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石川正通 1934年1月1日 今人生の峠に立って 夜明けを待つ身に鬼気は迫る  過去の夢は貘に食わそう 未来は神に預けておこう さあ現在だ永劫の現在だ 全き憩いに若水を汲もう
 
1929年9月1日『沖縄朝日新聞』「昭和5年1月、三越において本県物産の展覧会を開催することについては斡旋者たる我部政達氏・・・」(この頃、三越に1919年入店の瀬長良直が居る。1934年、銀座支店長。1937年、大阪支店長)

1930年 世界恐慌が波及
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1930年1月20日~28日ー東京三越4階西館で「琉球展覧会」

1930年6月 『犯罪科学』1巻6号 伊波普猷「古琉球貴族の性生活」
1931年2月 『デカメロン』創刊号 金城朝永「琉球の遊女」
1931年7月 『犯罪科学』別巻2巻8号 伊波普猷「布哇物語」
1931年9月 『犯罪公論』2巻1号 伊波普猷「布哇産業史の裏面」
 1931年9月 満州事変おこる
1932年1月 『犯罪科学』金城朝永「頭蓋骨崇拝」
1932年3月 『犯罪科学』3巻3号 伊波普猷「性に関する南島の民謡」
 1932年3月 満州国建国
 1932年5月15日 海軍将校ら首相官邸など襲撃、犬養毅首相を射殺

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1933年1月1日 大宜味朝徳『南島』創刊

1933年1月 『人情地理』創刊号 金城朝永「迷信のろーかる・からー」
1933年1月 金城朝永『異態習俗考』六文館 伊波普猷「序に代へてー八重山のまくた遊び」
 1933年3月 日本、国際連盟脱退
1933年6月ー仲原善徳『大南洋評論』第1巻第2巻(仲原善徳編集)□金城朝永「南洋関係図書目録」

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1933年7月 仲宗根源和『沖縄縣人物風景寫眞帖』沖縄縣人物風景寫眞帖刊行會
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唐手ー冨名腰義珍
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昭和8年 東京琉球泡盛商組合(金城時男会長)発会式/東京八重山郷友会
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1933年3月5日 大宜味朝徳『南島』第3号/4月5日 大宜味朝徳『南島』第4号

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東京江戸川 伊江島郷友会/鶴見沖縄会館
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東京沖縄県人会/在京首里人会
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横浜市鶴見沖縄県人同志会/富士瓦斯紡績株式会社川崎工場 沖縄県人女工

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1933年8月5日『南島』第7号 久志芙沙子「若葉から拾った哲学」/1934年1月1日『南島』第9号 久志芙沙子「無題」

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1934年1月1日 大宜味朝徳『南島』第九号 久米仙「わが郷里の人々・東京県人会ーかつて筆者は自分の事を『俺は琉球人だ』と謂ったことに対して叱られ、『俺は芋を喰って育った』と書いたので絶交を宣告された経験がある・・・恩河朝健、は副会長で計理士を職業とする。元来計数的智能に乏しい郷土の人々に、近来計理士の多く出る微候の見えるのは喜ばしい事である。」

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1934年2月10日 大宜味朝徳『南島』第十号 久米仙「わが故郷の人々・学者ー教育者ー文士」


1934年7月 金城朝永『異態習俗考』成光館書店 伊波普猷「序に代へてー八重山のまくた遊び」
 
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1935年10月 上原永盛『沖縄縣人物風景寫眞大観』沖縄通信社
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県外篇ー長嶺亀助、神山政良、仲宗根玄愷、渡口精鴻、東恩納寛惇、伊波普猷、翁長良保、銘苅正太郎、大濱信泉、伊豆味元永、比嘉良篤、伊元富爾、八幡一郎、大城盛隆、高嶺明達、宮城新昌、富名腰義珍、翁長良奎、宮城仁勇、奥島憲仁、當山寛、上原健男、島袋全達、田崎昌亮、久高將吉、田崎朝盛、多嘉良憲秀、大城兼眞、仲吉朝敏、仲地昌元、我謝秀裕、安次富長英、
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眞玉橋朝起、國吉眞俊、比嘉春潮、仲本興正(サイパン沖縄縣人會々長)、饒平名智太郎、宮城清、安村師福、仲原善忠、嘉手刈信世、恩河朝健、大宜味朝徳、多田喜導、宮里良保、當間惠榮、親泊康永、島袋源七、山盛哲、宮城出隆、石川元康、多嘉良憲福、漢那朝常、與座弘晴、宮里興保、東風平玄宋,、與世山彦士、我喜屋宗信(大阪湯浅商店代表社員)、平尾喜代松(大阪平尾商店主)、豊川忠進(大阪沖縄県人会会長)、山城興善(益榮商会主)、玉城克巳、下地玄信、翁長良孝
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1936年2月26日 皇道派の影響を受けた陸軍青年将校らが1,483名の下士官・兵を率いて起こした日本のクーデター未遂事件。 この事件の結果、岡田内閣が総辞職し、後継の廣田内閣が思想犯保護観察法を成立させた。

1936年11月 『訓練』仲原善徳「フィリッピン観光記(上)」
1937年1月  帝室博物館「琉球風俗品陳列」
1937年3月ー仲原善徳『南洋千一夜一夜物語』日本書房
1937年3月ー『国際パンフレット通信』第998号 仲原善徳「蘭領ニューギニアの実相」
1937年4月ー『改造』仲原善徳「蘭領ニューギニア」
1937年7月  新宿伊勢丹で「琉球と薩摩の文化展覧会」
1938年4月  国家総動員法公布(5月5日施行)日中戦争に際し、国家の総力を発揮させるために人的、物的資源を統制・運用する権限を政府に与えた法律。昭和13年(1938)制定、同20年廃止。
1938年12月ー『比律賓年鑑』仲原善徳「比律賓群島の諸民族」


平敷一族/平敷安用・平敷安興
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「東京琉球泡盛商一覧」(1933年3月5日ー大宜味朝徳『南島』第三号)

松井町2の1-平敷安用□東京に
本所区於ける琉球泡盛の今昔ー私は大正14年6月に東京に於いて泡盛の卸業を始めたのであるが、当時と今日と比較してすべての方面に隔世の感が致すのである。当時吾々が泡盛を販売するのに苦心したのは全く想像以上である。第一に泡盛の名称さへ知らない、酒類業者や飲食店業者の間にも泡盛の何であるかを知らぬ人々が多かった位だから、一般の人々の知らぬのも無理のない話である。只僅かに九段を御得意とする極少数の間に知られているのみであった。斯様な有様であったので私は先ず泡盛の特質及び其の名称の宣伝に初めは全力を注いだので其時は酒販売業者は勿論あらゆる縁故をたどって宣伝に之努めたものであった。之を取引の状態から見ても全く御得意の信用状態が不明なので貸倒れになったり非常に苦痛を感じたものであった。泡盛卸の創始時代はすべてがお先まっくらで、泡盛取引を中心にして暴力団も横行すると云ふ有様で、一時は死線を越えて事業を為すと云ふ危険な状態も現出した位である。斯様な有様であったから商売道徳と云ふものはなくまぜ物割り物が熾に横行し、今日では誰も本気にするものなく一笑に附することであるが一例を申せば吾々が泡盛は無色透明が純粋なものだと云っても本気にしない。濁ったものが眞の泡盛だと信じた人も多かった位である。

今日の如く同業者も多くなり取引も合理化され組織化され泡盛の眞面目が発揮されるまでには、我が琉球泡盛は東京市場に於いて幾多の受難を得て今日の地位を築き上げたのである。当時一ヶ月三十本を売り捌くにはなかなか容易でなかったそれが今日東京に於いて我が琉球泡盛は三千石以上の需要をなしている、この点より見ても隔世の感で、殊に一昨年より急激に需要が増加して来たのであるが一面慥に琉球泡盛の真価が認識されて来た結果であると信ずる。克く酒類業者或は飲食店主の間に泡盛は度が強いため多量に売れぬから商売にならぬとか、或は商標が無いから信用が出来ぬとか、言ふ人があるが、私は之等の人々に対して沖縄に於ける取引の状態、産業状態を説明しているが私は左の点はいつも力強く主張しているのである。  /酒類の中で泡盛程完成した酒はない。又泡盛販売業程堅実な商売は他の酒類業にはない /と云ふことである。外の酒は日時がたてば腐敗する、従って販売上にも思惑が生じ投機が行はるるのであるが、泡盛は決してそんなことはない。第一品が完成品であるためいつまでも経っても品がわるくなると云ふことがない従って思惑も入らねば投機も入らぬのである。泡盛業の堅実なる所以も実に茲に存するのである。

尚私は事業と云ふものは信念を持って実質本位で行く時は必ず永久性のあると云ふ事を信じている、私は泡盛は酒類の王座であると云ふ事を科学的に立派に説明し得る自負心を持っているので、堂々と初一念を貫徹して来たのであるが、今後もこの業界に邁進し、琉球泡盛の聲価発揚に尽力するの覚悟である。之が亦琉球泡盛業者の生命線を確保する所以である。(写真は平敷氏)

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1936年11月 嘆願書○泡盛専売実地セラルルニ当リ東京府、近県、東北各県並北海道ニ至ル地方ヘノ配給ヲ円滑ニ遂行シ萬遺漏ナキヲ期スル上ニ於テハ是非配給機関ヲ当東京市ニ設置スル必要之有ト存セラレ候   右ニ関シ沖縄県酒造組合聨合会並ニ沖縄酒造組合ニ対シ別紙ノ通リ開陳仕リ候ニ付泡盛元売捌東京支所設置方ノ御指定ハ左記八名ニ御下命仰キ度茲ニ謹テ連署此段奉請願候也 
                          東京市本所区千歳町三丁目三番地ノ十九 平敷安用 他七名 
大蔵省専売局長官 荒井誠一郎殿                                     


氏集□金氏平敷里之子ー元祖金國鼎具志頭親方能安四世金朝榮津嘉山親雲上安春支流次男諱榜第津嘉山里之子親雲上安齊□平敷安常さまー金氏平敷家の家譜の写本とかは残っていませんでしょうか。何かあれば那覇市歴史博物館(〒900-0015那覇市久茂地1-1-1パレットくもじ4階 ℡098-869-5266 FAⅩ098-869-5267)に連絡をください。那覇市歴史博物館は沖縄中の家譜を収集中です。


11月18日ー平敷安常□初めまして。琉文21;東京の泡盛②に記載されている本所区の泡盛商である平敷安用の孫で、平敷安常と申します。祖父安用が書いた小文が引用されております。祖父安用一家は東京の空襲で焼け出されたあと、熊本に疎開、戦後は、駄菓子の卸商等をしておりました。長男安彦は、戦後すぐに、若く病死しましたが、孫たち4名は健在です。小生は米国ABCニュースのカメラマンとして2006年まで勤め、現在米国ニュージャージー州に住み、2008年に回想録『キャパになれなかったカメラマン」を出版しました。貴紙のブログで祖父の文章の一部と広告の写真を見つけ、懐かしく、全文を読みたいとメイルでお願いする次第です。「琉文21」のような、地味でも優れた企画を続けられるご苦労に深く敬意を表します。

11月20日ー沖縄県立図書館で「平敷安常」を検索、すべて講談社発行で『アイウィットネス時代を目撃したカメラマン』(2013年6月)、『キャパになれなかったカメラマン ベトナム戦争の語り部たち』上下(2008年9月)の3冊があった。『アイウィットネス時代を目撃したカメラマン』は借りて、後の方は文庫に入っているのでジュンク堂で買った。前の著で、著者の母親である良子さんの実家が馬氏小禄家であること、同時多発テロで瓦解したツインタワーを設計したミノル・ヤマサキ(山崎實)の妻・輝子が、著者の祖父安用の従兄弟・安興の長女で、その長男のタロー・ヤマサキは報道写真家で1981年、フィーチャー部門でビュリッツアー賞を受賞していることがわかる。

平敷安興
□1981年11月 北米沖縄クラブ『北米沖縄人史』若夏社□ロサンゼルス近郊における沖縄系の事業ー平敷安興(首里出身)・太田蒲戸(与那城出身)1914年、平敷安興はロサンゼルス第六街市場で「スタープロデゥース」という農産商会を始む。1916年、平敷は白人仲買商マイヤーダ―リングの日本人主任として勤めていた太田蒲戸を共同者として迎えた。その後、奥武朝道、比嘉常知、松田勇吉らも共同者に加わる。平敷が正直者で、世人の人望の高かったことをある人はウタで「仲買ひを盗人と呼ぶ世の中の 闇夜に光る暗(アン)光の君」。その後1918年、共同者の奥武、比嘉、松田の3名は、共同者の権限を太田、平敷にゆずる。全盛期には約20名ほどの雇用人がいて、遠くはインペリアル・バーリー、サンディエーゴ、ランポーク、近くはロサンゼルス郊外の日本人農家を対象に、果物ならびに野菜の委託販売を始めた。1941年12月7日、日本のパ-ルハーバー空襲で日米戦となり、店を閉鎖。明けて42年、西部沿岸の日系人と共に収容所へ立ち退き、この時点で平敷、太田両氏の事業は終止。その後両氏は相次いで他界。/北米沖縄系人のプロフィールー平敷安興は1876(明治9)年4月10日に沖縄県首里で出生、中学校を卒業するや留学生として1903年渡米する。サンフランシスコに上陸、その地でしばらくセント・フランシス・ホテルでベイカーとして働く。クックとしての腕も上々で、沖縄県人として彼の右に出る者がなかった。(略)彼には2男2女がある。長女テル子は南加大学の音楽科を優秀な成績で卒業し、ニューヨークでピアノを教授していたが、その時、ヤマサキ・ミノル氏と知り合い結婚し、3名の子供の親となった。次女アキはロサンゼルス加州大学(UCLA)在学中に立ち退きにあい、ニューヨークに移り、コロンビヤ大学に学ぶ。彼女は小児科専門の山崎ゼイムス医師と1949年に結婚、家庭には3名の子供がある。長男ジョージは1923年に生まれたが不幸にして1924年に他界した。次男ゼイムスはサンタ・アナに本店を持ってプラスチック・ドレイプリーのビジネスをして繁盛している。/平敷俊子(旧姓トミナガ)ー首里で出生、沖縄県立第一高等女学校を卒業。平敷安興と結婚。

11月22日ー平敷安常□琉文21編集者様;
早速のお手配で、祖父平敷安用が書いた泡盛商としての感想文、全文を読むことが出来ました。若き頃の写真も添えつけていただき、そのお心遣いに感謝いたします。生れて初めて祖父の文章を読む機会があり、こんな形で祖父の一面を知ることが出来感動しております。まずは方々に散らばっている平敷の親戚たちにこのことを知らせます。
2017年10月31日ー渡部(新井)祥穂と申します.
「琉文21」で取り上げていただいた,平敷の家の出身の者です.平敷安用氏の,弟の曾孫です. コメントを寄せた平敷安常とは,安常の父と私の祖母が いとこどうし,ということになります.親戚筋でも断片的にしか知らなかった情報をまとめていただき,ありがとうございます.