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大阪沖縄絵図
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テレホンカード
 私の17歳は東京一の繁華街、新宿歌舞伎町の大衆居酒屋「勇駒」で働いた事もある。その頃は若くてパワーもあった。20年ほど前、浅草寺初詣に行ったとき参拝者の列に入ったら全く身動きが取れなく離脱したこともある。とにかく過密都市でのオリンピック開催は気が知れない。いずれにせよ静かな場所に憧れて京都に住み着いたのが1969年であったが、盆地だから夏は暑く、冬は底冷えに寒い。復帰前、沖縄関係資料室主宰の西平守晴さん一家と同行、生駒聖天に初詣したのが生駒との出会いである。その後、私の家族は生駒に直通する近鉄奈良線の布施駅近くに住むことになる。

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2022年7月 あけみ、こうた/ユンタンの孫


宝山寺と新城あけみ
宝山寺(ほうざんじ)は、奈良県生駒市門前町にある真言律宗大本山の寺院。生駒聖天(いこましょうてん)とも呼ばれる。山号は生駒山(いこまさん)。1678年に湛海律師によって開かれた。本尊は不動明王。鎮守神として歓喜天(聖天)を天堂(聖天堂)に祀っている。仏塔古寺十八尊第十五番。(→ウィキ)
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1985年10月 宗教社会学の会編『生駒の神々ー現代都市の民俗宗教』創元社〇朝鮮寺ー在日韓国・朝鮮人の巫俗と信仰ー

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2006「トンビの目のパノラマ地図」
 写真ー『沖縄美術全集』4絵画・書 山口宗季「花鳥図」大和文華館所蔵
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○我が家は近鉄奈良線の布施駅近く(上の赤丸・東大阪市)にある。奈良公園や、唐招提寺・薬師寺、大和文華館(山口宗季の花鳥図、座間味庸昌の人物画が所蔵されている)、近鉄資料室や大阪ミナミ(道頓堀)に出るのに便利である。奈良はシルクロードの終点と言われているが、1977年発行の辛島昇①編『インド入門』に「日本人のシルクロード好きは、毎秋奈良でひらかれる正倉院展にどっと人があつまる事情と軌を一にしたものである」とし「むかし大東亜共栄圏という日本を扇の要においたひろい意味での文化圏を捏造した国粋主義に通じる」とする。奈良は東大寺の大仏や興福寺の五重塔、阿修羅像でも知られ世界遺産でもある。
①辛島昇 からしま-のぼる
1933- 昭和後期-平成時代の南アジア史学者,インド史学者。
昭和8年4月24日生まれ。専門は南アジア史。昭和50年東大教授。のち大正大教授。平成15年「History and Society in South India:The Cholas to Vijiayanagar(南インドの歴史と社会─チョーラ朝からビジャヤナガル王国へ)」で学士院賞。19年文化功労者。東京出身。東大卒。著作に「インド入門」など。→コトバンク

東大寺大仏殿ー2017年1月/ 『毎日新聞』2019-11-1 那覇市の首里城で起きた火災を受け、奈良県内の文化財でも31日、防火設備の緊急点検などが行われた。 奈良市の東大寺大仏殿では同市中央消防署員ら7人が緊急査察を行い、建物や周辺に設置された消火器や放水銃、自動火災報知機などの防火設備約30カ所を点検した。特に問題はなかったという。

奈良近鉄駅ビル3・4階に歴史・観光の展示館「なら奈良館」(旧・奈良歴史教室)

源平争乱によって焼失した東大寺を、重源はその資金を広く寄付にあおいで各地をまわる勧進上人となって、宋人陳和卿の協力を得て再建にあたりました。そのとき採用されたのが、大仏様の建築様式で、大陸的な雄大さ、豪放な力強さを特色するもので、この東大寺南大門が代表的遺構です。

国宝・銅造盧舎那仏坐像/重文・如意輪観音坐像

大仏殿にある広目天像  多聞天像 

小説家して有名な森鴎外は、大正6年に帝室博物館の総長に任命され、東京・京都・奈良の帝室博物館を統括する要職でした。大正7年から10年まで、秋になると鴎外は正倉院宝庫の開封に立ち合うため奈良を訪れており、滞在中の宿舎はこの場所にありました。

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1972月3月 昭和女子大学近代文学研究室『近代文学研究叢書』「森鴎外」第二十巻

 2006年5月13日ー午後は、近鉄丹波橋で降りて、御香宮神社に行く。名水「御香水」が境内にある。この神社には京都市天然記念物のソテツがあり、その実は「延命厄除そてつ守」になっている。鳥せい本店側では名水「白菊水」、月桂冠大倉記念館では名水「さかみづ」を飲んだ。同時に昼間からきき酒で顔が赤くなった。
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御香宮神社
近鉄奈良駅西口を出て地下道を通って近鉄高天ビルに出て歩道を西の方に歩くと直ぐ通称「山の寺」という看板が見える。奧まったところに「葵」の紋を打った山門が建っているところが浄土宗降魔山「念仏寺」である。門をくぐると降魔山と記された燈篭がある。その傍らに蘇鉄。1614年(慶長19年)11月15日徳川家康が大阪冬の陣の折、木津の戦いで真田幸村の軍勢に敗れ、奈良へ逃げ延び、この地の小字山の寺に至って、桶屋の棺桶の中に隠れ、九死に一生を得た。その後に、家康が豊臣方を破って、天下が治まった、1622年(元和8年)徳川家康の末弟で当時伏見城代を務めていた松平隠岐守定勝が、ここ油坂・漢国町を買い受け、袋中上人を開山として諸堂を建立したのが、山の寺「念仏寺」の始めである。

浄土宗降魔山「念仏寺」
〇御香宮神社は徳川家と深い関わりがある。徳川家康が豊臣秀吉のあとをうけ伏見城で天下の政事をとったおり、尾張、紀伊、水戸の御三家の藩祖と、秀忠の娘千姫はこの伏見で誕生している。御香宮を産土神として特別な崇敬を払っている。御香宮の神門は1622年に水戸中納言頼房(水戸光圀の父)が伏見城大手門を寄進したものと言われている。
□御香宮神社は江戸末期の慶応4年(1868)正月に勃発した「伏見・鳥羽の戦」では、吉井孝助率ら官軍(薩摩藩など)の屯所となった。片や幕府軍は大手筋通りを隔てた南側200mほど離れた伏見奉行所に陣(伝習隊、会津藩、桑名藩、新撰組などが)を構えた。大砲・鉄砲などの弾が激しく飛び交ったが、御香宮は幸いにして戦火には免れている。官軍の屯所となった境内には「明治維新伏見の戦跡」の石碑がある。

寺田屋事件(てらだやじけん)は、江戸時代末期の文久2年4月23日(1862年5月21日)に、伏見の旅館・寺田屋に滞在していた尊皇攘夷の過激派志士が弾圧された事件。薩摩藩の事実上の指導者で藩主茂久の父島津久光はこのとき公武合体を推進する立場で、自らの入京を機に勝手に挙兵討幕を企てる薩摩藩士有馬新七らを快く思わず、志士らの暴発を防止しようと、藩士に命じて従わぬものを上意討ちさせた。同郷の藩士同士が斬り合う凄惨な乱闘となり、7名が死亡して2名が致命傷を負い、後に切腹したものを含めて9人の殉難者を出した。事件後、久光は多くの志士を京都から追放し、勅使大原重徳を擁して江戸に向い、一橋慶喜を将軍後見職、松平慶永を政事総裁職とする幕政改革を行った。→ウィキ

上図単衣は木綿にして奈良原男爵が寺田屋騒動の時着用せられしもの、右肩の白みたる処は血のにじみ付きしものにて五六寸の刀痕あるものなり。/刀ー上段は寺田屋事件の時に用いたもの、下は兄喜左衛門が生麦事件に用いたもの

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1983年9月 山本眞嗣著・水野克比古撮影『京都伏見歴史紀行』山川出版社


奈良・飛鳥の本

平良盛吉□→1991年1月『沖縄近代文芸作品集』(新沖縄文学別冊)平良盛吉「村の先生」/平良盛吉(1890年8月28日~1977年6月28日)1912年、沖縄ではじめての総合文化誌『新沖縄』を創刊。琉球音楽研究家。『関西沖縄開発史』の著がある。□→2009年5月『うるまネシア』第10号/新城栄徳「失われた時を求めてー近鉄奈良線永和駅近くに平良盛吉氏が住んでおられた。息子が1歳のとき遊びに行ったら誕生祝をいただいた。袋は今もある」null
右の電報は青い海出版社から「息子誕生」の祝電である。

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2020-8 こうたろう/1974-7 こうたろうのパパ

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伏見桃山城、息子と娘

 大阪、奈良の双方から望める金剛生駒国定公園内の大阪生駒霊園に阿氏西平家の墓、近くには大阪沖縄県人会の共同墓地「かりゆしの郷」もある。

元祖阿姓南風原按磁司守忠七世西平親雲上守安四男守秀ー守朋ー守保ー守孝ー守紀ー守諄ー


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 今年3月15日にJR西日本「おおさか東線」が開業した。5月26日、息子の家(布施)から近い真新しい長瀬駅から乗る。久宝寺駅で乗り換え王子経由で9時前に法隆寺に着く。法隆寺は日本仏教の始祖といわれている聖徳太子を祀っている。日本最初の世界文化遺産でもある。法隆寺には和歌山有田の修学旅行生がバス3台で見学に来ていた。このときは夢殿とその周辺を見て帰った。那覇に帰る前日の6月6日、あけみと一緒に改めて法隆寺見学、金堂は改修工事中で上御堂で御本尊の金銅釈迦三尊像を拝観。1998年に完成した大宝蔵院には百済観音像玉虫厨子などが安置されている。出てすぐの所の大きな蘇鉄の前で、あけみを立たせて記念写真。法輪寺、法起寺の三重塔も見学した。
 辛口批評家の谷沢永一氏著『聖徳太子はいなかった』新潮新書によると、柳田国男は聖徳太子が虚構であることを知っていた。古事記や日本書紀について書くのは柳田は慎重であったという。柳田が自分の見るところ信じられるところにしたがって記紀をいじれば、なにしろあの時代においてのことであるから、かならずヤケドするとわかっていた。とくに民俗学は理論をおしすすめてゆくと、当時やかましかった国体の問題につきあたる。折口信夫も微妙に避けた。現代の学者がおのれの創見であるといなないているテーマのいくつかは、知られていたけど書けなかった、という。俳人・末吉麦門冬も南方熊楠宛の書簡で「小生も嘗て『古事記を読む』の題にて古代人の恋愛問題を論じヨタを飛ばし過ぎた為か、これを載せた新聞の編集人が、検事局に呼出されて叱られた」と書いている。

法隆寺の蘇鉄
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夢殿にたたずむ新城あけみ
聖徳太子が住まわれた斑鳩宮跡に、行信僧都という高僧が、聖徳太子の遺徳を偲んで天平11年(739)に建てた伽藍を上宮王院(東院伽藍)といいます。その中心となる建物がこの夢殿です。八角円堂の中央の厨子には、聖徳太子等身と伝える秘仏救世観音像(飛鳥時代)を安置し、その周囲には聖観音菩薩像(平安時代)、乾漆の行信僧都像(奈良時代)、平安時代に夢殿の修理をされた道詮律師の塑像(平安時代)なども安置しています。この夢殿は中門を改造した礼堂(鎌倉時代)と廻廊に囲まれ、まさに観音の化身と伝える聖徳太子を供養するための殿堂として、神秘的な雰囲気を漂わせています。(→法隆寺)

昭和25年4月 いかるが会『法隆寺手帖』


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2023年8月16日昼 新城栄徳、近鉄奈良線で薬師寺/唐招提寺へ
 週刊新潮 2018年5月24日号★特集「世界遺産の『古刹』に艶聞! 不邪淫を説く『薬師寺』管主(村上太胤たいいん71)が口説いた40代美貌のホステス」より

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2013年5月15日 公益財団法人平山郁夫シルクロード美術館」館長 平山美知子さん、新城栄徳(このとき平山画伯夫人に薬師寺は大阪の家から1時間で行けます、といったら『羨ましい』と答えられた。奈良・薬師寺玄奘三蔵院の壁画は平山画伯の作。)
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戦前のオキナワノ嶽(神名ヨリアゲ森カネノ御イベ)

那覇市安里のバス停崇元寺近くにあるオキナワノ嶽(神名ヨリアゲ森カネノ御イベ)、ハーリーのとき泊村が祈願する。

□1925年2月 仲原善忠『日本外交史』イデア書院
命がけの航海ー第二船には古磨と支那の有名な坊さん鑒真和尚(鑑真和上)が載っていました。此の人の伝記(鑒真和尚東征伝)を読むとその時分の航海がいかに困難であったか細かくかいてあります。此の船は15日に他の船といっしょに楊州を出発し、暴風のため6日間あちこち吹き流されて21日に沖縄につきました。第三船も前夜そこに吹き流されて来ています。翌月6日に風が出たので出発しょうとしたが浅瀬に乗りあげて動かない、島人の助けによって、やうやう船を下ろし7日にそこを出て屋久島にちょっと寄って20日にサツマの國川邊郡の秋目につきました。鑒真和尚は奈良に行って有名な唐招提寺を立て聖武帝や光明皇后の信仰をうけた人でその寺は当時の学問芸術の中心になったことはよく人の知っている所です。

□恵心僧都「観世音菩薩の像」

恵心僧都 【けいしんそうず】
平安中期の天台宗の僧。恵心流の祖。大和生。諱は源信、恵心僧都は通称。良源に師事し、顕密二教を学ぶ。また『往生要集』を著し、以後の浄土宗信仰の展開に大きな影響を与え、宋でも高く評価された。寛仁元年(1017)寂、76才。 →コトバンク

□伊波普猷『沖縄考』
東恩納寛惇君の琉球地名考中の「沖縄」の項を引用して、緒言に代へよう。延歴僧録中、淡海三船が僧鑒真伝、天平勝宝五年冬、遣唐大使藤原清河、副使大伴古磨、吉備真備、僧鑒真、唐より帰朝の途次、暴風に遭ひて「阿児奈波島」に漂到したる記事を以て始見となす。琉球古代の神歌「おもろ」に『オキナワ』に作る。



琉文菴は同じ世界遺産の法隆寺、京都、熊野にも取り囲まれているがかつて那覇の小中学時代の歴史教科書で慣れ親しんだ大和、奈良、平安、室町、安土桃山の各時代の舞台にも近い。其れはさて置き、鎌倉芳太郎『沖縄文化の遺宝』に、鑑真和上が来た阿児奈波島の港は安里川に面する「ウチナーヌウタキ」(沖縄美御嶽)の拝所附近と推察する、としている。天平勝宝5年(753年)遣唐使3船一行(①吉備真備ら)は10日余、安里の此所に南風の吹く日の風待ちのために滞在したということである。


鑑真和上のころの東大寺
①きびのまきび【吉備真備】 695‐775(持統9‐宝亀6)
もと下道(しもつみち)真備。奈良時代の学者,政治家。備中国下道郡出身。父は右衛士少尉下道圀勝(くにかつ)。母は楊貴(八木)氏。圀勝の母の骨蔵器が岡山県矢掛町三成で発見されている。716年(霊亀2)22歳で唐への留学生となり翌年出発し,735年(天平7)に帰国。唐では儒学のほかに天文学や兵学,音楽も学んだことは,帰朝時に献上した《唐礼》130巻(経書),《大衍(えん)暦経》1巻,《大衍暦立成》12巻(以上天文暦書),測影鉄尺(日時計),銅律管,鉄如方響,写律管声12条(以上楽器),《楽書要録》10巻(音楽書),絃纏漆角弓,馬上飲水漆角弓,露面漆四節角弓各1張(いずれも騎馬民族の使う弭(ゆはず)が角製の弓),射甲箭20隻,平射箭10隻等によってわかる。


関西復権論
1945 第2次世界大戦終結 「5大改革指令」GHQ
1947 日本国憲法施行 地方自治法施行
1949 シャウプ勧告
1950 朝鮮戦争 国土総合開発法制定
1955 経済自立5カ年計画
55年体制成立 地方財政再建促進特別措置法施行 「地方行政機構改革に関する意見」(第1次道州制構想)関西経済連合会
1956 日本、国連加盟 首都圏整備法制定
1960 国民所得倍増計画
1962 東京都世界初の人口1000万人都市に 新産業都市建設促進法
全国総合開発計画 (太平洋ベルト地帯)
1963 ケネディ暗殺 近畿圏整備法
1964 東海道新幹線開通 「東京・大阪二眼レフ論」
1965 ワイズマンレポート
1968 3億円事件 「地域独立論」松下幸之助
1969 アポロ月面着陸 新全国総合開発計画(大規模プロジェクト構想) 「地方制度の根本的改革に関する意見」(第2次道州制提案)関経連
1970 日本万国博覧会 筑波研究学園都市建設法
1972 沖縄日本返還 田中角栄「日本列島改造論」
1973 オイルショック 「京滋奈エコポリス」3府県経済同友会
1974 田中金脈問題 国土利用計画法
1977 200カイリ時代へ 第三次全国総合開発計画(定住圏構想)
1978 成田空港開港 「関西学術研究都市調査懇談会」発足
1979 東京サミット
1980 「新京都国民文化都市構想」梅棹忠夫
1981 神戸ポートピア博 臨調答申「国と地方の機能分担」 「株式会社神戸市」
「地方庁構想」関経連
1983 東京ディズニーランド テクノポリス開発計画
テレトピア構想
ニューメディアコミュニティ構想 「大阪21世紀計画」(御堂筋パレード)大阪21世紀協会
「テクノポート大阪計画」大阪市
「建都1200年京都活力化への提言」(儀典都市)京都経済同友会
1984 世界湖沼会議 「関西コリドールプラン」世界を考える京都座会
1986 前川レポート 「新文化首都の基本構想」学研都市建設推進協議会
1987 国鉄分割・民営化 関西文化学術研究都市建設促進法
第四次全国総合開発計画(多極分散型国土) 「新近畿創生計画」(すばるプラン)
「遷都問題に関する見解」建議 関経連
1988 青函トンネル開通 多極分散型国土形成促進法
リゾート法施行 「歴史街道構想」京都座会
「世界都市機能整備推進要望」3府県市
1989 日米構造協議
ベルリンの壁崩壊 「グレーター・ベイエリア・ルネサンス構想」関経連
「近畿産業活性化プログラム」近畿通産局
1990 国際花と緑の博覧会
東西ドイツ統一
バブル崩壊 国会等の移転に関する国会決議
行革審「地方分権の推進」 「関西産業活性化のグランドデザイン」関西産業活性化センター
1991 湾岸戦争
ソ連邦解体 「大阪湾ベイエリア開発整備のグランドデザイン」同協議会
「環瀬戸内圏グランド・ビジョン」大阪商工会議所など
「都道府県連合制度に関する提言」関経連
1992 生活大国5か年計画
地球サミット 大阪湾臨海地域開発整備法
パイロット自治体制度 「環日本海交流促進のために」関西経済同友会
1993 日本55年体制終焉 第3次行革審最終答申(規制緩和と地方分権)
1994 関西国際空港開港 広域連合制度 「大阪の都市格向上をめざして」大阪商工会議所
1995 阪神・淡路大震災 地方分権推進法施行 「21世紀の関西を考える会」設立
「京滋奈文化圏構想」3府県経済同友会
「畿央高原・世界都市構想」国都創造研究会
1996 O-157 中核市制度施行
1997 アジア通貨危機
COP3(京都会議) 「マザーレイク計画」滋賀県
1998 明石海峡大橋開通 第五次全国総合開発計画(多軸型国土構造)
1999 「関西広域連携協議会」設立
「関西経済再生シナリオ」関経連
2000 沖縄サミット 地方分権一括法施行
介護保険法施行
特例市制度施行
行政改革大綱 「歴史文化を生かした国際交流拠点構想」奈良県
「アジア太平洋フォーラム・淡路会議」(多文化共生社会)
2001 USJオープン
米国同時多発テロ 中央省庁再編
情報公開法施行
地方分権推進法失効
2002 EU、ユーロ登場 新学習指導要領実施
首都機能移転可否・候補地絞り込み 「観光立都・大阪」宣言 府・市・関経連・大商
「関西パートナーシップ協議会」発足(広域企業誘致)