2019年11月15日 『報道写真集 首里城』沖縄タイムス社

 2019年10月31日朝一番、ネットのニュースで「首里城公園付近で黒煙が上がっている」首里城の正殿は、いまも延焼中だという。けが人の情報は入っていないという。パリのノートルダム大聖堂の火災以上にショック。木造なので火災には十分に警戒しているはずだが。テレビをつけると、正殿が崩れ落ちる映像、2001年9月11日のアメリカ同時多発テロ事件のテレビ映像と同様の衝撃であった。かつて又吉真三氏から首里城復元の話を聞き、「大阪城に倣いコンクリートで造ったらどうですか」と言ったら「建築技術継承」の意味合いで木造でなければならない、と言われたが、やんぬるかなである。「建築技術継承」は先の復元過程で建築技術も確認されたであろうから、今後は元々の材質に拘らず火災に強いもので再建すべきだと思う。それより所蔵の文化財は無事だろうか。台風、水害と消費税、アベ主導の「れーわ世」になってからロクな事はないわな。
 参考〇沖縄県は1日、沖縄美ら海水族館(本部町)と首里城正殿などの有料区域(那覇市)の管理を始めた。今後は県が指定管理者に指定した沖縄美ら島財団(本部町)が両施設の実質的な管理・運営を担う。指定管理の期間は2019年2月1日から23年1月31日まで。これまで両施設は国が管理してきたが、県へ管理が移行した。今後も両施設の所有権は国が持つため、県は国有財産使用料として年間約7億円(美ら海水族館約5億円、首里城約2億円)を国に支払う。財源は両施設の入場料と売店収入で賄うため、県の財源からの支出はない。現在、入場料の変更なども予定されていない。
 県は管理移行に合わせて、安定的な運営維持のために「沖縄県国営沖縄記念公園内施設管理等基金」を設立。財団が毎年県に納める固定納付金(年間約9億円)と歩合納付金から成り、大規模修繕や整備が必要になった場合に支出する。

『沖縄タイムス』11月12日首里城火災で、全焼の正殿など被害に遭った7棟9施設について、損害保険の評価額が100億3500万円に上ることが11日、分かった。県議会(新里米吉議長)の全議員対象の説明会で、首里城を管理運営する沖縄美ら島財団の担当者が明らかにした。財団が年間2940万円を支払っている保険の支払限度額は70億円で「保険会社が現地を調査し、査定する。評価額は100億円だが、支払額が70億円を上回ることはない」と答えた。建物の評価額は、保険料を決めるために建物の価値を算出したもの。9施設の当時の建設費は正殿で33億円、南殿、北殿など3施設で21億円、黄金御殿など5施設で19億円の計73億円だった。

2019年11月16日『沖縄タイムス』「円鑑池 魚が大量死」〇「円覚寺(えんかくじ)」の前の池は「円鑑池(えんかんち)」、池の中央にある赤瓦の堂を「弁財天堂(べざいてんどう)」という。→首里城公園/1986年8月8日『琉球新報』「弁財天堂の壁一部焼く」、8月7日『沖縄タイムス』

1879年  首里城、第六師団熊本分遣隊の兵舎が置かれ、陸軍省所轄地となる。

1904年4月 首里区立工業学校、当蔵の民家から首里城書院に移転

1908年    首里市立女子工芸学校、赤平義村家跡校舎より首里城内に移転

1909年、首里市に壹千五拾四圓五拾五銭にて払下(南風殿、正殿、西殿、鎖の間書院、王子居室、王王妃室、世誇殿、銭蔵、寝廟殿、廣福殿、用物奉行所料理座、門番所、二階殿、厩係詰所、アヤメ居室、奉神門、金蔵,竃家、下役料理座、鐘撞堂、右掖門、淑順門、漏刻門、瑞泉門、久慶門、歓会門、美福門、継世門、衛兵所、洗面洗濯所、銃工室、浴室、伝染病室、敷石、哨兵舎、体操器械、物干)
    
1931年10月 『首里市制十周年記念誌』首里市役所


1910年3月7日 ドイツ人エドモンド・シーモン馬山丸で来沖

1910年 首里高等尋常小学校、校舎狭にして一部生徒を首里城西の御殿に仮教室を設けて収容


1910年4月 沖縄二中、沖縄中学校の分校として首里城北殿に開校。翌年4月、独立(初代校長・高良隣徳)

2019年1月 国梓としひで『太陽を染める城ー首里城を蘇らせた職人たちの物語』沖縄建設新聞


2019年3月 与並岳生 『火城』「●組踊 首里城炎上、大飢饉・・・未曽有の国難を越えて、新生琉球の気概を示す国劇は、こうして誕生した!!●国学 国造りは人造りー琉球人材育成をめざして、「海邦養秀」のスローガンのもと「国学」は誕生した。若き尚温王の教育立国の理念が燃える!●三線音楽 「歌と三線の昔始まりや」-伝説のアカインコ青春行状記! 」新星出版


1985年8月1日『沖縄タイムス』「首里城正殿 発掘調査 始まる」/9月7日『琉球新報』「予想以上にひどい首里城の戦災」


1986年11月28日『沖縄タイムス』/1986年11月29日『沖縄タイムス』「首里城正殿跡発掘現場で見つかったアメリカ製250キロ爆弾撤去」



1986年12月4日『琉球新報』/1986年12月22日『沖縄タイムス』


 首里城復元に関わっていた又吉眞三氏から、「新城君、君の提供した資料で寸足らずの龍柱が本来の高さに復元出来そうだ」と喜んで居られ、かつ話された、その資料を『首里城復元期成会会報』第7号で紹介してほしいと。同誌に載せたのが比嘉朝健「琉球の石彫刻龍柱」である。
nullnull
□本稿は1927年(昭和2)3月発行の『アトリエ』第4巻第3号の同氏(1899~1945)論文から転載したもので、新城栄徳氏から資料の提供を受けた。


1974年8月6日『琉球新報』又吉真三「首里城跡の復元をめぐって=文化遺産の活用とあり方=」/1984年11月27日『琉球新報』「首里城・石造欄干の親柱 完ぺきな形で残る」

nullnull
前列右から宮城篤正氏、又吉真三氏、後列右から首里城復元で「古文書の鬼」と謂われた高良倉吉氏、新城栄徳。/又吉眞三氏を囲んでー右から3人目が又吉眞三氏、左奥から西村貞雄氏、新城栄徳。左手前が首里城の瓦を制作した奥原崇典氏の兄・奥原崇仁氏


1989年11月3日「首里城木遣」

 又吉氏は沖縄県建築士会会長、沖縄県文化財保護審議会会長もつとめ琉球の建築文化史にも詳しい。私は宮内庁三の丸尚蔵館の山本芳翠「琉球中城之東門」の門は又吉氏と検討し「美福門」と断定、1989年11月発行『沖縄美術全集』の年表にその旨を記した。また首里城北殿の階段の問題も相談に乗ってもらい新聞に発表した。

「琉球中城之東門」/北連蔵画「山本芳翠像」

null
山本芳翠「浦島」
null
山本芳翠「琉球風景」
 首里城北殿の階段 大龍柱は正面を向いている。
null

 1937年1月『姫百合のかおり』/大塚努(京都市)2019-11-5「1907年ー沖縄県立高等女学校運動会」

null

null
1993年3月27日『琉球新報』「首里城正殿の大龍柱/大龍柱を考える会(宮里朝光会長)『やっぱり正面向き』」

 『沖縄タイムス』2019年11月5日〇復元された首里城の龍柱を制作した彫刻家で琉球大学名誉教授の西村貞雄さん(76)=糸満市=は、独自の造形文化が詰め込まれた城の変わり果てた姿に「研究と技術の集積が一瞬にして消えた。でも手掛かりがほとんどなかった戦後の復元と比べ、資料はある。再建に向けもう一度全力投球だ」(略)基本・実施設計の委員で龍柱を含む正殿の復元作業に携わった。わずかに残った戦前の写真や図面を観察し、中国や東南アジアなどを視察した。龍のうろこや背びれの数を数えて柱の高さを確認するなど、地道な作業で戦前の姿を解明していった。


1999年10月 野々村孝男『首里城を救った男ー阪谷良之進・柳田菊造の軌跡』ニライ社


2000年11月 野々村孝男『写真集 懐かしき沖縄~山崎正董らが歩いた昭和初期の原風景から』琉球新報社


2001年3月「世界遺産 琉球王国のグスク及び関連遺産群」沖縄県教育庁文化課

 『琉球新報』2019年9月5日ーしまくとぅばの保存、継承に尽くした沖縄語普及協議会名誉会長の宮里朝光(みやさと・ちょうこう)さんが1日午後2時38分、老衰のため那覇市首里平良町の自宅で死去した。95歳。那覇市首里出身。告別式は5日午後2時から3時、那覇市首里山川町3の1の首里観音堂で。喪主は長男聖(きよし)さん。2000年に沖縄語普及協議会を設立し、06年の「しまくとぅばの日」(9月18日)の制定に尽力した。しまくとぅば指導講師の養成にも取り組み、しまくとぅば保存・継承の機運をつくった。琉球王府の迎賓館ともいわれ、沖縄戦で消失した御茶屋御殿(うちゃやうどぅん)の早期復元を求める御茶屋御殿復元期成会の会長も務めた。沖縄語普及協議会は16年、第38回琉球新報活動賞を受賞した。



2014年5月23日~6月23日 沖縄県立博物館。美術館「平成25年度 新収蔵品展」
博物館の新収蔵品展を見た。麻有信・儀間親雲上の「沖縄県那覇湊之図」があった。麻有信は「鎌倉芳太郎写真撮影メモ1」(琉球政府率博物館1972年3月複製)に出てくる。

麻有信・儀間親雲上(首里汀志良次の人)




1990年7月18日『沖縄タイムス』「筆者不詳の風俗画 うやんまぁの図 慎克凞の作品と判明」/1988年7月4日『琉球新報』「首里那覇鳥瞰図 作者は阿嘉宗教」

玉氏真栄城親雲上徳実「美女の図」/泉川寛道「うやんまぁの図」

資料「首里城」1993年3月ー沖縄県立博物館『旧中城御殿ー石牆工事地域にかかる第一次発掘調査ー』
1994年3月ー沖縄県立博物館『旧中城御殿ー旧中城御殿石垣工事にかかる第2次発掘調査ー』
1995年3月ー沖縄県立博物館『旧中城御殿ー旧中城御殿石垣工事にかかる第3次発掘調査ー』


百浦添御殿ノ御簾、鶴亀、松竹、鳳、牡丹画簾也。平日掛置トイヘドモ、毎元日、新彩色画簾、掛更ルナリ。螺赤頭奉行為ニ職業一。簾匠ヲ下知シテ勤之也 前日勤也。『琉球国由来記 巻一』