私の17歳は、東京・新宿歌舞伎町の大衆割烹・勇駒新館で働いていた。勇駒本店隣に鮒忠①もあった。当時、新宿は副都心と称していた。現在は伏魔殿と謂われた都庁があるので都心であろうか。新宿は個人の存在など歯牙にもかけない喧噪で無味乾燥なビルが林立する巨大歓楽街であった。夕刻、新宿駅から仕事を終えたサラリーマンが歌舞伎町に大量に弾き出され勇駒新館はたちまち地下、2階も満杯になる。仕事が終わり寮に帰ると朝霧が立ち込めゴミが散乱する早朝の静寂は何とも言えない退廃的な雰囲気であった。職場には学費を稼がなければならない大学生バイト(早稲田が多かった)が5人も居たのでヒマな学生の政治運動やスポーツには興味も関心も無かった。沖縄出身に元出版社に居たという神里氏、いつも朝にヌンチャクの稽古をしていた。王城(喫茶)にも入口に沖縄出身の用心棒が居て、「困っていることがあれば相談に来い」と言ってくれた。
     
当時の新宿歌舞伎町(真鍋博1968年12月)
nullnull
歌舞伎町の大衆割烹・勇駒本店 

1977年8月 桜井華子『東京の味Ⅲ』保育社「いそ料理 勇駒」
①根本忠雄(ねもと ただお、1913年 - 1988年)が1946年9月1日に同年9月1日、浅草千束に川魚料理の店「鮒忠」創業。川魚の捕れない冬場のメニューとして、進駐軍向けの鶏肉(ブロイラー)を串焼きにした「焼き鳥」の販売を開始。焼き鳥を大衆へ大々的に販売することを始めたのは日本初と言われ、「焼き鳥の父」と呼ばれたという。根本忠雄『年商十五億のやきとり商法―鮒忠立志伝』 柴田書店 (1965年)『鮒忠の江戸ッ子商法』 東京経済 (1972年)→Wikipedia。現在、勇駒はネット上出てこないが、鮒忠はもう老舗となって三代目が卸、ケータリング、レストランの3事業をネットも活用し引き継いでいる。

 勇駒新館の支配人は漫画家さいとう・たかお似の出っぷりとした人で読書人。週に一回は紀伊國屋本店に雑誌や本を買いに行かされた。もちろん私も本屋は大好きだから喜んで行った。紀伊國屋本店には名物社長の田辺茂一がいたが見たことはない。この年は、「夢の島」の蠅騒動、ベ平連、河野一郎・江戸川乱歩・谷崎潤一郎・高見順らの死去、横井英樹襲撃で東京を震撼させた安藤組の安藤昇が映画俳優として登場したのが週刊誌を賑わしていた。店にはヤクザの長老も常連で来る。その一人(若いころはドス○○)が「近くで安藤昇のロケがあったのだが奴は小柄だからいかに大きく見せるかで周囲が悩んでいた」という。これを聞いて思い出したのが、以前、錦糸町のボウリング場で美川憲一が雑誌の取材でボールを投げるポーズをしていた。誌面では見事にストライクとなっていた。何事でも演出は必要だと思った。集団就職での上京の目的のひとつに、神田の古書街に通うことがあった。新宿は夜の街で前衛的な文化(サブカルチャー)の街で芸術文学の分野も幻想、終末、刹那・頽廃なものであふれていた。安藤昇のレコード「新宿無情」[1965]も出ていたが今ではYouTubeで聴くことができる。『月刊専門料理』の創刊は、1966年11月、この創刊号も勇駒新館の事務所で見た。


右に新宿コマ劇場
〇新宿コマ劇場とは、東京都新宿区歌舞伎町一丁目にあり、1956年12月28日から2008年12月31日まで株式会社コマ・スタジアムによって運営されていた劇場である。「演歌の殿堂」として広く認知され、数々のミュージカル作品も上演された。コマ劇や新コマとも言う。/1956年(昭和31年)2月にコマ・スタジアムが設立。大阪・梅田にあった梅田コマ・スタジアム(梅田コマ劇場の前身)の姉妹劇場として当劇場が建設され、同年12月28日に開場した。開場当初は「新宿コマ・スタジアム」と呼称していた。阪急・東宝グループの創始者である小林一三が抱いた「新しい国民演劇(新歌舞伎)の殿堂を作る」という理念に基づいて創設し歌舞伎町の地名のもととなった。客席数2,088席は首都圏で最大級であった。→ ウィキ
〇2011年7月11日、東宝が新宿コマ劇場及び新宿東宝会館の跡地に複合インテリジェントビル「新宿東宝ビル」を建設することを発表した。地上31階地下1階建て、高さ130メートル、延べ床面積55,390平方メートル、1階と2階に飲食店、3階から6階にTOHOシネマズが運営するIMAXシアターを導入して12スクリーン約2500席の都内最大級シネマコンプレックス「TOHOシネマズ新宿」、9階から31階に藤田観光が運営する約1030室のホテル「ホテルグレイスリー新宿」などが入居し、2015年4月17日に開業した。コマ劇場の中核だった演劇場は収益性が低いとして入居が見送られた。 → ウィキ

nullnull
新宿・勇駒新館でー左に座っているのが新城栄徳、柴田マネジャー。柴田マネジャーに早稲田の学生がバイトさせてくれという、即採用。/新宿コマ劇場近くには琉球泡盛屋が数軒あった。志多伯克進、「志多伯のおやじ」という新宿名物的人物も居たが見たことはない。当時は未成年だから覗くだけで、新橋の沖縄料理屋には「沖縄そば」を食べにいったことがある。新宿の南風②は1974年にオヤジさんに『青い海』を贈呈しユンタクした。
null
1950年11月 仲井間宗裕・伊佐栄二『沖縄と人物」
 ②『琉球新報』2015年3月7日 新宿歌舞伎町で67年 沖縄料理店「南風」閉店ー【東京】創業67年を数え、東京の沖縄料理店で草分け的存在の新宿歌舞伎町の「南風(なんぷう)」が今月末で閉店することになった。店主の前田清美さん(68)は「体力的にきつくなって、継ぐ人もいない。引き際だと思う」と話す。沖縄出身者の心のよりどころだった老舗が消えることになる。南風は戦後の焼け野原だった新宿で前田さんの両親の嘉手納知春さん(本部町出身)、幸子さん(大宜味村出身)夫妻が始めた。苦労して沖縄の食材を得、三線の名手だった知春さんが民謡で客をもてなした。
 一度離れると容易には帰れなかった米統治下の沖縄。沖縄出身者は遠い故郷を思い、南風に通った。知春さんは苦学する若者に食事をさせ、終電後はたびたび店に泊め、「始まりも終わりもない店」と呼ばれた。店の2階に住んでいた清美さん姉弟は朝、寝ている酔客をまたいで登校したという。学生時代から60年、南風に通う渡久山長輝東京沖縄県人会長は「おやじから三線を習い、土間で寝たこともある。多くの沖縄人(ウチナーンチュ)の慰めとなっただった」と懐かしむ。清美さんは嘉手納清美として歌手や女優として活躍した後、82年に店主となった。バブルのころは地上げ屋の標的にもなったが店を守り続け、浮き沈みの激しい歌舞伎町の中で、老舗の一つだ。清美さんは「毎晩、お客さんが島唄を大合唱し、カチャーシーを舞った。沖縄人が楽しんでくれたから67年も続けられた」と話した。

 柴田マネジャーは秋田の人、生真面目な人で未熟な人生観の持ち主の私を色々と注意してくれた。自宅にも連れて行かれ、マネジャーの痩躯にくらべふっくらとした色白の奥様の手料理を御馳走になった。寮の相棒に熊本出身の23歳の青年が居た。小柄だが休みの日にはコマ劇場の前などでプレイガールをお茶に誘い旅館に行き、その女性との一夜をこと細かく手帳に記していた。今だったら一流のホストになっていたが、私はそれでよく性病を移されなかったものだと感心した。店には茨城出身の威勢のいい2歳年上の子も居た。彼は駐車中の車を弄り人身事故を起こしその賠償金を払うため働いているという。また別の相棒に長崎出身の同じ年頃の子も居た。彼は年に似合わず、木の根っこを入手、磨きあげオブジェにして楽しむ人物であったが、繊細ゆえ「ゴールデン街」の人となった。後に柴田マネジャーは高円寺で焼鳥屋「秋田料理・鳥海」を開いた。

 新宿は夜の街で昼間は時間がある。よくスマートボール、図書館に行った。二十歳前だから国会図書館は入れないので、区立図書館や日比谷図書館を利用した。神保町の古書街、古書会館もよく行った。別に調理士だからというわけではないが神保町の古書店から買った本に李家正文『厠(加波夜)考』がある。中に三田村鳶魚や金城朝永の本からの引用がある。金城の『異態習俗考』にも厠に関する論考がある。『梅毒図譜』というのも買った。私は1964年に錦糸町駅ビルの本屋で、サド裁判の被告で著名な澁澤龍彦の『夢の宇宙誌』を買った。その本で南方熊楠(末吉麦門冬)、稲垣足穂、日夏耿之介を知る。後に、鎌倉の澁澤邸を訪ねた。

 新宿勇駒の仕事は夕方の5時半から12時までであった。店の雰囲気は自由奔放だが、肝心要の料理人は調理師会から、仕入れは大型トラックで社長自ら運んでくる。営業終了後、掃除をしあと片づけが終わり、残飯などの生ごみ缶を3段に重ねて30個積み上げる。あとは皆で大関(我が家は酒に弱い家系。少量でも酔う)を飲みながら毛ガニ、フグちり、焼き鳥、生野菜の鍋を食べ終わると2時頃になる。コマ劇場横の銭湯に入り、寮に帰り同僚たちと会話。長引くと寝るとき朝日が差し込んでくる。寮の隣のビルはトルコ風呂のお姉ちゃんたちの寮であったが話をした記憶はない。異性は店から寮に帰る途中に女娼、男娼が立っている。そのとき私は運悪く17歳の夢見る年齢、異性には関心は薄かった。


 古本屋で週刊誌(上は後に古本屋で入手)を漁るのが唯一の趣味で、切り抜いて手帳(この雑誌の物は残っていない。後、新聞スクラップ)に貼っていた。高円寺の球陽書房で最初に買ったのが江戸川乱歩『乱歩随筆』青蛙房 昭和35年であった。乱歩の小説は好みではないが随筆は好きであった。わが青春そのものであった大衆割烹・勇駒。今はネットにも出てこない。
 
nullnull
横尾忠則


1996年3月『酒文化研究所』第5号 野村磨子「新宿『沖縄横町』のことども」

null null

 2013年5月16日ー『沖縄タイムス』は一面トップで女性25団体が半グレ大阪市長に抗議、社説にも「橋下氏とともに日本維新の会を率いる石原慎太郎共同代表は『軍と売春は基本的は基本的に付きもので、橋下氏は間違ったことは言っていない』と擁護している。いったい、この党はどういう党」なのだろうか。慰安婦は米国では『性奴隷』と訳される。2人の主張は国際社会では通用しない。」と触れている。時評漫評「迷惑な客引き」も良い。『琉球新報』は一面でなくとも良い「原発廃炉」を一面トップにし、社説には「速やかな撤回、謝罪を」とする。謝(誤)って済む問題ではなかろう。大体地元紙はオスプレイ問題も近頃は少ない。解決するまでキャンペーンを張れ!。

 滝川政次郎『遊女の歴史』(至文堂1965年7月)に□柳学)的見地から見れば、云々」とあって、民俗学が振り回されている。氏の土俗学は、正直なところ猿真似に過ぎないが、材料は極めて豊富である。ただしその材料には田國男先生が「巫女考」および「イタカ及びサンカ」なる論文を発表し、民俗学の立場から、我が国遊女の起源が巫女にあることを論ぜられたのは、一大見識であったと言わねばならない。先生のこの論文は考証該博、従来の学者が顧みなかった資料を縦横に駆使して、前人未到の境地を開拓されたものであって、一世を魅了した。この柳田先生の民俗学に魅せられ、その遊女巫女起源説を敷 したものが、中山太郎①氏の『売笑三千年史』と『日本巫女史』であって、この両者にはしばしば「土俗学(民俗、新聞記事の切抜きや、氏が報知新聞の記者として伝聞せられたものが交じっているから、氏の著書を純然たる学術研究書として受け取ることは、いささか危険である。好事家の者として受け取らねばならないような部分も多分に存する。
 遊女史も売笑史も、大体同じようなものであるが、売笑史は芸能史と殆ど関係がない。(略)本書にあえて「日本遊女史」の名をもってしたのは、芸能史との関係を強調せんがためである。(略)戦争に敗れた者が戦勝者に女を贈ることによって平和が購われたことは、媾和の「媾」、妥協の「妥」が、いずれも女によって構成されていることによって知られる。(略)万葉集、巻八には 遊行女婦の橘の歌一首「君が家の花橘は成りにけり花なる時にあはましものを」。平安・鎌倉の白拍子は、招かれれば最初に「我が君は千代に八千代にさざれ石の巌となりて苔の生すまで」をうたい、江戸時代の遊女は、「めでためでたの若松さまよ、枝も茂れば葉も茂る」とうたったという。(略)百太夫信仰は、平安中期以来、道祖神信仰と姿を変えた・・・、ゆえに後には陽物そのものが道祖神と考えられるようになり、木石もしくは紙もて製したる男根の形が、道祖神として祭られるようになった。木石もしくは紙もて製したる男根の形をコンセサマ(金勢明神)、ドンキョウサマ(道鏡様)という。本書は最後に「遊女史と男色の関係」にふれている。「明治以後においては、九州の辺境に稚児さん愛好の蛮風が少々残存していた程度で男色の風習全く跡を断ち、稚児物語は昔物語となってしまった。現代の日本人が、中世にあれほど盛んであった男色の風習を全く忘れてしまったということは、性生活史上の大きな変化と言わねばならない」、ここは著者の知ってか知らずか、現代では形を変え堂々とテレビなどの世界で息づいている。

 ○私は物事を整理してムダを省いた学者のものは理屈っぽく押し付けがましいので読まないが、中山太郎の著書は愛読している。中山にふれておこう。1928年11月『南島研究』に中山太郎「西平氏へー前略・・・・・・老生儀今春以来『日本婚姻史』の執筆を思い立ち漸く最近脱稿致し書肆春陽堂より発行の予定にて原稿手交少閑を得たるまま湘南地方へ遊びに参り帰宅致し候処『南島研究』第三輯に接手し拝見致し候処結婚風俗の特輯號殊に巻頭言に於いて老生の為に種々御厚配被成下候由拝見致し御芳志の段誠に感謝致し候南島の婚姻に関しては在京中の伊波、東恩納、金城、島袋、比嘉の各先輩より承り。之れに故学友佐喜眞氏の著書等により一通り記之置き候が、更に貴誌を拝見するに及んで大いに発明もし更に訂正すべき點も発見致し候、校正の折に出来るだけ御厚意に添べく期し居候  以下略  本郷弓町1ノ116」が載っている。中山と親しい折口信夫は大正10年8月に大阪朝日新聞編集所に絵葉書を送っている、表の琉球美人の説明には「尾類ズリ(遊女)といふもの」と書かれている。

 1965年当時、東京に居るころは全く性風俗雑誌に沖縄関係記事は無いと決めつけていたが、最近ネットで表紙と目次が見られるようになったのでチェックしてみた。『風俗奇譚』である。同誌は1960年1月に文献資料刊行会から創刊された性風俗雑誌。内容はSMを中心に、ゲイ・レズビアン、レザー・ラバー・乗馬・腹切り・女格闘技などの各種フェティシズム、そして女装と、多種多様な性的嗜好を大集合させた感じの「総合変態雑誌」。(→三橋順子)先発の『奇譚クラブ』があった。前記の雑誌には沖縄に関する記事は無かったが、『奇譚クラブ』に、1953年2月ー木之下白蘭「琉球の女達」(白蘭は1936年5月『サンデー毎日』の大衆文芸に「撤兵」が当選)◇1972年7月ー道場瑞夫「SM通信 沖縄復帰と沖縄美人」が見える。(2011-10記)



1968年9月 編集発行・中村屋『相馬愛蔵・黒光のあゆみ』
 
大正期の中村屋/インドの詩聖タゴールを迎えたボース一家と相馬夫妻/大東亜民族交歓大会でアジア民族解放を叫ぶボース、沖縄で戦死したボースの長男正秀
相馬愛蔵(創業者)
屋号は明治の末頃に中村不折が揮毫したものを用いている。1901年の創業以来、妻の相馬黒光とともに独創的なパン・食品を作り続けた。1904年にはシュークリームをヒントに現在もポピュラーな菓子パンであるクリームパンを考案した。1927年には現在の中華まんのもととなる「中華饅頭」を発売。これが現在の中華まんの始まりとも言われている。
1918年に娘がインドの独立運動家のラス・ビハリ・ボースと結婚をしたことから、本格的なカリーの調理を学び、1927年(昭和2年)6月12日に当時の日本では珍しい純インド式カリーを販売している。本店のカリーのキャッチフレーズ「恋と革命の味」はここから生まれ、引き継がれている。フランスパンを日本で最初に発売した京都の進々堂創業者の続木斎や、山﨑製パン創業者の飯島籐十郎も相馬のもとで勤務していた。→ウィキ


1941年5月  東恩納 寛惇『泰 ビルマ 印度』大日本雄辯會講談社 (装幀 東恩納洋)




荻原碌山「母と子」「女」
1936年6月 相馬黒光『黙移』女性時代社



1891年10月『小公子』女学雑誌社
若松 賤子(わかまつ しずこ、1864年4月6日(元治元年3月1日) - 1896年(明治29年)2月10日)は、教育家、翻訳家、作家。巌本善治夫人。バーネットの『小公子』の名訳で知られ、日本で初めて少年少女のためのキリスト教文学を紹介した。→ウィキ