2019年9月8日 大阪大正区千島グラウンド「第45回 エイサーまつり」


Aze OngさんはDaisuke Takeyaさんと大正区・関西沖縄文庫にいます。2019年6月26日


2015年2月22日 大阪大正区・大正沖縄会館「黒い目の若者たち」主催・比嘉座/共催・関西沖縄文庫☎06-6552-6709)


1978年10月ーエイサー会場で走りまわるフトシ君とコウ君

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2010年9月12日ー「第36回エイサー祭り」大正区千島公園グランド/「人類館写真」「関西沖縄県人会」→2010年10月ー『月刊 榕樹』「大正区でエイサー祭り 猛暑のなか賑わう」
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1948年6月 吉川英治『戀ぐるま』松竹株式会社出版部(関西沖縄文庫蔵)
  桜島のいただきから黄金色の硫黄のけむりが、紫ばんだ朝の空をかすめていた。紺碧の海をあやつるかんこ舟、そして長崎の呉服船や煙草船や、諸国の廻船などが波にもまれている間を、白い海鳥が、雪のように光って飛ぶ。
『見えた。』
『ーオオ、琉球船、琉球船。』
海岸の人の群れは、手をかざして言い合った。見ると、成程、はるか桜島の沖あいから一艘の船が帆をあげてはいって来る。海の琉光と陽の光りを吸って、その朱塗の船はまるで珊瑚細工のように眼に映った。
『賀春使の船がみえたぞ。-紫巾夫をのせた琉球船がはいったぞ。』
言い伝える声を聞いて、城下の町人や娘たちは、蟻のように海岸線にならんで、晴着の列を作っていた。だが、朱い船の姿は、そこに待ちあぐねている人々の予期を裏切って、港の岸へつくまえに途中から岬の蔭にかくれてしまった。
『なアんだ、伊敷の浦へついたのか。』
がっかりした町人たちが、それぞれの家へ帰って、春の酒に酔っていたころに、岬へ迎えに行った島津家の警固隊は、貴賓の駕をおごそかに護って、馬蹄先槍の行列を粛々とねりながら、岬街道から青木谷の琉球館へ、賀春使の一行を送りとどけた。
島津侯に拝謁する賀春使の登城は正月の12日と沙汰をされた。それまでは休息というので、那覇主の王族右大府について来た厨房夫や洗濯婦などの下級の琉球人は、ものめづらしそうに、手を組んで、城下を見物してあるいた。
夜になると、青木谷には赤い燈が点く、そして、右大府の旅情をなぐさめるため、泡盛を酌んで歌をうたう酒宴のさまが想像される。宵ごとに、そこから洩れる蛇皮線や木琴の音ーそして嫋々としてあやしげな琉球器楽にあわせる八重山謡のふしも、城下のものは、いつか耳になれて、その好奇心を失っていた。
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1984年2月 吉川英明・編著『吉川英治の世界』講談社文庫
☆青梅市吉川英治記念館 〒198-0064 東京都青梅市柚木町


2003年8月31日ー関西沖縄文庫の帰りバス停にて、両親が沖永良部出身の有川洋美さん(左),新垣正美さん、新城栄徳

 大阪に関西沖縄文庫というのがある。出版社・情報が東京中心の社会体制だからあまり認知されていない面も多々ある。甥っ子や若い人によれば「ヤマトゥ沖縄研究者(出版社)は自分の研究ばかりで文庫には以前はよく来たが最近来ない」という。大学でも早稲田は研究機関誌をおくってくるが、法政はおくって来ない。沖縄○○論はあくまで「論」、理屈いわゆる絵で、実践しはじめて「論」は生きてくる。関西の社会運動団体のひとつである文庫は関西沖縄の未来を担う団体であり「トリデ」である。その担い手の文庫の名前が出てこない沖縄の戦後社会運動研究は全くもって無意味であるが、反面教師としては有効で批判的に解釈すべきものではある。。


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2013年10月19日ー大阪大正区で「第39回エイサー祭り」を終えたばかりの金城馨氏(関西沖縄文庫)が帰省した。

写真右が宮里朝光氏(NPO沖縄語普及協議会会長)、金城馨氏/写真右が金城馨氏、平良知二沖縄文化の杜(沖縄県立博物館・美術館指定管理者)社長
関西沖縄文庫






2000年9月10日『沖縄タイムス』新城栄徳「書評・丸山恵山『大阪の沖縄紀行』文芸社」
 私(新城栄徳)は1970年以来、京都や大阪の図書館で戦前の新聞を見て、ウチナーンチュの先達の息吹をとらえることを道楽としてきた。ヤマトの人(オキナワにも居る)が沖縄を書いているのを見ると大抵、新左翼崩れの平板で無味乾燥(現実には何の役にも立たない流行モノ)の理屈が目立つ。その中にあって本書は素朴で人間味がある内容となっていて、そのことに敬意を表したい。
 本書には当然ながら大阪略図があり沖縄の在阪機関と関連施設が番号で表示され、大正区に集中していることが分かる。大阪における沖縄の情報源である沖縄県大阪事務所、沖縄関係資料室、関西沖縄文庫や、沖縄タイムス、琉球新報の支社と、沖縄の美術品が所蔵されている博物館、美術館も所在地、電話番号を付して紹介されていて便利である。
 大阪と沖縄の物流史にもページを割いている。大阪から沖縄へ運ばれた大阪製の船舶、車両、鉄道のレール、人力車などの経過を紹介し、また沖縄から大阪へ運ばれたものに、戦前は砂糖、石炭、牛馬、キャベツ、戦後については花、モズク、ゴーヤーなどを紹介している。そして砂糖の関連では、大阪にもかつてサトウキビ畑が広がっていて、戦前の沖縄ならどこにでもある製糖風景が大阪にもあったことを気づかせてくれる。
 多少の誤りを指摘しておくと、年表の明治10年に「沖縄広運会社が大阪に支店『丸一商店』を設立」とあるのは、同じ尚家資本の経営ではあるが、広運社(明治20年設立)と丸一商店は別個で、丸一大阪支店が設立されたのは明治21年である。この設立のことを、明治21年4月27日の京都『日出新聞』は「琉球人、数名大阪に来りて西区立売堀五丁目に三ヶ所の倉庫を借り入れ琉球物産会社を準備中」と報じている。
 最後に欲をいうと、「大阪の沖縄」年表もあるので参考文献、索引も付けて小事典としても活用できるようにしてほしかった。が、これはウチナーンチュの今後の課題としよう。