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 粟国村観光協会 6月28日 「フェリー粟国」最後の運航日 粟国港を出港する前にセレモニーが執り行われました。最後に”ありがとー”と紙テープで見送りました。


那覇市歴史博物館 6月25日 · 常設展の展示資料紹介
 常設展示室では、琉球王国時代から沖縄戦までの資料を展示して、那覇の歴史を紹介しております。トピック展示として、沖縄戦関係の貴重な資料(宿舎日誌など)も紹介しておりますので、ぜひ一度足を運んでいただければと思います。さて、今回は展示資料の一つ「尚泰辞令書」(尚泰宛 叙正三位位記)を紹介いたします。こちらの資料は天皇から位階を勅授する際に発行した公文書となります。天皇から位階を授けられたのは、琉球王国最後の国王であった尚泰となります。
 1879年4月いわゆる「琉球処分」により琉球王国は事実上なくなり、日本の一部として沖縄県が設置されます。最後の国王であった尚泰は同年5月27日に那覇を出港し、上京しました。東京麹町区富士見町の邸宅を与えられ、1885年5月には旧藩主層(尚泰は琉球藩王とされていた)のなかでは大藩並みの扱いとなる侯爵に叙されます(爵位は最も上位が公爵で、以下は侯・伯・子・男爵と続きます)。尚泰は華族の一人として東京で暮らすことになったのでした。今回展示している資料は、侯爵に叙された2年後に正三位に叙された内容となっています。上京後は来客を絶ち、読書に傾注したといわれる尚泰は、どのような思いでこの公文書を受け取っていたのでしょうか。


大濱 聡 6-25

 斎藤 陽子 (Walnut, California)6-25 日本時間あと1週間で6月も終わり、コロナ禍で落ち着かない生活を重ねている内に、今年も半年が過ぎてしまいます。3月から始まったロスアンゼルスの、新型コロナウィルスとの闘いの、自宅待機も97日目となりました。南カリフォルニアの日中は27℃ほどと幾らか暑くなりましたが、夜間は12℃と冷え込み、布団が欲しいほどで、昼と夜の気温差が大きいです。
 10年前のお正月には常夏のインドネシアで1週間を過ごし、海釣りを楽しもうと沖に船で出ましたら、おびただしいレジ袋やペットボトルが潮の流れに沿って流れている様を見て、釣りをする気になれず早々にホテルに帰って来た記憶があります。日本でもやっとプラスチィク削減目的の、レジ袋使用が見直され、この7月1日からレジ袋を廃止しするようですが、すでにカリフォルニアでは2014年から、スーパーの買い物は自分の「買い物袋」持参が日常化して定着しております。

 さて、きょう掲載しますこの写真は過去に数回掲載していますが、再掲載いたします。既にご存知の方も居ると思いますが、今日の投稿をご存じの方は相当な農業通ですが、この実が何かご存知でしょうか。農業に詳しい方でも、ご覧になった人は少ないと思いますが、おそらくカリフォルニアの人でも、この実を知る人は少ないと思います。これは収穫前のピスタチオの実なのです。ピスタチオの実は銀杏やオリーブぐらいの大きさで、果肉はまったく松の葉と同じ匂いがし、この実の中の種子がピスタチオとなります。原産は古代トルコ、ペルシャなどの地中海沿岸で、農耕文明の初期以来、この地に自生していた原種を食用に栽培してきたといいます。一部のアラブ系、アルメニア系、トルコ系などの人達のみに親しまれてきて、その後、植物愛好家が種子をローマに持ち込みヨーロッパに広がり、熟した種子を殻果ごと焙煎し、塩味をつけたものを食用としました。ピスタチオグリーンと呼ばれる緑色が残り、味は他のナッツ類と異なる独特の風味があり、「ナッツの女王」とも呼ばれています。
 40年前まではアメリカもピスタチオは中東からの輸入品が主流でしたが、ご存知のように中東は紛争地帯と化して以来、カリフォルニアはオレンジ栽培が主流だった農場を30年前ほどから、ひたすらピスタチオ生産へと転換しピスタチオ農地を拡大し、今ではすっかりカリフォルニア名物のピスタチオとなりました。南カリフォルニアからサンフランシスコに行く途中の、サンウォンキン・バレーという広大な農業地帯では地平線の彼方まで、中東に似た乾燥した気温と太陽の恵みを得て、ピスタチオ畑が広がっています。ピスタチオ畑を訪ねた時は果肉がホンノリと色ずき始めたいました、ピスタチオの実の収穫期は8月から10月まででます。銀杏の様に果肉を取り除いて中の種子を焙煎加工して、ピスタチオは市場に出されますが、その集荷場と加工工場は大きな敷地を有し、その施設に相当な資本力を感じました。

 海鳴りの島から6-24 昨日23日は「沖縄戦慰霊の日」で、沖縄は公休日だった。沖縄防衛局も県民からの反発を恐れて工事を止めていたが、一夜が明ければこのような状況だ。沖縄戦の犠牲など日本政府・防衛省にとっては、国土防衛のための献身でしかない。沖縄に新たな犠牲を強いることに、何のためらいもない。


 大濱 聡 6-23■今日6.23は沖縄の「慰霊の日」。東京の六曜社(イベント企画・運営、書籍出版)が公募した〈終戦75年平和祈念「琉球の言ノ葉」〉の短歌の部で最優秀賞になった東京の高校生(18歳)の作品がとてもすばらしい。
 戦死者は数ではなくて人だった碑の名をなぞる指がふるえる【選評】碑に刻まれた人々の名に死を強く実感した作者。その衝撃が「数ではなくて人だった」と直截に述べられ、読む者の胸をつく。この世に生まれた一人一人が名を持つこと、そして戦争によって生を奪われたことを改めて教える。■今日の「沖縄全戦没者追悼式」で朗読された平和の詩「あなたがあの時」の作者もまた女子高校生(17歳)で、聞く者の心に響く詩だった。若い人たちに戦争の記憶と、「反戦・平和」の思いが継承されていることが嬉しい。■戦後50年の1995年、完成した「平和の礎」をテーマにした「NHKスペシャル 23万人の碑~戦後50年目の祈り~」で制作統括を務めた。完成時に23万4183人だった刻銘者は毎年追加され、今年の30人を含めて24万1593人になった。


 青山恵昭 6-23 きょう沖縄反戦平和追悼、摩文仁平和祈念公園にて。

 斎藤 陽子(Walnut, California)6-23日本時間 【慰霊の日を迎えて思う】(前略)戦争が終わって3ヶ月目、沖縄 石川の捕虜収容所のテント小屋で、頭にDDTの粉の洗礼を受けた日が、私の沖縄での幼い記憶の最初です。収容所生活の後は玩具も遊び場もないテント生活の、当時6歳の私の様な子どもたちは、戦争の跡の焼け野が原で頭蓋骨など人骨を拾って遊ぶのが、子供たちの当たり前の生活でした。無名の人骨を拾ったら「この穴に投げ入れなさい」と言われたプールのような大きな穴には、沢山の人骨が有ったのを幼い子供だったのにも関わらず、今でも鮮明に覚えています。6歳に野原で拾った骨を投げ入れたプールのような丸い穴は、今では蓋ができ「魂魄コンパクの塔」となって35000人の焼け野が原に散乱していた無名の方がたの遺骨が収められています。摩文仁の丘には多くの慰霊碑がありますが、「魂魄の塔」だけが唯一遺骨の入った慰霊塔でした。
 小学校では戦火の中で孤児となり、自分の名前も歳もわからない子どもたちが、西原の孤児院「厚生園」から首里の小学校のクラスに数人通ってきていましたが、あの方たちの将来はどうなったのでしょう。小学校の校舎もない時代、木陰での青空教室が小学校がわりの時代で、教科書も無くノートはわら半紙で針と糸で綴じて作った、ノート持参での一年生でした。沖縄はその後やがて、廃墟の焼け野が原から人びとは立ち上がり、日本政府とは交渉の交流の無い沖縄でしたが、人々は自力で必死で復興への道をひた走り、当時は米軍から戦利品をくすねるのが当たり前の生活で成功を収めた人もいます。かたわら瀬長亀次郎氏が独り「反米、反戦」を叫んでいましたが人々は生活に追われて、瀬長亀次郎の街頭演説を真剣に聞いている人は余りいませんでした。
 終戦から米国軍が発行して使用していた軍票B円が、突然、軍票160円が米国1ドルと切り替えられたのも高校時代でした。二日間だけのドルへの切り替えの日には、銀行の屋根の上や銀行入口には、米軍の警備がカービーン銃を持っていた、物々しい光景は今でも忘れることができません。高校の文芸誌は反米思想に偏ってないかの検定を琉球民政府に許可を受けなければならず、反米文章は発刊できない時代でした。また我が首里高校が沖縄で始めて、甲子園で戦った後に甲子園の土を持ち帰ったところ、甲子園という外国からの土は検疫法に違反するとのことで、那覇沖の上陸前の船上で海へ投棄しなければならなかった事件などは、多感な高校生に「甲子園は沖縄にとって外国」という現実を突きつけられて、悔しい思いをしたものです。
 18歳の高校生を終わるまでを沖縄で過ごした日々は、まさしく戦後の混沌とした沖縄の歴史を目の当たりにして生きてきました。そして琉球民政府発行の身分証明書をパスポート替わりに持っての、東京での学生生活は60年安保闘争中、デモ隊の中で樺美智子さんが亡くなると言う事件が、私の大学生活の幕開けでした。学生生活と獣医研修等で過ごした7年近くの東京生活では「オキナワ人」と偏見の眼差しで見られる経験を常時し、何故か沖縄人であるがゆえに肩身を狭くして生きていた自分がいました。そして1ドルが360円という留学生には過酷なドル事情のなか、53年まえに、アメリカへと留学して行ったのです。これらのすべての日々をなぜか「慰霊の日」に思い出すのです。私にとっての「慰霊の日」とは、忘却の彼方を思いおこす日でもあります。

コメントはメールにお願いします→shinjo8109@gmail.com


平良次子6-30 月下美人が咲いて迎えてくれ、嬉しくて嬉しくていい香りに包まれながら/松田 米雄6-30 庭と玄関先に合わせて13輪の月下美人が咲きました。11時半で5分咲きですが、ほのかな香りが漂っています。

 斎藤 陽子 (Walnut, California)6-30日本時間 新型コロナウィルスが発症した後の3月19日以来、100日以上も続く在宅自粛生活に、市民は全ての事に耐えてよく協力しています。新型コロナウィルスを封じ込めに成功しつつあったロスアンゼルスですが、経済的にも限界をきたし、段階的に社会活動を緩和しだした矢先、2週間前から感染率が増加し、段階的に緩和されていたバーなど夜の呑み屋が再び、州知事の厳しい警告に遭い、昨日から再び閉鎖を宣告されました。この感染抑制の効果が無ければ、この後、閉鎖命令の輪はますます他の職場に波及することでしょう。何時まで続くか・・・・憎きコロナです。
 【ビートルズ訪日に思う】1966年6月30日ビートルズの日本公演から54年の記念日にあたるといいます。ビートルズが日本に来たのは私がアメリカに留学する半年前の、それこそ私の青春の真っ只中のことでした。敗戦あとも延々と続いた保守的なファションを打破したい若者たちは、銀座のみゆき通りで「みゆき族」なるものを流行らせていた時代です。若者がこれまでを打破したいと思う時代に、容姿もマッシュルームカットにし、これまでにないリズムの音楽を持ち込んだビートルスは、当時の保守的世相の中で悶々としていた、飢餓状態の若者の魂をトリコにしてしまったのです。
 明治生まれの父には日本で流行りだしたビートルズの音楽が、過激に聞こえたようで、音楽が流れるたびに腹を立てていましたが、私はビートルズの音楽は好きで、父とジェネレーション・ギャップを感じたものです。当時の私は獣医研修中のしがない身には、ビートルズの武道館コンサートまで行って、高い入場料を払う勇気はありませんでした。この半年あとにアメリカに渡った頃、アメリカの町並みではポール・マッカトニー作の「Hay Jude」が空前の流行りとなり、サンフランシスコの街並みの通りにたむろす、ベトナム戦争反対のヒッピーの群れも、この歌を合唱していましたが、この曲をサンフランシスコの町並みで一日に何度聴いたことか・・・。
 そのあとビートルズはインドへ行き伝導師マハラシのもとで、瞑想修行生活を行っていますが、サンフランシスコのヒッピー達にも、瞑想修行のビートルズは多くの影響を与えていました。1967年代後半からジョン・レノンがオノ・ヨーコとベットインなどで平和活動を行う二人が、当時は奇異な活動として私には映って理解しがたいものがありました。先の見えないベトナム戦争のなか、1971年にリリースしたジョン・レノンの作った 平和への願いを込めた「IMAGINE」は、このたび米国の音楽出版協会が、2017年6月 ジョン・レノンとオノ・ヨーコをその共作者として公式に認めたことが明らかになりました。現在 中東などでの混沌とした紛争の続くいま、この「IMAGINE」の歌は人々の心に訴える曲だと思うのは私だけでしょうか。ビートルズは53年前の私の青春の一幕でした。

 [海鳴りの島から] 6-30 沖縄県議会の議長選出をめぐって、与党が分裂し、野党による攻勢が強まっている。県議選だけではない。沖縄戦没者追悼式をめぐる対応や万国津梁会議の委託、人選、辺野古新基地問題についての姿勢など、玉城知事のこれまでのあり方に疑問を抱く人は、知事本人が考えている以上に増えているはずだ。基地問題で米国訪問や全国行脚をするのもいいが、玉城知事がそれよりも優先しないといけないのは、沖縄県内をくまなく歩き、各島々で暮らす住民と繋がりをつくることだ。国会議員ではなく県知事なのだから、地方政治家として沖縄内部で根を張っていかなければ、2年後は危うい。

      
 愛知ママの会 解体撤去まで、早くに中止するほど無駄な税金は使わずに済むはず。6-28 東京新聞『五輪会場は今 熱気いずこ』工事中止、野ざらし、解体撤去…。熱気どころか、開催どころか、もはや現実は"どう後始末していくか"のフェーズに着々と移行。で、今日は東京60人。都知事選でまだオリンピック・パラリンピックやる 出来ると言ってる候補者もいるようだ。もう嗤うしかない。〇T・Y 安倍政権と森、ゆり子のオリンピック事業は大失敗誰が責任とる。

 6月27日 FB友の通信を見ていたら、「ダークツーリズム」というのが出ていた。検索に「(英語: Dark tourism)とは、災害被災跡地、戦争跡地など、人類の死や悲しみを対象にした観光のこと。ブラックツーリズム(英: Black tourism)または悲しみのツーリズム(英: Grief tourism)とも呼ばれている」とある。最近、松尾の古本屋で買った『写真が語る「負の遺産」』双葉社2014年が手元にある。はじめに、近年、「ダークツーリズム」という観光スタイルが注目されている、と述べている。今、現実のコロナ禍で、目の前がダーク。コロナ禍による世界の死亡者50万人超え、国別の死者は、米国が群を抜いて多く12万5千人超で、次いで南米ブラジルが5万7千人台。西欧諸国では鈍化傾向にあるが、メキシコが2万6千人、インドが1万6千人と増加基調が続いている。中東のイランでも1万人台に上っており、死者が1万人を超えたのは計9カ国。→6-29 KYODO

 今は目前のコロナ禍さなか!でも日米両政府によるオキナワ破壊(辺野古新基地)が粛々と進んでいる。粛々と言えば那覇の密集地に、新市民会館の工事も進んでいる。コロナ禍の前であれば許容できた「ハコモノ」かも知れないが、次のコロナ禍に備えての設計変更を緊急にしないと「無用の長物」になり兼ねない。

6月4日ー粛々と建設工事が進んでいる「新市民会館」


しんぶん赤旗6-23「『大阪都構想』ーコロナ禍の今なぜ」/6-25「大阪カジノ業者選び延期」/6-27「緊急事態中下で統廃合工事」/「毎日新聞」6-26 大阪市は5月にオンラインや郵送による10万円申請の受け付けを始めた。しかし、二重申請や記載ミスが続き、6月上旬にオンライン申請を中止。「さまざまな苦情対応で人が割かれた」(松井市長)との声も出ているが、内部で詳しい原因が分かっておらず、対象の152万世帯のうち4万7600世帯(25日現在)にしか給付できていない。

 大阪府保険医協会 2020/3/5【新型コロナ】大阪市の保健所は僅か一カ所 住民の健康は身近な行政でこそ守られるー現在、新型コロナウイルスが国民の生活に大きな影響を及ぼしています。こうした事態に保健所は大きな役割を担う存在ですが、この20年間で保健所は削減され続けています。そこで保健所を守る大阪市民の会の亀岡照子氏に緊急インタビューを実施しました(取材日:2月26日)―はじめに保健所を守る大阪市民の会の活動について教えて下さい。1994年に地域保健法が制定され、全国の保健所の削減が進みました。不健康都市日本一の大阪市では、市民のいのちと健康を守る砦としての保健所を残して欲しいと1995年11月に「保健所を守る大阪市民の会」が発足し、保健所応援団の活動を始めました。初代会長は、大阪大学医学部衛生学元教授の丸山博先生が務めました。65万枚のビラを配布し、旺盛な宣伝活動を行うとともに、厚労省交渉を5回、大阪市交渉や申し入れを17回繰り返しましたが、残念ながら2000年4月に、大阪市の保健所は1つに統合されてしまいました。

  斎藤 陽子 (Walnut, California)6-27 日本時間6月ももうじき終わりますが、新型コロナウィルスでロスアンゼルスに外出禁止令が出て、27日の今日で100日になります。新型コロナウィルスが発症して、在宅自粛100日を迎えようとは想像もしておりませんでした、いささか長すぎる自粛生活で、みな疲れています。24日には何と全米の新規感染者が、たった1日で4万人と最多を記録したとの報道です。カリフォルニアは厳しい外出規制を引いたお陰で、コロナ禍を封じ込める寸前まで行きましたが、余りの厳しい規制で経済面で景気の厳しい状況が出始めて、段階的に外出規制を緩和しだした矢先、この2週間で急に感染者が急激に増え出し、その余りの感染の増え方に、州知事も慌てだしています。
 カリフォルニア州は24日、新規感染者が7149人確認され最多を更新し、カリフォルニア州のニューサム知事はここ2週間で100万人以上にウイルス検査を実施し、約5%に陽性判定が出ていると述べています。おもな感染層は20代から40代が占めているとのことで、特にメキシコとの国境沿いに接するカリフォルニアで、感染の蔓延率が激しい様で緊急状態の様です。州知事はしきりに公共の場での、マスク着用を義務付けていますが、他の打つ手は模索中の様です。
 プラスチック製削減目的から、日本でもスーパーやコンビニで無料配布されていたプラスチック製ビニール袋が7月1日から、全国一斉に有料化を義務付けられるとの方針の様ですが、カリフォルニアでは2014年から、レジ袋の廃止を実行し、各自がマイ買い物袋(エコバッグ)を持参して買い物をしてました。
 ところが・・・・新型コロナウィルスが発症して後、使用を重ねるエコバックが、衛生の面でコロナウィルスの介在源になり得るという感染説が出て、この2週間前ほどから、もとの使い捨てレジ袋使用に戻っています。さてさてカリフォルニアのレジ袋廃止はコロナ禍で、急に方針転換し、今後のレジ袋の行く末がどうなることでしょうか。どなた様も新型コロナウィルスにはくれぐれもお気を付けになって、お過ごしください。



 旅の記憶 〜遊民雑記〜 tomoyaraのblog野の花 異形のものたち(1) 2020-6-26
もう20年も昔、ちょうど今ぐらいの季節、南アルプスの前衛峰・千頭星山域を歩いていた時のこと。林縁の暗がりに何やら不気味なたたずまいの白い物体が目に映じたので気になって立ち止まって観察してみた。うつむき加減に頭を垂れているのは透明な花か?それとも菌類だろうか。何とも怪しげなやつだ。念のため、写真に収めて後で同定してみたらギンリョウソウという不思議な植物だった、光合成をせず葉緑素を持たないという。なるほどそれで白く透明なわけだ。光合成、上手く説明できないけど、地球上の至る所にある、水、大気、光、このどこにでもあるものを利用して緑溢れる地球を作り、動物が生きられる多様な環境が生まれたということか。水を使った光合成では、酸素が廃棄物として排出される。その結果 、大気中の酸素はぐんぐん増えて、酸素に富んだ地球ができ、今の生態系が生まれたという。ギンリョウソウは植物でありながら、光合成をやめてしまうとは何かよほど辛いことでもあったんか? 生存のためのどんな戦略があったのだろう。ギンリョウソウの存在に気がついてから同種のナンバンギセルが、割りと身近にあることを知った。    

  箱根湿生花園/ギンリョウソウ/ナツツバキ(夏椿、沙羅)
 2020ー6ー27 万緑の候 -ナツツバキ(夏椿、沙羅)は、ツバキ科ナツツバキ属の落葉高木。梅雨時の晴れ間。湿度は高いが少しヒンヤリ、長袖を着ていてちょうどいいくらいの気温だった。思いがけず菖蒲畑の入り口近くでナツツバキの花を観た。朝に開花し、夕方には落花する一日花である。お馴染の樹木と思っていたがこうしてじっくりと観るのは初めての気がする。何という清々しい花だろう。椿の名前を冠するが肉厚な椿の花に比べると薄く透き通るような純白の花弁が、折しも降る雨を含んでしっとり美しい。花言葉も「はかない美しさ」とあるからそのまま観た印象だ。別名が沙羅双樹、シャラノキと聞くと、釈迦がクシナガラ(梵: Kuśinagara)で入滅(死去)したとき、臥床の四辺にあったとされる沙羅双樹を思うがそれとは異なる。沙羅双樹は日本の気候では育たないため、日本各地の仏教寺院では本種の代用としてツバキ科のナツツバキが植えられており、沙羅双樹やその別名で呼ばれているという。

 斎藤 陽子(Walnut, California)6-23 日本時間沖縄は今日(6月23日) 太平洋戦争の 地上戦で20万人以上の人びとが散っていった、沖縄戦が終結して75年を迎える「慰霊の日」です。沖縄は太平洋戦争で唯一日本国内で、一般住民が3ヶ月にわたる地上激戦を体験した地で、四人に一人が亡くなったという、沖縄戦は地獄そのものだったと言われています。
 終戦から1年目の1946年にイトコに連れられて、沢山の人骨が集められている丸いプールのような場所に、幼い6歳の私も野原で拾った骨を白骨で半分満たされた大きさの穴に投げ入れた日のことが、いまでも鮮明によみがえってきます。それが今の糸満米須にある1946年、戦後最初に建立された慰霊碑「魂魄コンパクの塔」です。沖縄南部に数多く有ります慰霊塔の中で、この「魂魄の塔」だけが、唯一沖縄戦で亡くなった方がたの「遺骨の入った慰霊塔」でした。
私のイトコ姉妹2人は女子学徒兵として「ひめゆり部隊」に召集され、「ひめゆりの塔」に名を連ねていますが、「魂魄の塔」に次いで「ひめゆりの塔」が戦後直ぐ、写真手前の小さな石柱が建立されました。
 今日の慰霊の日には、沖縄南部に数々有ります慰霊塔で、慰霊祭が執り行われます。わが母校 首里高校の前身 旧制 県立第一中学校の、年端もゆかない一年生までも含む全生徒が、学徒兵として現地召集され 「一中鉄血勤皇隊」 と言う名のもとに、訓練もされない状況のままで、本土防衛の目的のために沖縄の戦場に駆り出され亡くなって逝きました。この「一中健児の塔」には職員及び生徒合わせて200余人が祀られています。過日92歳でお亡くなりになった、元沖縄県知事大田昌秀氏も「一中鉄血勤皇隊」として生徒の身で招集され、激戦に加わり多くの学友を失い、戦後は「ぶれない反戦精神」を貫き、県知事時代に沖縄の戦場で亡くなった人種、国籍を問わない全ての軍属、民間人の人々を祀った「平和の礎」という、素晴らしい平和の象徴の場所を私たちに残してくださった、故大田昌秀元県知事の偉業に敬意を表します。
 今日の平和のいしずえを作ってくださったのも、戦争で散っていった犠牲の方々の上にあることに感謝して、亡くなられた方がたのご冥福をお祈りいたします。「この地球上では戦争は必要ありません」と犠牲になった人々が、叫んでいるような気がしてなりません。合掌

写真左から 摩文仁の丘にある平和祈念公園内の、沖縄の戦場で国籍・人種、軍人・民間人を問わない全ての人を祀ってある「平和の礎」です。「ひめゆりの塔」中央は「魂魄の塔」右側は首里高校の「一中 健児の塔」です。


大濱 聡 6-22※転載ではなく「引用」ということでご寛容に願います。

 「琉球新報」6-22 米軍嘉手納基地の危険物質を取り扱う施設で火災が発生した件で、塩素ガスの粒子が放出されていたことが分かった。米空軍がフェイスブック上で英語の注意文を掲載した。米空軍の医療チームは症状が現れたら受診するよう呼び掛けている。

 斎藤 陽子(Walnut, California)6-22 日本時間 今日6月21日の「父の日」は「夏至」とのこと。夏至とは一年中で最も昼が長く、夜が短いと言います。日本人は四季の季語に敏感に反応し、季語に詳しい国民だと感じますが、矢張り俳句や短歌文化の影響で日本人は四季に関して向き合う心が強く、四季の季語に詳しいのかもしれません。アメリカでは余り四季の季語は話題にならないもので、英語では夏至は(the summer solstice)と言いますが、余り夏至の話題は聞きませんし、英語圏では夏至はあまり日常に馴染みの無い言葉の様に思います。
 夏至は昼が時間的に一番長く、農業者にとって日照時間が長いことは植物に対しての影響も大きいですから、夏至は農業には大切な事でもあります。日本各地で昔は夏至の日に特別に食べる物が有ったようですが、今でも残っている夏至の日に食べる習慣は関西ではタコ、関東や奈良では小麦餅、越前では焼サバとのことです。クルーズでノールウェーの北極圏へ行った時に、暗い夜の無い白夜の影響で、ケシの花がヒマワリほどの大きさになって咲いているのに出会った時には、太陽光線の偉大さに驚きました。

 南カリフォルニアの夏至の頃にはプラムが美味しい時を迎えます。小鳥が先客か人間様かと収穫の時を見計らっていましたが、今年初めての庭のプラム(すもも)も外気が暑くなりだして、熟し収穫の季節です。私の好きな中の果肉が真っ赤なプラムです。しばらくはオヤツがわりに、木からもぎ取って直接口にする贅沢な食べ方をさせてもらいます。あまり多いのでコンポートにしようと思っています。自然の恵に感謝です。

 「南日本新聞」6-21 7月12日投開票の鹿児島県知事選を巡り、南日本新聞の取材に対し、複数の首長に電話で集票を依頼したことを否定した三反園訓知事は21日、一転して電話を掛けたことを認めた。/2019-12-3「西日本新聞」 前回は支援した社民系県議らでつくる県民連合の柳誠子会長は「原発の姿勢が違う方向に向いた以上、支援できない」ときっぱり。三反園氏と「脱原発」で政策合意し知事選への立候補を見送り、今春の県議選で初当選した平良行雄氏(共産)は「原発立地県として原発が争点にならない知事選はあり得ない」と語り、候補擁立を示唆する。

 平良次子6-21 沖縄インドネシア友好協会(The Society of Frendshipfor Okinawa-Indonesia@OkinawaIndonesia · 社会・文化関連サイト)の初代事務局長を務められた金城宏友先生の御家族からインドネシア関係の蔵書を御寄贈していただきました。ただ今、リスト化し、皆さまに貸し出しができるように準備をしております。準備が整うまでもうしばらくお待ち下さい。