『琉球新報』2020-6 沖縄芸能研究者の當間一郎(とうま・いちろう)さんが18日午後11時21分、腎臓がんのため糸満市内の病院で死去した。81歳。サイパン生まれ、那覇市出身。

 旧グランドオリオン通りに沖縄コレクター友の会の仲里康秀さんが「しんあいでんき」(TEL:090-3322-9908)を開いた・古いラジオ、カメラ、時計や戦前の沖縄風景写真が並んでいる。仲里さんに関して新城栄徳が2004年3月の『沖縄タイムス』・「うちなー書の森 人の網」に書いた。「先月、沖縄コレクター友の会ドゥシ真喜志康徳氏と共に南風原町の仲里康秀氏宅へ遊びに行った。古いジュークボックスなどに囲まれた部屋で1968年の『知念高校卒業アルバム』を見た。恩師の当間一郎、山内昌尚、饒平名浩太郎、津留健二。卒業生の物理・放送・無線クラブの仲里康秀、社会クラブ大城和喜、上江洲安昌、宮平実、高嶺朝誠らの諸氏の顔が並ぶ」。


1967年3月 琉球組踊保存会(代表・真境名由康)『組踊研究』創刊号 


1973年10月『琉球の文化』第4号 当間一郎「組踊の歴史」

1974年5月『琉球の文化』第5号 当間一郎「組踊を考える」


1976年10月 『新沖縄文学』33号 当間一郎「宮良當壯論・・・昭和35年の12月中旬だったと記憶しているが、月刊『琉球文学』(宮良當壯編集)が第12号の発刊をもって廃刊するにあたって、宮良當壯から柳田国男に報告に行くように頼まれたので、友人の宜保栄治郎と二人で、成城の柳田邸を訪ねた。柳田先生は快く迎えて下さり、沖縄研究の重要性、わけても『船』の研究を強調された・・・」

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1980年11月24日ー豊中市立婦人会館で開かれた南島史学会第9回研究大会。中央ー窪徳忠氏、當間一郎氏/左から新城栄徳、崎間麗進氏、島袋光晴氏、當間一郎氏



2000年11月『宮良當壯記念論集』宮良當壯生誕百年記念事業期成会(石垣繁)當間一郎「八重山に現存する組踊写本」/大濵 永亘「新川とその周辺のビロースク(美良底)遺跡とその周辺」

 末吉麦門冬資料を提供したということで當間一郎氏から2010年6月発行『沖縄芸能史研究会会報』第380号(〒901-0152那覇市小禄808-3 電話098-857-2431)が贈られてきた。末吉安恭の沖縄芸能研究が会報全部を占めている。私が興味を持ったのが、はじめの當間一郎氏と宮良當壮との出会いである。宮良は折口信夫の弟子であった。2の末吉安恭の家系で當間氏は安恭の没した日で悩んでおられるが、安恭「莫夢忌」は11月25日である。5として折口信夫の「沖縄採訪記」(大正12年)の話者としての末吉安恭もある。
6が琉球芸能史の実証研究者で、「組踊談叢ーは、組踊に関するエピソードが紹介されていて、興味深い論考である。『踊が物言ふと法もあるものか』といった話。『出様来る者や』の出端のせりふのきまった話。田里朝直の組踊三番にまつわる話。『花売の縁』の出端の道行歌に関する話。『二山和睦』を創作し、母の49歳のお祝いに演じた話。『大川敵討』『本部敵討』の沖縄本島北部までの道のりを、出かけて実地踏査をしたエピソード等、興味深い話をまとめあげたものである。組踊研究で熟読してきた『組踊小言』は、末吉安恭の博学多才を前面に打ち出した論文である。能や謡曲、狂言、歌舞伎、雅楽、浄瑠璃等、わが国の中世、近世、古代の芸能に造詣が深く、それらを駆使しての一大論文になっている。最後に、独学で築きあげたパワーの偉大さを、読むたびに感じている。詩歌や戯曲等においてもハングリー精神旺盛であった末吉安恭の実力を再確認することができた、としめている。

2000年8月30日ー『琉球新報』新城栄徳「命ど宝!/山里永吉の芝居の世界」
 アメリカの歴代の大統領のスキャンダルを紹介している本を読み終わった直後、色男・クリントンの平和の礎での演説をテレビで聞いた。なぜか危険な親しみを感じてしまった。そして、作家の大城立裕氏が本紙に、その演説を批評し話題となったのが「命ど宝」という言葉である。
 大城氏の批評を呼んで初めて気づくのだが、尚泰王の「いくさ世もしまちみろく世もやがて嘆くなよ臣下命ど宝」が、実は、芝居「首里城明け渡し」に本来は無かったということである。大城氏は『うらそえ文芸』5号でも「あれは山里永吉の『那覇四町昔気質』という芝居があって、尚泰王がヤマトに連れていかれるときの幕切れで、歌う歌」と厳密に紹介されている。
山里永吉の戯曲「那覇四町昔気質」が琉球新報に掲載されたのは昭和7年3月で、山里はその後記で「この戯曲は多分13日から大正劇場で上演されると思うが、考えて見ると大正劇場に拙作『首里城明け渡し』が上演されたのが一昨年の今頃、ちょうど衆議院の選挙が終わった当座だったと覚えている。それから昨年の正月が『宜湾朝保の死』、今度の『那覇四町昔気質』と共に尚泰王三戯曲がここに完成した」と述べている。
大城氏も指摘されているが、この歌を尚泰王の歌として定着させた功労者、喜納緑村について少し紹介しておこう。第一豊見城小学校の代用教員、『沖縄新聞』記者を経て、大正2年、雑誌『おきなは』を創刊。昭和3年、『沖縄昭和新聞』主筆、昭和5年に沖縄童話発行所を設立し『沖縄童話』を発行、昭和7年に琉球研究社と改称し、『琉球歌物語』『琉歌註釈』を刊行。一般には『琉球昔噺集』の著者として著名である。
大方のウチナーンチュは尚泰王の、この歌はフィクションだと知っている。事実であれば那覇港に大きな「歌碑」が既に立っている。「命ど宝」の言葉自体は當間一郎編『沖縄県史料ー芸能Ⅰ(組踊)』の「屋慶名大主敵討」にある。昨今、「沖縄のこころ」や「命ど宝」という言葉に難癖をつける傾向が「琉大トリオ」をはじめ、学生にも目だっている。これは形ばかりの気の抜けたジャーナリストが横行していることの証明であろう。(最近も居る)

1940年6月 那覇の大正劇場で「首里城明渡し」上演/7月「那覇四町昔気質」上演

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1960年8月『オキナワグラフ』



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(上)1998年 粟国島「むんじゅる節之碑」の前で、中央が伯父・玉寄貞夫(撮影・新城栄徳)
(中)1999年2月 沖縄県立博物館で、左から新城安善氏、新城栄徳、當間一郎館長
(下)2003年5月 眞喜志康忠宅で、左から平良リエ子さん、康忠さん。後左、新城栄徳、眞喜志康徳さん(撮影・平良次子)。

沖縄県立博物館館長(1992年~1993年)・宜保榮治郎


1972年3月『琉球の文化』宜保栄治郎「沖縄の民俗芸能の分類試論」/2018年7月31日ー沖縄県立博物館・美術館で園原謙氏、宜保栄治郎氏(右)


1973年6月 沖縄の雑誌『青い海』7月号 通巻24号 宜保栄治郎「シヌグ・ウンジャミを観る」
2003年4月28日~5月15日 南風原文化センター「貧しくも楽しい『うちなー芝居』の時代」


2000年11月『宮良當壯記念論集』宮良當壯生誕百年記念事業期成会(石垣繁)宜保栄治郎「宮良當壯琉球文学講座ノート」



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写真上左ー眞喜志康忠優、新城栄徳/写真下ー左、眞喜志康徳氏、新城栄徳、宜保栄治郎氏/右、新城栄徳、人間国宝の島袋光史氏(糸満和美さん撮影)

2015年4月 宜保栄治郎『軍国少年がみた やんばるの沖縄戦ーイクサの記憶ー』榕樹書林 (定価900円+消費税)