屋良とものぶTravelogue--羽田湯巡り- 最近の銭湯事情2020-9-27
 久しぶりに羽田を訪ねたので玉の湯に立ち寄ったら、何と去年(2019年)の暮れから長期休業とは???? 今では少なくなった薪で湯を沸かす玉の湯はこのエリアでも一番の贔屓だった。残念無念。去年、休業なのでコロナとは無関係。しばし呆然。再開を熱烈希望。気を取り直して近くの入船湯へgo❗ 江戸時代から続く老舗銭湯。何とこちらも廃業、建物跡地にクレーン車が数台置かれ既に更地になってた。2020年3月31日(火)閉店。機械設備の劣化で湯温が安定しなかったのが原因という。江戸時代から続く銭湯を閉めざるを得なかったとは当主の無念が偲ばれる。再度、気を取り直して、ならば、帰り道の「重の湯」だ。ふ~、やっと♨にたどり着いた。
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 #玉の湯-入船湯 客は地元の年配の方が大半、湯船に浸かり目を閉じれば、おしゃべりの中に六郷や羽田の江戸前の漁師言葉が聴こえてきて懐かしい。どちらも京急空港線 穴守稲荷駅から近く、弁天橋も徒歩数分。空港利用者も立ち寄るという穴場の銭湯だった。「世界に一番近い銭湯」とは泣かせる。

 屋良 朝信 舞踏家-伊藤ミカ 2020年07月23日 1969年の夏-池袋-。新宿駅西口地下広場を埋め尽くした大群衆、安田講堂占拠など世界中が熱かったこの時代、政治・社会のみならず芸術・文化の世界でも、演劇なら寺山修司や唐十郎、舞踏では土方巽らがけん引していた。どんな経緯があったのか今となっては定かではないが、当時、首都圏でのフォークブームの渦中、コミュニティーのリーダー的な存在だったSさんから連絡があり、”池袋の劇場で前衛ヌードダンサーの公演があり、踊りのバックで即興演奏する若者を探しているが、屋良、どうだ、一度チャレンジしてみないか?” と声掛けがあった。決められた演奏がある訳ではなく、徒然なるままに演奏してくれれば、ダンサーがそれに合わせて踊るので面倒はないという。掛け持ちでアルバイトしていた頃でもあったし、演劇や舞台芸術への関心も高かったので断る理由はない。ただ一日複数回の公演、ひと夏の長丁場でネタ不足の懸念もありT兄弟やK.I君ら音楽仲間の協力を仰いだ。ダンサーの名は” 伊藤ミカ” 、勤め先が公立中学の教師だったことで既にマスコミの喧伝によって、世間ではスキャンダラスな存在だった。ひと夏とはいえ身近だったせいか、そのころも今も、週刊誌ネタを漁る気はない。
 “好き勝手に弾きまくってくれ”と言われてもその勝手さ加減が分からず戸惑いながら初日を迎えた。客の多くは、芸術を求めてというよりは単純にヌードがお目当てだったろう。簡単な事前打ち合わせと踊りの中で欲しい音を要求していくので流れを注視していてくれとの注文だった。ステージの横手に陣取り、アイコンタクトを取りながら都度、適当な楽曲を選んでいった。仲間の一人がジミヘンドリックスのファンだったので”紫の煙”や”ヘイ・ジョー”、その他モータウンサウンドの代表的な曲を演奏したりした。いまだに引きずる”ちゃらんぽらん”さが伊藤ミカさんの好みに合ったのか、気に入ってくれた。一日3回公演の幕間には、楽屋で世間話に興じて、時々、出前にお昼をご馳走になった。1936年生まれでぼくらより一回り歳上だが、前衛舞踏家として活躍するネーネーの話は興味深かった。
 このひと夏の経験後、ボクは翌年にはヨーロッパに旅立ち、国内の出来事には疎かった。帰国後、ミカさんが突然死したことを知りあ然とした(1971年享年33歳)。入入浴中、浴槽の湯を追い炊きしていたところバスタブの中でそのまま意識を失い事故死につながったと聞いた。壮絶な生き方は壮絶な死で幕を閉じた。ミカさんとの出会い以降、ひょっとしてヌード/ストリップ劇場でギターを弾くチャンスがないものかと各所をあたったがこれは全部断られた。

 屋良 朝信 ファイティング原田ジム訪問記 2020-7-15 無類のボクシングファンだった父の影響で、私はラジオ放送の時代からボクシングに親しんだ。テレビ時代になり、父は原田の試合があると数日前からそわそわしだし、家族に何度も事前告知をした。試合当日は家族全員、テレビ前に陣取り、放送前から全員吊り目状態の異様な雰囲気に包まれた。記憶に残る試合は多くあるが、原田の敗戦試合も含めてジョー・メデル、エデル・ジョフレの対戦が記憶に鮮やかだ。その原田さんのボクシングジムが横浜にある。知人の石井彰英氏が原田さんと面識があり、今回、取材に原田さんを訪ねるというので同行させていただいた。
 御年、77歳になられるがもともと童顔だったせいもあるのかとても顔艶がよく現役時代そのままの”ファイティング原田”然だ。この日のもう一つの目的だが、石井氏がエデル・ジョフレ(85歳)の近影写真をお渡ししたので、いきおいエデル・ジョフレの話題に集中した。既に近影に写るジョフレに現役時代の面影は乏しく、しばらく”ほんとにここに写っているのがジョフレなのか?” と半信半疑の様子だった。” そうだよなぁ、ムリもないよな、85歳だものなぁ” と頷きながら自らに言い聞かせていたのが印象的だった。話の中では何度もエデル・ジョフレに勝ちたいという一途な思いでボクシングに打ち込んだことを話した。ご両人とも高齢でもあり、またこのコロナ禍で往来の不自由な時代だがジョフレに”会いたい!会いたい!ブラジルに行きたい!”と繰り返した。エデル・ジョフレ全戦績75戦69勝(48KO)2敗4引分けの内の2敗は原田との対戦によるもの。
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 たくさんのことをお聞きしたが、ボクは個人的に原田さんの親友だった斎藤清作(後のタレント/俳優 タコ八郎))の話が好きだ。軟体動物系とでも言いたくなる執拗なボクシングスタイルの斎藤清作。無類のお人好しだった彼の話になると原田さんの目が遠い昔をみるように優しくなり、心が温かくなった。

 屋良 朝信 2020年7月5日 佐藤惣之助詩歌碑の移設を考える会
2019年10月31日、未明に首里城が火災、炎上して早や9カ月になろうとしている。沖縄ではこれまで、首里城の再建へ向けたたゆまぬ努力のもと、2026年には首里城が再建される。嘗ての首里城に、大正昭和の時代に活躍した、川崎市出身の詩人佐藤惣之助の詩歌碑があったが別な場所に移設されて今日に至るが、沖縄那覇市の山川宗徹氏が代表を務める-佐藤惣之助詩歌碑移設を考える会-が元の首里城に移設する運動を展開し、その努力が実り令和3年5月15日の惣之助没79回目の命日に「佐藤惣之助詩歌碑」が元の本籍地である首里城公園入口に移設建立されることが決まった。下記は佐藤惣之助詩歌碑の移設を考える会会長 山川宗徹氏によるfacebookへの投稿記事を引用させていただいた。YouTube”宵夏” 詩:佐藤惣之助 曲:屋良とものぶ 三線:御所真一郎 二胡:大関ジュンコ映像プロデュース:石井彰英
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「宵夏」の詩は佐藤惣之助が大正11年5月から7月、沖縄本島、各離島を巡遊、沖縄諸島風物詩集を著し、その中に「宵夏」の詩が載っている。惣之助詩歌碑は令和3年5月15日の惣之助79回目の命日に首里城公園に移設建立される。既に設計業務は完了し、今年度予算に移設工事費が那覇市の予算に計上されている。那覇市議会、那覇市当局、沖縄県、川崎市議会、川崎市当局、川崎沖縄県人会の皆様には多大なご協力を賜り、いよいよ「宵夏」の詩の本籍地である首里城公園に移設建立される日が近づいてきた。心躍る今日この頃である。改めて関係各位に感謝とお礼を申し上げます。 佐藤惣之助詩歌碑の移設を考える会会長 山川宗徹 拝

 関連→山川宗徹 4月7日 天山陵 
 那覇市首里池端町に所在する第一尚氏王統・尚巴志を始め歴代の王も葬られた陵墓跡である。方言名は「ティンサンリヨウ「、天山御墓「テインサンウハカ」、「天山ようどれ」、また「天山」ともいわれたようである。募陵は天山森の南の崖面に掘りこんで、東室、中室、西室の3室あったとされている。1983年(昭和58年)沖縄県教育委員会の調査で閃緑岩の扉が発見されている。第一尚氏滅亡後第二尚氏第三代尚清王の五男である北谷(ちやたん)王子に下賜されて「天山御墓」と呼ばれ、その後も北谷家の墓として利用されたとなっている。
 「中山世譜」によれば天山陵焼失後第二尚氏の一時的な陵墓として使用され、1637年(崇禎10年)第6代尚永王の妃が、1663年(康煕2年)に第7代尚寧王の妃が葬られたとなっている。何よりの証拠は1983年(昭和58年)に地主自身が西室近くで発見した、尚巴志の石棺台座が残存していたことは特筆されることではないかと考える。専門家でもない小生が「天山陵」について記述して意見を述べるのもおこがましいことではあるが、琉球国の礎を造った第一尚氏の功績があったればこそ第二尚氏が400年余りも続き、その子孫が今日まで繁栄している事に、改めて光を当てるべきではないかと思うのである。そして、琉球国を経て今日の沖縄県の長い歴史が続いている事に改めて驚嘆と誇りを持ちたいものです。

 屋良 朝信6月14日 9:58“橋電車” 2020-5-31半世紀ぶりに懐かしの都電34番系統を歩いた。起点;JR浜松町駅金杉橋⇒芝園橋⇒赤羽橋⇒麻布中ノ橋⇒一ノ橋⇒二ノ橋⇒三ノ橋⇒古川橋⇒四ノ橋⇒光林寺⇒天現寺橋⇒広尾橋 通学で利用していた1960年代当時の品川駅前は多くの都電路線のターミナル駅で、夥しい数の都電車両がひしめいていた。都電は欠くことのできない交通手段だった。高校から大学にかけては何かと高輪〜三田周辺に縁があり都電34番系統にはよくお世話になった。貧乏学生の身で都電に乗る金にも不自由なときは、沿線歩き。三田のイタリア大使館の裏辺りを通って芝園橋-赤羽橋に出て渋谷くらいまでは軽く歩いた。途中、少し方向を変えると六本木/赤坂も至近距離だ。34番系統は”橋電車”と呼ばれるほど橋の名の付く停留所が多い。昭和44年廃線、電停名は、今、バス停名に踏襲されている。

金杉橋/将監橋/芝園橋

赤羽橋/赤羽橋/中ノ橋

 16の停留所中12に「橋」がついている。四ノ橋から終点金杉橋までは九つの停留所すべてに橋が付く。東京タワーが近いがビル群に阻まれてようやく赤羽橋でタワーが拝めた。橋の架かる川は上流で渋谷川、下流では古川となり東京湾に注いでいる。大学初年の頃は三田に在った塗装工場でアルバイトをしていた。70年安保のころで大学のキャンパスも長期閉鎖、バイトに明け暮れる日々でもあった。ペイがよかった。給料後で懐が温かい時だったのか、生まれて初めてニコラスのピザを喰ったり、アマンドのケーキを奮発したりしたのを覚えている。


光林寺 (こうりんじ)は東京都港区南麻布にある臨済宗妙心寺派の寺院。慈眼山光林寺。
ヘンリー・ヒュースケン(オランダ系アメリカ人)の墓、東京都港区、光林寺 1856年(安政3年)に初代アメリカ総領事タウンゼント・ハリスに伴われて来日し、ハリスの秘書兼通訳を務めた。 1861年1月14日(万延元年12月4日)にプロイセン王国使節宿舎であった赤羽接遇所(港区東麻布)からアメリカ公使館が置かれた善福寺への帰途、赤羽広小路ないしは芝赤羽新門前町の中の橋の北側で攘夷派『浪士組』所属の薩摩藩士、伊牟田尚平・樋渡八兵衛らに腹部を深く斬られ、善福寺宿舎に運ばれたが翌日死去した。28歳没。 ウィキ
 旅の記憶 〜遊民雑記〜 tomoyaraのblog


 2020年06月01日 ショウセン-五反田駅 10数年前、勤め人時代のこと。営業で外回りの先輩から電話があり、五反田駅で待ち合わせすることになった。” 急遽、取引先と打ち合わせになったので、お前も出て来ないか” とのこと。五反田駅は地下鉄や私鉄の乗り入れもあり、”どの五反田駅へ行けばいいか?” と問うと” では ショウセンの五反田駅で待っている” との答えあり。 ””ん・・? ショウセン?”一瞬、??と思ったが先輩は私より二つ三つ年上、 そこで・・おっ、そうか。ショウセン(省線)のことね・・と合点したが、ショウセンなどという言葉をいまだに使う人がいるのかと驚いた。“先輩、まだ頭の中ショウセンが生きているのですか?” 電話の向こうで“ショウセンて今はなんて言うんだったかな、国電? 国鉄? ん・・E電かい?” というのでそこでまた吹き出してしまった。JRは思い浮かばなかったらしい。E電とはまたシブい。1987年日本国有鉄道民営化に伴い、「国電」に代わるものとして、決めた愛称だが一般には定着しなかった。国電/国鉄の前は「省線電車」(しょうせんでんしゃ)、略称-ショウセンと呼ばれていた。当時、国鉄という名称から抜け出せない人も多かったが、先輩の場合はさらにその前の呼び名を使っていたことになる。

 屋良朝信 「旅の記憶 〜遊民雑記〜旧東海道 かわさき宿 (2) 2020-5-1」
 さて”川崎宿”に戻るが地図に見えるように川崎宿には田中本陣と佐藤本陣跡が示されている。佐藤本陣は別名、惣左衛門本陣といわれ、門構え、玄関付、181坪の建物だった。幕末には十四代将軍家茂が京に上る際に宿泊したという。確認できる記録は手元にないが江戸上りの一行が田中本陣、佐藤本陣に宿泊した可能性は高い。1890(明治23)年、旧佐藤本陣の後裔(こうえい)で詩人・佐藤惣之助がこの家で生まれ、大正から戦前にかけて活躍した。今でも多くの人に親しまれている「六甲おろし」「人生劇場」などの作詞家だ。惣之助は大正11年(1922)、31歳の頃、旅先の沖縄で琉歌に出会い、『琉球諸島風物詩集』を書いた。沖縄の風土、言葉や音楽など「沖縄のすべてが詩だ!」と語ったというほど沖縄にほれ込んだ。日本橋から西に向かって約17km、最初の宿泊地としては距離が短すぎるが、将軍家茂が京に上る際に宿泊したというから大行列ともなればその程度の余裕の旅だろうか。かわさき宿誕生400年の暁にはぜひともこの川崎の地で権力中枢に媚びない琉球王朝絵巻の大行列を見てみたい。
 
かわさき宿交流館/夕映えーかわさき宿 六郷橋/朝焼けーかわさき宿 六郷橋

 屋良朝信 「旅の記憶 〜遊民雑記〜旧東海道 かわさき宿 (1) 2020-4-29」
 旧東海道-かわさき宿が元和九年(1623)に誕生してから2023年で400年を迎える。川崎宿は、東海道五十三次の2番目の宿場である。武蔵国橘樹郡川崎領(現在の川崎市川崎区)に置かれた。最初の諸駅設定時に川崎宿はなかった。神奈川・品川両宿の伝馬継立の距離が長く伝馬百姓の負担軽減を目的として、その中間に位置する川崎に新駅を設置された。日本橋から約17.7km、品川宿からは約9.8km、神奈川宿へも約9.8kmの位置にある。



→「中原中也ジオラマDVD ダダさん You Tube URL」
 屋良朝信 「旅の記憶 〜遊民雑記〜『中原中也-DVD作品ラフ・ミックス版プレビュー 2020-3-18』」
 ジオラマ/映像クリエーターの石井彰英氏が大正〜昭和にかけて活躍した詩人-"中原中也"の生涯を追ったDVD作品(映像/朗読/ナレーション/BGM)がほぼ完成に至り、制作参加メンバーの数人でひとまずの完成品プレビューに同席した。DVD映像は製作者の石井氏-手作りのジオラマをベースに撮られている。DVDリリース:2020年4月末。先々月から微力ながら私にとって未体験ゾーンである詩の朗読のお手伝いをさせていただいた。
 
  12月に中也が住んだとされる鎌倉-扇ガ谷・寿福寺周辺を歩いた際の記事をアップした。中也は鎌倉に住み始めてほどない1937年に、結核性脳膜炎を発症し、鎌倉養生院(現、清川病院)で亡くなった。先だって、本ジオラマDVD作品にも登場する中也・終焉の地である周辺を往時に思いを馳せて歩いた。清川病院は鎌倉駅から八幡宮に向かう若宮大路の東側の参道沿いにある。小林秀雄が最晩年に住んだ雪ノ下も清川病院の裏手にあり、歩いて5-6分のところだ。鞍馬天狗でお馴染の作家・大佛次郎が書斎や文士仲間の交流の場などに使った旧茶亭(築:1919年頃)も近い。ちなみに鎌倉扇ヶ谷の寿福寺に大佛の墓所がある。



 中原中也と鎌倉 2019-12-09 中原 中也(1907年- 1937年); 現在の山口市湯田温泉の中原医院で生まれた。30歳の若さで死去したが、生涯で350篇以上の詩を残した。中也が晩年、鎌倉に住んだことはよく知られる。JR横須賀線「寿福寺踏切」からすぐ近くの寿福寺敷地内(鎌倉市扇ヶ谷)に中也、晩年の住居があった。鎌倉駅西口(江ノ電側)を出て線路伝いに北鎌倉に向かって10数分歩いた左手に寿福寺がある。すぐ先, 右手に寿福寺踏み切りがあり、そのまま進めば海蔵寺だ。線路を渡ったあたりの地名も扇ケ谷だが、小林秀雄や大岡昇平らの住まいがあったという。調べてみるとどうやら小林の住まいは亀ヶ谷坂切通しへ向かう道の途中で、扇ケ谷3丁目7番というのが現在の地番らしい。切通しを抜けると長寿寺だ。長男を亡くし、不安定な精神状態に陥った中也は、小林秀雄など友人の協力を頼りに鎌倉の地に居を移した。寿福寺敷地内にあった住まいから小林宅まで、「在りし日の歌」1938年(昭和13),創元社刊の清書原稿を抱えて、中也がこの道を辿ったという。



1991年1月 中原中也『汚れつちまつた悲しみに―中原中也詩集』集英社

 屋良朝信 「旅の記憶 〜遊民雑記〜『“汚れっちまった悲しみに” 中原中也と川崎-大島界隈』  2020-1-30
 (前略)檀一雄が書いた中原中也(川崎行)という一文がある。たぶんに脚色がありそうだが実名で登場することから創作であってもおおかたは事実に基づいていると思われる。この中で壇が中原を伴って銀座から川崎の下町にある花街まで繰り出しその際に中也とひと悶着となり、果てに雪道に引きずり倒された中也が”汚れっちまった悲しみに”を低吟する場面が描写されている。その下町というのが我が隣町の川崎市-大島とはこれまた想定外でびっくり。昭和初年頃、すでに川崎市南部は工業地帯に変貌して内外各地からも労働者が集まるようになり料理屋・待合茶屋・芸者屋(置屋)が軒を連ねる「三業地」の様相を呈していたと思われる。
 以下、檀一雄が記した中原中也(川崎行);中原は太宰の消燈した枕許をおびやかしたが、太宰はうんともすんとも、云わなかった。あまりに中原の狂態が激しくなってきたから、私は中原の腕を捉えた。「何だおめえもか」と、中原はその手を振りもごうとするようだったが、私は、そのまま雪の道に引き摺りおろした。「この野郎」と、中原は私に喰ってかかった。他愛のない、腕力である。雪の上に放り投げた。「わかったよ。おめえは強え」中原は雪を払いながら、恨めしそうに、そう云った。それから車を拾って、銀座に出た。銀座からまた、川崎大島に飛ばした事を覚えている。雪の夜の娼家で、三円を二円に値切り、二円をさらに一円五十銭に値切って、宿泊した。明け方、女が、「よんべ、ガス管の口を開いて、一緒に殺してやるつもりだったんだけれど、ねえ」そう云って口を歪めたことを覚えている。中原は一円五十銭を支払う段になって、また一円に値切り、明けると早々、追い立てられた。雪が夜中の雨にまだらになっていた。中原はその道を相変わらず嘯くように、汚れちまった悲しみに今日も小雪の降りかかると、低吟して歩き、やがて、車を拾って、河上徹太郎氏の家に出掛けていった。多分、車代は同氏から払ってもらったのではなかったろうか。文壇では中原中也の喧嘩っ早いことは有名で酔えば誰彼、見境なく喧嘩を売るような暴れん坊だったようだ。とはいえ小柄な体が災いして連戦連敗だったという逸話が切なくも可笑しい。
 以下、坂口安吾の手記; 中原中也はこの娘にいさゝかオボシメシを持つてゐた。そのときまで、私は中也を全然知らなかつたのだが、彼の方は娘が私に惚れたかどによつて大いに私を咒つてをり、ある日、私が友達と飲んでゐると、ヤイ、アンゴと叫んで、私にとびかゝつた。とびかゝつたとはいふものの、実は二三米メートル離れてをり、彼は髪ふりみだしてピストンの連続、ストレート、アッパーカット、スヰング、フック、息をきらして影に向つて乱闘してゐる。中也はたぶん本当に私と渡り合つてゐるつもりでゐたのだらう。私がゲラ/\笑ひだしたものだから、キョトンと手をたれて、不思議な目で私を見つめてゐる。こつちへ来て、一緒に飲まないか、とさそふと、キサマはエレイ奴だ、キサマはドイツのヘゲモニーだと、変なことを呟きながら割りこんできて、友達になつた。非常に親密な友達になり、最も中也と飲み歩くやうになつたが、その後中也は娘のことなど嫉く色すらも見せず、要するに彼は娘に惚れてゐたのではなく、私と友達になりたがつてゐたのであり、娘に惚れて私を憎んでゐるやうな形になりたがつてゐたゞけの話であらうと思ふ。
 -汚れっちまった悲しみに- 中也は昭和初期、重工業都市へと変貌を遂げてゆく町・川崎の地に遊んだ。大島界隈には鋼管通り、ゴム通り、セメント通りといった何とも無味乾燥な名を持つ一帯があるが、近辺は嘗て洗濯物を外に干すと工場の吐き出すばい煙で黒く変色してしまうほどだった。 この一文の中で中也が低吟したという”汚れっちまった悲しみに”という印象的なフレーズも往時の油煙にまみれた川崎にこそ相応しいと思えてくる。

鶴見区の南東部、第一京浜国道から南に産業道路方面へ伸びるゴム通り

2020年04月25日17:17 「麦の穂を たよりにつかむ 別れかな」川崎宿と松尾芭蕉

 前回、ブログに書いた”川崎小”からわずか南西に数百m、京急八丁畷駅手前の旧東海道沿いに芭蕉の句碑がある。六郷の渡しからざっくり西へ2キロのところだ。俳句を語れるほどの心得もないが、芭蕉が亡くなって130年後の文政13年(1830)8月、俳人・一種が”麦の穂”の句をここに建立したものだそうだ。元禄7(1694)年5月、故郷伊賀に向かう芭蕉が見送りにきた門人との別れを惜しみ詠んだ句が刻まれている。その年の旧暦5月11日、江戸深川から郷里伊賀へと旅立ち、川崎宿で門弟と別れた。茶屋で別れのだんごを食べながら、芭蕉翁の見送りの俳句を詠みあい、芭蕉が”麦の穂をたよりにつかむ別れかな”の句を返した。
 当時、川崎宿の西端にあった八丁畷の畷(なわて)とは田のあいだの道やあぜ道のことで田んぼや麦畑の続く辺鄙な土地だったのだろう。麦の穂の実る初夏の頃、麦畑一面の麦の穂が風に靡く中、その穂にも掴まりたいような頼りなげな芭蕉の姿に、門人たちは永の別れを覚悟した。このような背景を知らないとイマイチこの句の意が伝わらない。俳句は5・7・5で完結してこそ俳句だがこの句には”五月十一日、武府を出でて故郷に赴く。川崎まで人々送りけるに”という前書きがある。これによって郷里伊賀に向かう旅への不安が”たよりにつかむ”の語で鮮明になる。別案の句では『麦の穂を力につかむ別れかな』とあり句碑の句は改案とも考えられる。”力につかむ”と文字通り、旅立ちに際した自らを鼓舞している姿が見える。
 芭蕉はこの年10月、大阪で世を去る。”旅に病んで夢は枯野をかけ廻る”は病中で詠まれた句で、病床で蕉門十哲の一人・支考を呼び「なをかけ廻る夢心」と考えたが、どちらがいいだろうと訊ねたというから俳人の執念はすさまじい。芭蕉の句の推敲で思い出したのが去年、庄内酒田への旅で出会った句”暑き日を海に入れたり最上川”。初案句は”涼しさや海に入れたる最上川”。書きなおした句が、夏の盛りの日本海河口に沈む夕日をより雄大に捉えている。俳聖といえども傑作を生むには推敲もありということか。日本全国に芭蕉の句碑は2000基あまりあるが芭蕉が句を詠んだ地に建てられた句碑は数少なく、この川崎の”麦の穂”の句碑はたいへん貴重だ。


 2020年04月23日13:32 -川崎小学校 わたしたちの先輩-昨日、上を向いて歩こう〜SING FOR HOPE プロジェクト LOOK UP TO THE SKY (Sukiyaki)を観ていて思い出したので書き留めておく。市立川崎小学校の校門脇に同校の出身である佐藤惣之助、坂本九の功績を記した看板が設置されいる。坂本九ちゃんの『上を向いて歩こう』は世界中で大ヒット。『SUKIYAKI』と題名を変えてリリースされたこの曲(1961年作品)は、アメリカ・ビルボード誌のチャートで3週連続1位を獲得している。1985年、日航機墜落事故に坂本さんが巻き込まれたとの報に国中が悲しみにくれた。
 一方、佐藤惣之助(川崎市出身1890-1942年)は昭和初年にコロンビアレコードの専属作詞家として数々の大ヒットを飛ばした稀代の売れっ子-作詞家だ。『赤城の子守歌』『男の純情』『人生劇場』『湖畔の宿』等々。無縁の存在だろうが"阪神球団歌-六甲おろし"といえばピンとくるかもしれない。その佐藤惣之助が売れっ子の作詞家になる前は大衆歌謡の商業路線とは無縁の詩人で、大正期に沖縄旅行をしたときのことをまとめた『琉球諸島風物詩集』は詩壇でも評価は高く詩作こそ彼の本領だとする者も多かった。