「くにんだなかみち」の標識と龍柱たつ路をうりずんの雨濡らしてゆけり

2020年2月 屋部公子『歌集 遠海鳴り』砂子屋書房(〒101-0047 千代田区内神田3-4-7 ☎03-3256-4708)

 謹啓 那覇は台風17号の真っ最中ですが、ご清祥のことと存じます。
この度、土佐高知の石川啄木父子歌碑建立10周年記念短歌大会に応募いたしましたところ、9月14日、佳作受賞となりました。
「 沖縄の 明日をめぐりて いさかいし 父子の日々の悲しき記憶 」
 米軍統治下にあった60年代、沖縄返還の運動にはまった私や弟を心配した親心も知らず、親父とぶつかった学生時代。復帰後間もなく親孝行らしいこともせずに60歳の若さで逝かれてしまった苦い思い出。同じことが辺野古新基地や自衛隊配備などで今なお分断対立が繰り返され続けている沖縄の怒りと悲しみを詠ったつもりです。受賞はこの8月で後期高齢になった記念となりましたが、子孫の時代を思うと、縄が穏やかな平和の島になるよう引き続き頑張って行かねばと思う昨今です。 ご笑覧ください。     2019年9月20日 真栄里 泰山 拝

2019年啄木忌・茶話会4月13日午前11時~那覇市西・真教寺
4月13日は、歌人石川啄木(1912年(明治45年)4月13日午前9時30分頃、小石川区久堅町にて肺結核のため死去。妻、父、友人の若山牧水に看取られている。26歳没。戒名は啄木居士→ウィキ)がその短い生涯を閉じた啄木忌。そして、1977年、故国吉真哲氏が那覇市西町の真教寺境内に啄木歌碑を建立、沖縄啄木同好会が発足して42年となります。つきましては久方ぶりに啄木忌を開催したいと存じます。何かと忙しい4月ですが、「私の啄木」をテーマに啄木の歌に関わる思い出やお手持ちの本や資料を紹介し合う茶話会を持ちますので、どうぞ親しい方々お誘い合わせてご参集ください。
場所 那覇市西・真教寺 啄木歌碑前・本堂 〒900-0036 那覇市西2-5-21 電話098-868-0515
会費千円 本や資料など当日ご持参下さい。
主催 沖縄啄木同好会 屋部公子 喜納勝代 宮城義弘 新垣安子 芝憲子 
事務局連絡先 真栄里泰山携帯 090-6863-3035

※ 球陽山真教寺は、〒900-0036沖縄県那覇市西2-5-21
 電話・fax 098-868-0515 住職 田原法順 
宗祖 親鸞聖人 宗派 浄土真宗大谷派 本山 東本願寺(京都府) 
本尊 阿弥陀如来  


読経 お話ー真宗大谷派真教寺住職 田原大興師

主催者あいさつー沖縄啄木同好会会長・屋部公子さん

1932年4月13日 伊禮肇代議士(屋部公子さんの父)、啄木20年忌(本郷団子坂「菊そば」)に参加




 右ー動画撮影する宮城義弘氏ー沖縄県那覇市の真教寺で石川啄木忌が行われました。なぜ沖縄で!?『明星』時代の啄木の友人で沖縄出身の山城正忠が、岩手の1号歌碑 やはらかに柳あおめる 北上の岸邊目に見ゆ 泣けとごとくに
 1号歌碑の翌年1923年、沖縄に2号歌碑が建立される計画でした。資金が集まらず実現できませんでした。山城正忠の弟子国吉真哲とその仲間たちが1977年、那覇市の真教寺の境内に建立した啄木歌碑に刻まれたのが冒頭の歌です。歌は1923年時点で、山城正忠と国吉真哲が〝碑に刻むべき歌〟として決めていたものです。
 1985年以来の啄木忌となりました。県内外から60人近い啄木研究者・愛好家が参加し、大事な一日となりました。「碓田のぼる氏の大胆な仮説<東海の小島の磯の白砂に>の舞台は沖縄」と題し、私も報告者の1人として立ちました。市民と野党の共闘!啄木が渇望した「新しき時代」!日本国民はいま、確実に手繰り寄せているのではないでしょうか。(宮城義弘)






山城正忠の短冊を手にする平山良明氏、山城正忠自画像を持つ屋部公子さん/左から喜納勝代さん、新城良一氏、平山良明氏

 
2019年4月14日『盛岡タイムス』「啄木忌法要 宝徳寺で献歌、献吟も」「渋民駅副駅名『啄木のふるさと』産声」


 2012年3月『3.11 私たちは忘れない 震災のかたりべ』東北エンタープライズ〇名幸幸照「序文ー・・・ここに謹んで東北の沿岸で亡くなられた多くの御霊とご遺族に啄木の想いを捧げます。 東海の小島の白砂に われ泣きぬれて 蟹とたはむる・・・」

1900年10月20日ー『東京人類学会雑誌』加藤三吾「沖縄の『オガミ』并に『オモロ』双紙に就て」
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1941年10月ー加藤三吾『琉球之研究』文一路社
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泰山エッセイ№16(2011年4月)
 今年は沖縄のいくつかの小学校で、創立130年記念事業があるようだ。1881年(明治14年)沖縄に小学校が設置された。日本の教育制度は1872年(明治5年)8月3日の学制発布で始まったが、沖縄はそれから9年の遅れだ。沖縄の統合は1879年(明治12年)3月27日の廃藩置県令によるが、それは廃琉置県という近代日本国家初の植民地の獲得であったといえる。中国との朝貢関係にあった沖縄では士族たちの抵抗もあり、入学拒否もあった。

1880年(明治13年)には、アメリカのグラント元大統領の斡旋で、琉球列島を分割して、南島(宮古八重山)は清国に、沖縄本島(中島)以北は日本に帰属させるとの分島改約案で妥結したが、清国の都合で締結にいたらず、沖縄の統合は日清戦争での日本の勝利により決着する。それまでは沖縄では旧慣温存政策がとられた。しかし、教育は急がれた。日本国民としての意識醸成、教化、風俗改良などが統合には必要だったわけだ。それは沖縄の歴史・文化を否定する流れでもあった。以来、方言札、三線や琉歌のなど琉球芸能への偏見と蔑視政策が続き、人類館事件に至った。異国情緒あふれる島・沖縄のイメージは戦後まで続いた。

沖縄の近代教育は、まず学校で沖縄の子どもたちに劣等意識、卑屈さを育てることとなった。歴史家比嘉春潮は、教員時代に「沖縄人に沖縄の歴史を教えるのは危険だ」と聞いたと伝えている。日露戦争を経て昭和の日中戦争のころ、中国系の後裔の久米村出身の若者が「チャンコロ、チャンコロ」といって中国を馬鹿にしたら、長老が「ワッターウヤファーウジどぅやんどう(私たちの祖先だぞ)」とたしなめたという笑えぬ話もある。

沖縄の近代教育はいわる皇民化教育と総括されているが、にもかかわらずその結末が、沖縄戦中の日本軍による虐殺や自決強要があり、戦後27年間の米軍統治下への分離となった歴史も忘れてはなるまい。現在では、沖縄ブームともいえるほどに沖縄の人気が高い。三線の日、しまくとぅばの日の条例化など、沖縄差別や異民族視されることをむしろ地域個性として強調するまでになっている。その底流にあるのは、米軍統治や日米両政府に抗して自らの力で歴史を克服し成長してきたことへの自覚自負、自決権への意志である。それを沖縄のマグマという人もいる。沖縄の近代教育は、こうした苦闘の歴史にこそ意味がある。小学校創立130年記念を単なる祝賀行事に終わらせることなく、こうした底の深い沖縄の教育史を振り返り、共有する機会ともしたいものだ。

真栄里泰山「はがきエッセイ№10」
今日2月3日は旧暦元旦、旧正月。私の旧正年賀状も20年になる。明治のご一新で日本は太陽暦を採用して「脱亜入欧」の近代化をしたが、今でも中国、韓国、台湾、ベトナム、モンゴルなど日本の周辺諸国はほとんどが旧正月(春節)を祝う。この時期アジアでは故郷に向かう十数億人もの人口移動現象が起る。ベトナム戦争のころは「テト(旧正)攻勢」もあった。
沖縄では西暦正月を「大和正月」といった。日本最初の植民地として近代化を大和化として受け止めたわけだ。戦後の米軍統治下でもそれが{祖国日本の文化}として新正月運動が強化され、旧正月はじめ旧暦文化が否定されてきた。しかし、今なお沖縄はお盆、十六日、清明、部落行事など旧暦文化が根強い。今度糸満市では旧暦文化体験隊が誕生し、旧正月の若水とりが復活した。白銀堂での御拝みも多かった。
旧暦はアジアのリズムである。その一員としての沖縄の旧暦文化をもう一度見直したいものだ。

真栄里泰山はがきエッセイ
№21(4月13日)  新しき明日の来るを信ず 
四月十三日は啄木忌。今年は石川啄木が逝って百年。岩手の啄木記念館では没後百年記念啄木忌資料展も始まった。啄木は、北海道から沖縄まで全国各地に一六六もの歌碑が建立されており、多くの人に愛されている。苦悶する魂の純粋で率直な表現、志を果たせず屈折する心など、その歌の魅力は誰しもが共感する青春の心そのものだからなのだろう。啄木のみずみずしい感受性は、大逆事件や社会主義への関心、閉塞状況の時代への鋭い批判精神となったが、啄木の魅力は、やはりふるさとへの思いを歌った歌にある。
啄木が「ふるさとの山に向かひて言ふことなし、ふるさとの山はありがたきかな」と歌ったふるさと東北は、今、東日本大震災で未曾有の被害を受け、福島原発災害に苦闘している。災害に黙々と耐え、互いに支え合う東北の人々には国内外から尊敬や賛辞も寄せられているが、愛するふるさとを追われるように避難民として出ていく人、出ていくことができない人など、その揺れ動く心は察するに余りある。しかし、今はこの試練に耐え、乗り越え、未来を見つめていきたい。
一九七七年に建立された日本最南端の沖縄の啄木歌碑には「新しき明日の来るを信ずといふ 自分の言葉に嘘はなけれど―」の歌が刻まれている。この歌は啄木と同人であった山城正忠と国吉真哲(灰雨)の沖縄短歌史における友情と決意の記念の歌であるが、今度は、この啄木の歌を沖縄から東北へのメッセージにしたいと思った次第である。(沖縄啄木同好会)


□写真左から新城栄徳、喜納昌吉氏、中里友豪氏(2021-4-17 南風原の病院で死去、84歳)、詩人花田英三氏、屋部公子さん



2005年10月 大西照雄『愚直 辺野古からの問い』なんよう文庫
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大西照雄氏の著作
2000年10月22日『琉球新報』新城栄徳(書評)ー大西照雄『啄木と沖縄』(あけぼの印刷)/著者は高校教師で社会科を教えているという。現実妥協で県民に背を向ける輩が多数を占めるアブナイ状況の中、著者は高校教師の身で「五感をゆさぶる授業の模索」などと称し環境問題や平和運動に奔走している人物である。本書はヤラなくても良い多忙の中での『私の教育日誌ー学園に愛とロマンを求めて』『「沖縄の太陽」物語』に続く著書である。
本書は今は亡き国吉真哲翁についてふれている。翁は大宜味や本部で小学校代用教員を経て「琉球新報」記者、戦後」は「琉球放送」報道部長、「沖縄啄木同好会」会長などをつとめたジャーナリストで、翁の自宅は別名「国吉大学」とも称され私は最後の「生徒」の一人であった。本書に翁の戦前の詩が紹介されているが、それより古い詩「風景短章」が『南鵬』(大正15年12月)に友人の山之口貘の詩とともに載っている。
真哲翁が『沖縄教育』の編集人のときに文化人類学者で早稲田大学教授の西村真次が来沖し名嘉地宗直宅に投宿中を訪ねて人類学上の話、芸術観や石川啄木の話を3時間も聞いている。西村が東京朝日新聞社会部で社説や政治記事を書いていたときに啄木は校正係として入って来た。その出会いを西村は改造社の『短歌研究』(昭和11年)に「啄木君の憶ひ出」を記し自分宛の啄木の手紙の写真を載せている。著者にとっては皮肉になるが稲嶺沖縄知事は西村の外孫にあたる。
歌人・山城正忠は国吉真哲翁の文学の師でもあるが啄木の文学仲間でもあった。その縁で啄木の墓参りに沖縄朝日新聞の特派員として北海道へ赴く。その旅程は大正15年7月18日の午後5時に台北丸で出帆、乗客に湧上聾人も居た。20日には紀淡海峡上にあって翌日の5時すぎには神戸着、三宮駅を7時7分発で金沢に向かい午後の5時すぎには金沢に着いている。いま分かるのはこれだけである。本書は啄木と北国の人物たちを通して沖縄と北国の連帯を考える好著となっている。


 1912年4月30日『沖縄毎日新聞』山城正忠「噫!啄木君」□昨年の七月帰郷してここ暫く故山に起臥するの身になって以来先に三念君が死ぬし近くは狭浦君が死んだ。かくて今又畏友石川啄木君の死が中央の諸新聞に拠って報ぜられた。かうなるともう故人の為に悼み悲しむといふよりは寧ろ冷やかに彼等生前の面影を惹起せしめることが出来るものである。そこで私は瞑目して静かに啄木君の「風采」を浮かべて見た。苟も新しい歌人といふ名のつくものなら誰しも君の名は記憶しているにちがひない。小説「島影」、詩集「あこがれ」、歌集「一握の砂」の著書に依って此才人の声名を長しへに伝へられるであらう。嘗ては森鴎外先生をして舌を巻かしめた程の天才詩人でその作歌に至っては長く中央文壇の珍とするに足るのである。君は常に「歌は我等の悲しい玩具である」といっていた。私はこのなさけない言葉を思ひ出すたんびにあの死の神に咒れたやうな青い顔色を思ひ出さずにはおられない。私が初めて君を識lったのは去る四十一年の夏雷雨の劇しい暮方であった。その日千駄ヶ谷の与謝野先生の御宅で新詩社の歌の会があった。連中には、先生夫妻を初めとして吉井勇、北原白秋、茅野蕭々、平野萬里、石川啄木といったやうな皆当代知名の青年文士を網羅していた。さうして百首会を開いて夜を徹したことがある。その時から特に心安くしてくれたのは君であった。その蟠りのない素朴な口の利き振りが軈て田舎出の私をしてうちとけしむる媒介となった。その時始めて見た君の顔色に私は直ちに薄命の相があるといふことを直覚した。蒼ぶくれた色艶のわるい顔の色合が常に悲しげに沈んでいる。その後会ふ度毎に私は君の顔色を惨ましく思った。かくて段々相親しくなって君が本郷の下宿にいたときには度々訪れて君の気焔にあてられたものだ。又ある時などはしんみりと悲しい物語に夜を更したこともある。当時余は外国語学校の附属速成科に印度語を学び遠く南洋の地の○展して此敗残の遺骸を菩提樹下に葬むるつもりでいたのでこれを君に計ると「舎したまへ。つまらないことで自棄になるものぢやない。御両親も未だ御存命中だといふぢやないか」とたしなめるやうに忠告してくれた。そうして自分の故里にいる若い妻の話なぞ持出して係累のない私の生活を羨んでいた。そこで自然私の方でも二三の友達の外は知らない悲しい話までも君にはかくさずうちあけて泣いたこともある。それを君は「泣かんでもいいぢやないか。まだ若いんだもの」といってくれた時には私は此他郷の友によって囁かれたなぐさめの言葉が此上もなく嬉しかった。しかし日ならず何かの際で君の一言が気に障り「君のやうな残酷な人にはもう二度と会ふまい」といふ捨台詞を残して突然席を立つたことがある。所があとで松原正光君の話によると、「こなひだ山城君は何だか怒っているやうだったが、どうしたのだらう」といっていたく心配していたといふことを聞いて私はああ○○○事をしたと思い乍ら、遂に又会ふ機会を得なかった。その啄木君が四月十三日遂に死んだのである。私はもう何んとも言ふまい。ただ此天才を抱いて白玉楼中の人となった薄命詩人のために極楽浄土の道安かれと衷心から祈るのである。

石川啄木作成「新詩社番付」左から3番目に山城正忠

1912年5月 親泊朝擢『沖縄教育』第七十三号 山城正忠「琉球の二大彫刻家 梅帯華と梅宏昌」

1927年9月  山城正忠、同人雑誌『珊瑚礁』山里永吉「人間は居ない」→1935年3月『海邦』山里永吉「佐伯氏夫妻」→1991年1月ー『沖縄近代文芸作品集』(新沖縄文学別冊)収録。モデルは佐山明(歯科医)
○1985年11月『歌人・山城正忠』(琉文手帖3号)国吉真哲「珊瑚礁のころ(同人たち)ー佐山明(歯科医)、菊地亮(沖縄刑務所教誨師)、糸数三武郎(訓導)、川俣和(沖縄二中教諭)、型谷悌二郎(国吉真哲)」

1929年8月8日 『琉球新報』本山夢路「再び放浪の旅へー放浪の旅への力附けをして下さいました、山城正忠、川俣和、向井文忠氏 奥様、根尾耳鼻科部長(県病院)花城清用、国場道平諸先輩に心から感謝します・・・」/川俣和「前線を歩む人々(15)眞なるが故に新なり」