11月15日  林氏三十三年祭 久米平安座(大宗諱□芾 八世・世爵 美里郡大村渠地頭職 名称は松本)氏方ー眞栄田正隆は同氏を代表し来会者を歓待、遺墨書等を展観せしめ供物を配った。岸本代議士、知花朝章、仲吉朝助、伊波普猷文学士及び3新聞記者が来会した。
1913年11月16日『琉球新報』「故林世功追悼詩歌(1)伊江朝眞、兼島景福、仲濱政摸」
1913年11月17日『琉球新報』「故林世功追悼詩歌(2)伊是名朝睦、仲里朝衡」
1913年11月18日『琉球新報』「故林世功追悼詩歌(3)高相杰、名嘉山大昌」
1913年11月19日『琉球新報』「故林世功追悼詩歌(4)琉歌ー湧川朝升、高江洲昌壮、和歌ー山里永昌、屋嘉部政呈」

伊波普猷『沖縄歴史物語』null
『沖縄歴史物語』には東京版(左・1947年)とハワイ版(右・1948年)がある。東京版とハワイ版は、本文、小序、凡例、内容、写真などすべて同じものであるが、ハワイ版に総ルビがつけられていることと、附録が、東京版一篇に対してハワイ版が三篇であること、ハワイ版に玉代勢法雲による『後記』がついていることの三点の違いがみられる。本書は1928年の秋から翌年の春にかけ、ハワイおよび北米在住の沖縄人のために講演漫遊したときのテキスト『沖縄は何処へ』を参照して執筆したものである。(平凡社『伊波普猷全集』第二巻)/なほ明治13年の10月20日に、志士林世功が北京で自殺したのも清朝を動かすに与つて力があった、と伝へられているが、その当否は暫くおき、当時の思潮を窺ふたよりにもと、左に彼の自決して経緯を略述することにしよう。林世功(名城里之子親雲上、普通、官生新垣といふ)は久米村の人で、25歳の時官生科に及第し、北京の国子監に学び、明治7年業を卒へて帰国し、世子の時侍講にまでなつた人だが、明治9年の末、(略)時世の詩が2首ある。古来忠孝幾人生、憂国思家巳五年、一死猶期存社稷、高堂専頼弟兄賢。廿年定省半違親、自認乾坤一罪人、老涙憶児雙白髪、又聞噩耗更傷神。

1994年3月 松本三益『自叙』「沖縄青年同盟結成と活動」
 わたしは沖縄青年同盟を結成すべく1926年(大正15年)2月ごろ沖縄に帰郷した。沖縄県民は天皇制政府の植民地支配と本土の独占資本、寄留商人(本土から移住した商人)に収奪され、低賃金と失業におびやかされていた。沖縄青年同盟は京阪神で出稼ぎにいき、労働組合に参加した経験のある進歩的労働者と社会主義的傾向の山田有幹、渡久地政馮、東恩納寛敷ら新聞記者、教員、事務職員を中心に1926年(大正15年)3月14日 那覇市公会堂で創立大会を開催した。公会堂の座席は満員になるほどの盛況であった。(略)同盟の創立大会に屋部憲氏が「さまよへる琉球人」の掲載された『中央公論』3月号を持参し、大会の決議による抗議の必要を提案された。大会運営委員会は全員賛成したので緊急動議として屋部憲氏が提案し、満場一致で採択された。抗議文は新役員に一任された。新聞記者の東恩納寛敷氏が原案を起草し新聞記者の渡久地政馮氏宅で10名位の起草委員会が討議して決定した。わたしも最後まで参加し、それを広津和郎氏に送る手はずまで助言した。

1929年 『沖縄労農タイムス』沖縄労農タイムス社(眞榮田三益)


1928年(昭和3年)2月に第1回普通選挙のさなか労働農民党の地方組織として労農党那覇支部が結成されたが弾圧され、翌年その再建をめざして創刊された沖縄最初の無産者の新聞。

1945年8月、国吉真哲・宮里栄輝・源武雄が早く帰還できるよう「県人会」結成を相談。宮里栄輝、熊本沖縄県人会長になる。/女子挺身隊救済で尼崎沖縄県人会結成。
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1945年 9月、松本三益が比嘉春潮を訪ね、伊波普猷を代表に推し「沖縄人連盟」結成を相談。比嘉春潮宅で、左端松本ツル、中央・伊波普猷、右隣りへ冬子夫人、比嘉春潮、松本三益
11月11日、沖縄人連盟創立総会。総務委員・伊波普猷(代表)、大浜信泉、比屋根安定、比嘉春潮、永丘智太郎
11月26日、関西沖縄人連盟創立大会。代表・豊川忠進、兼島景毅、井之口政雄  参加・良元村(のち宝塚)、神崎川、城東、泉州、堺、和歌山       の県人会

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1947年12月ー『前衛』徳田球一「産業復興の二つの道」、松本三益「農民運動の現段階」」


1950年11月 仲井間宗裕・伊佐栄二『沖縄と人物』


写真、山田有幹夫妻を囲んで左から浦崎康華、松本三益/1955年8月  警視庁正門、左から宮本顕治、紺野与次郎、志田重男、志賀義雄、2列目中央に松本三益


1956年 四原則貫徹・県民代表として本土渡航の瀬長亀次郎沖縄人民党書記長を羽田空港で出迎える松本三益(瀬長の右)、志多伯克進(瀬長の左)/1967年11月 新宿・酒礼門で「瀬長亀次郎歓迎会」中央に瀬長亀次郎、その左が松本三益、右隣りに比嘉春潮


1974年7月15日 那覇市民会館「日本共産党創立52周年記念集会」で中央委員会を代表して講演する松本三益/1987年10月 東京調布市で第28回「赤旗まつり」の沖縄物産店で懇談する、左より古堅美吉、瀬長亀次郎、松本三益


1975年10月 藤原美津雄『怪物民商の大戦略』国際商業出版(同書は永田 久光に依頼する予定であったようだ。)
○松本三益(日本共産党 市民・中小企業部長)に取材


1983年4月 安仁屋政昭『沖縄の無産運動』ひるぎ社


1998年7月20日『しんぶん赤旗』



新垣正美「1999年度提出 修士論文 沖縄人連盟の研究」/1999年7月『琉球新報』新垣正美「落ち穂」

1945年12月6日『自由沖縄』第1号(編集・比嘉春潮)/1947年2月20日『自由沖縄』(城間得栄・編)、1947年12月25日『自由沖縄』(上原永盛・編)

1946年8月5日沖縄人聯盟九州本部『自由沖縄 九州版』(大嶺政和・編)、1948年2月15日『自由沖縄 大阪版』(城間盛雄・編)

新垣正美・神戸大学大学院総合人間科学研究科人間環境科学専攻「「沖縄人連盟の研究」(1999年度提出修士論文)
□沖縄人連盟とはー近代以降の沖縄/沖縄人の歴史は、国家や民族など近代が生んだ境界線に常に翻弄されてきた歴史であった。沖縄/沖縄人の存在の特徴は、既成の国家や民族などの「境界」に収まり切れず、「境界線の上」に立ち続けてきたという点にあると考えられるが、この事実は平時にはそう意識されることはない。そして、この事実が最大限に意識されたのは、敗戦後から講和条約までの間、沖縄の帰属が不明だった時期だと考えられ、この時期に「非日本人」であること/沖縄人の特殊性を、GHQ・日本政府にアピールして物資・特別待遇を獲得し、在本土沖縄人困窮者の救済に取り組んだ沖縄人連盟こそが研究対象にふさわしいと考えた。沖縄人連盟についての先行研究は、極めて少なく、その実態には未解明の点が多い。数少ない研究成果としては、新崎盛暉氏のものと冨山一郎氏のものがある。以下に、それぞれの研究と課題を提示したい。

新崎盛暉(略)

冨山一郎ー著書『近代日本社会と「沖縄人」』(1990)について述べてみたい。冨山氏の研究における沖縄人連盟に関する箇所によると、沖縄人連盟の名観は、「独立論」的な「沖縄人」と生活利害にそった「沖縄人」が混在していたという。そして、沖縄人連盟に参加した沖縄出身大衆が「沖縄人」を自称したのは、GHQの権力を背景にした特配などの経済的利益が存在したからであり、日本共産党の認識・方針を踏襲する「独立論」的な「沖縄人」との間にはズレがあったとしている。冨山氏は、さらに、「独立論」的な「沖縄人」の問題点として、「沖縄人=少数民族」と定義していながら、労働運動への合流という方針を提示するのみで、この時期最も問題であるはずの帰属問題に関して方針を示していない点を指摘している。つなり、共産党の主張する「独立論的」な「沖縄人」は、何ら具体性・現実味のないものだったと評価している。
冨山氏によると、「沖縄人」を主張することによる経済的利益がなくなり、かつ、「非日本人」としての差別(いわゆる「第三国人」視)が強まると、生活利害にそった「沖縄人」を主張する理由はなくなっていき、必然的に、戦前の「日本人志向」が再生してという。沖縄人連盟が、「独立論的主張」から「復帰論」へ旋回したのもこうした理由から説明している。すなわち、富山氏は、先行研究を、沖縄出身者自身の問題として分析していないと批判しているにもかかわらず、沖縄出身者の主張のありかた・主体性を、無理やり政治と切り離した上で単なる「損得勘定」や「同化」の帰結としてのみ解釈している。当時の社会情勢の中の沖縄出身者自身の問題として考えた場合、「独立論的」な「沖縄人」と生活利害にそった「沖縄人」は、本当に切り離せるものだったのだろうか。
また、沖縄人連盟の「復帰論」への旋回は、なぜ1948年に行われたのだろうか。冨山氏は、「復帰論」への旋回の原動力となったのは、「日本人志向」を持ち、沖縄人連盟内で多数を占めていた大阪勢だったとしている。大阪勢が、沖縄人連盟内の一大勢力であったのは、結成当初からの事実であり、1948年に急に力を持ったわけではない。だとすると、1948年に「沖縄人」を主張することによる経済的利益がなくなったと考えられるが、その点に関する記述は見られない。


松本三益氏からの私信「正忠、麦門冬は私の旧知の方々です。」

永田 久光(ながた ひさみつ、1921年4月14日 - 1975年5月17日)は、広告研究者、評論家。
山梨県塩山市郊外に生まれる。山梨県立日川中学校、多摩美術大学卒業。台糖株式会社宣伝課長、日本経済新聞社『日経広告手帖』編集長、中部日本放送「CBCレポート」編集長、「週刊明星」創刊にかかわり、市場調査機関・永田オペレーション・センターを設立、のち電通PRセンターとし、1970年株式会社ジャパーク(JPRC)を創立。評論家として著書多数を著した。(→ウィキペディア)
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2013年5月 琉球館 月刊情報『琉球通信』(㈱)Ryukyu企画 
(㈱)Ryukyu企画 〒901-2226宜野湾市嘉数4-17-16 ☎098-943-6945

 

1990年8月 戦争体験記録研究会『次代へ』安仁屋政昭「平和をまもるたたかいは、忘却とのたたかいである。」


2003-6-27 安仁屋政昭沖縄国際大学教授を介して沖縄国際大学南島文化研究所で「松本三益資料」を見る。写真ー安仁屋教授を囲んで左から仲間恵子さん、新城栄徳、新垣正美さん

2000年9月 大阪人権博物館『ヤマトゥのなかの沖縄』



1982年1月3版 那覇市『写真集・那覇百年のあゆみ』(琉球処分百年記念出版)

 2018- 4-21御茶ノ水明大リバティセンターの渡部富哉講演ー古賀牧人編著「『ゾルゲ・尾崎』事典」(アピアランス工房、2003年9月3日初版。加藤哲郎一橋大教授のお薦めで、当時4200円なのに、2012年に古本で4949円で購入)を参照したら「真栄田(松本)三益密告説」など色々書いてあり、これを読んでやっと要点が掴めました。高倉テルが安田徳太郎に語ったところによると、真栄田(松本)三益は、満州の事件(恐らく、合作社・満鉄調査部事件)で昭和16年に検挙されたが、助けてもらうために、警視庁がまだ知らなかった宮城与徳の諜報活動を密告して、当局と取引したというのです。(2018-4-22高田朋之介)。
〇未だに「高倉テルが安田徳太郎に語ったところによると、真栄田三益がゾルゲグループの宮城与徳を密告した」というのがネットなどで流されている。安田については1972年11月発行『別冊経済評論『日本のアウトサイダー』』に子息安田一郎が「裏街道の義人医師ー安田徳太郎」を書いている。「昭和16年10月10日ゾルゲ、尾崎、宮城らが逮捕され、ついで翌年6月8日安田も逮捕された。安田はのち巣鴨拘置所に送られ、昭和18年7月保釈になった」とあって真栄田三益の名は無いどころか、何故か安田が保釈と記されて戦後、昭和23年11月17日、在日CIC(対敵情報部隊)本部に連行され、アメリカ軍検事からゾルゲ事件の手記を書くことを命じられている。