祖父(源河朝達)は、私の父の父である。1880年【明治13年】生まれです。生きていたら135歳になります。1970年(昭和45年)に90歳で天寿を全うした。私が22歳の時だった。(略)祖父はよくアメリカ世が良いと言っていました。戦前の沖縄、東京での留学生活、東京の小学校で教えたみたいです。はっきりはわかりません。戦後のアメリカ統治時代(25年間)を経験しています。その祖父がアメリカ世が良いと言うのです。祖父は、背が高く、アメリカ人に間違えられたこともありました。穏やかな性格で怒ったことを見たことがありません。祖父の日記が残されています。私が管理しています→腹話術人形けんちゃんの日記(源河光男)



「源河朝達 履歴書」(作成・新垣基)


1903年4月23日 師範学校証書授与式 源河朝達

1903年4月25日 小学校訓導の新任 源河朝達

1903年5月1日 六週間現役兵合格者姓名 源河朝達
(新垣基 提供)


1908年9月13日『琉球新報』


明治41年(1908年)沖縄師範学校にて 前列1番右が源河朝達、2列目右から5番目が山口辰吉 『空手発祥の地 沖縄』(2017年)より(新垣基 提供)


大正7年(1918)沖縄師範学校附属小学校 前列右から4人目が西銘生楽、その左隣が源河朝達 『沖縄県師範学校附属小学校創立百年の記念誌』(1982年)
(新垣基 提供)


1910年 沖縄県師範学校 右端、髭の人物は空手家・安里安恒とされた三宅先生、そこから左へ本田先生、源河朝達先生。前列左から3人目が山口瑞雨先生/1918年

1912年2月ー太平洋画会の吉田博、石川寅治、中川八郎と丹青協会会員/2列目真ん中の柱、右へ、山口瑞雨、源河朝

関連ー1990年5月19日『琉球新報』「近代沖縄の美術家一堂に 東京の島袋和幸氏 浦添美術館に写真寄贈」


1937年9月『沖縄県人事録』沖縄朝日新聞社/1929年3月『大典記念 沖縄人事興信録』、1916年11月『沖縄県人事録』


1933年7月『沖縄縣人物風景寫眞帖』/1935年10月『沖縄縣人物風景寫眞大観』「沖縄縣立工業学校 校長・源河朝達」


1915年1月 『沖縄教育』100号 源河朝達「手工教授に就きて」


 1931年6月『沖縄県師範学校創立五十周年記念誌』源河朝達(沖縄県立工業)「思出のまにまに」

1935年8月 『沖縄教育』228号 源河朝達「実業学校協会第1回研究発表ー開会の辞」
1937年10月 『沖縄教育』254号 源河朝達「創立三十五周年を迎へて」「座談会 工業教育の過去と将来を語る」

 「雜 報 - J-Stage」耐風瓦の發明 颱風の本場沖繩縣では豫て同縣立 工業學校校長源河朝達氏の研究に 多大の期待をかけ てゐたが, 此程頑丈な 耐風瓦を發明 した, それによ ると沖繩産の瓦を改良 して セメン トで製造 したもの で, その兩側に 小 さい穴を開けて屋根を葺 く時, 針 金でしつか りと結びつけ その上に漆喰を塗 るのであ るが, これは遉がの颱風, 颶風 も絶對に 破損 しないと自信滿 々たるもので目下盛んに製造中である。日刊工業 (昭9. 10. 7)



 腹話術人形けんちゃんの日記(源河光男)祖父は〔鉄の扉〕という琉歌集を2冊自費出版しています。その中の一部を紹介します。
1 朝夕水かけて 育てたる梅や よその鶯のとまて鳴ちゅさ
2 恋の無いん世界に生ちかより馬に 蹴られてやい死ぬせましやあらに
3 七八十までや若者のくばい 九十の年からや天下御免
4 いかなる丸徳の味の素やても 恋の味まかす味や無いさめ
5  若者の恋や空はづみやすが 老人の恋や禅味豊たか  注:空はカラと読んで下さい。
6  恋のある間や恋共に遊で 恋の無いんならはあの世いもれ
7 除夜の鐘ともに百八の煩悩  はらて元旦や朝日拝ま
8  先生がやゆら教え子がやゆら 互いにはげちぶる かたるをかしや
9 人殺す機械作る銭使て 世間御万人の福祉はかれ    注:銭(ジン)
10 朝夕我願や百才まで恋路 遂げて安々とあの世行ちゆし
11  若者の恋や空はづみやすが 老人の恋や禅味豊たか  注:空はカラと読んで下さ
12 銭の無いん里やバス乗やい遊べ 僅か3仙美人揃い
13 友人に先立たれ道迷て居すが  後生に行く道や知らに童