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横尾忠則


1996年3月『酒文化研究所』第5号 野村磨子「新宿『沖縄横町』のことども」
 
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 2013年5月16日ー『沖縄タイムス』は一面トップで女性25団体が半グレ大阪市長に抗議、社説にも「橋下氏とともに日本維新の会を率いる石原慎太郎共同代表は『軍と売春は基本的は基本的に付きもので、橋下氏は間違ったことは言っていない』と擁護している。いったい、この党はどういう党」なのだろうか。慰安婦は米国では『性奴隷』と訳される。2人の主張は国際社会では通用しない。」と触れている。時評漫評「迷惑な客引き」も良い。『琉球新報』は一面でなくとも良い「原発廃炉」を一面トップにし、社説には「速やかな撤回、謝罪を」とする。謝(誤)って済む問題ではなかろう。大体地元紙はオスプレイ問題も近頃は少ない。解決するまでキャンペーンを張れ!。

 滝川政次郎『遊女の歴史』(至文堂1965年7月)に□柳学)的見地から見れば、云々」とあって、民俗学が振り回されている。氏の土俗学は、正直なところ猿真似に過ぎないが、材料は極めて豊富である。ただしその材料には田國男先生が「巫女考」および「イタカ及びサンカ」なる論文を発表し、民俗学の立場から、我が国遊女の起源が巫女にあることを論ぜられたのは、一大見識であったと言わねばならない。先生のこの論文は考証該博、従来の学者が顧みなかった資料を縦横に駆使して、前人未到の境地を開拓されたものであって、一世を魅了した。この柳田先生の民俗学に魅せられ、その遊女巫女起源説を敷 したものが、中山太郎①氏の『売笑三千年史』と『日本巫女史』であって、この両者にはしばしば「土俗学(民俗、新聞記事の切抜きや、氏が報知新聞の記者として伝聞せられたものが交じっているから、氏の著書を純然たる学術研究書として受け取ることは、いささか危険である。好事家の者として受け取らねばならないような部分も多分に存する。
 遊女史も売笑史も、大体同じようなものであるが、売笑史は芸能史と殆ど関係がない。(略)本書にあえて「日本遊女史」の名をもってしたのは、芸能史との関係を強調せんがためである。(略)戦争に敗れた者が戦勝者に女を贈ることによって平和が購われたことは、媾和の「媾」、妥協の「妥」が、いずれも女によって構成されていることによって知られる。(略)万葉集、巻八には 遊行女婦の橘の歌一首「君が家の花橘は成りにけり花なる時にあはましものを」。平安・鎌倉の白拍子は、招かれれば最初に「我が君は千代に八千代にさざれ石の巌となりて苔の生すまで」をうたい、江戸時代の遊女は、「めでためでたの若松さまよ、枝も茂れば葉も茂る」とうたったという。(略)百太夫信仰は、平安中期以来、道祖神信仰と姿を変えた・・・、ゆえに後には陽物そのものが道祖神と考えられるようになり、木石もしくは紙もて製したる男根の形が、道祖神として祭られるようになった。木石もしくは紙もて製したる男根の形をコンセサマ(金勢明神)、ドンキョウサマ(道鏡様)という。本書は最後に「遊女史と男色の関係」にふれている。「明治以後においては、九州の辺境に稚児さん愛好の蛮風が少々残存していた程度で男色の風習全く跡を断ち、稚児物語は昔物語となってしまった。現代の日本人が、中世にあれほど盛んであった男色の風習を全く忘れてしまったということは、性生活史上の大きな変化と言わねばならない」、ここは著者の知ってか知らずか、現代では形を変え堂々とテレビなどの世界で息づいている。

 ○私は物事を整理してムダを省いた学者のものは理屈っぽく押し付けがましいので読まないが、中山太郎の著書は愛読している。中山にふれておこう。1928年11月『南島研究』に中山太郎「西平氏へー前略・・・・・・老生儀今春以来『日本婚姻史』の執筆を思い立ち漸く最近脱稿致し書肆春陽堂より発行の予定にて原稿手交少閑を得たるまま湘南地方へ遊びに参り帰宅致し候処『南島研究』第三輯に接手し拝見致し候処結婚風俗の特輯號殊に巻頭言に於いて老生の為に種々御厚配被成下候由拝見致し御芳志の段誠に感謝致し候南島の婚姻に関しては在京中の伊波、東恩納、金城、島袋、比嘉の各先輩より承り。之れに故学友佐喜眞氏の著書等により一通り記之置き候が、更に貴誌を拝見するに及んで大いに発明もし更に訂正すべき點も発見致し候、校正の折に出来るだけ御厚意に添べく期し居候  以下略  本郷弓町1ノ116」が載っている。中山と親しい折口信夫は大正10年8月に大阪朝日新聞編集所に絵葉書を送っている、表の琉球美人の説明には「尾類ズリ(遊女)といふもの」と書かれている。



 1965年当時、東京に居るころは全く性風俗雑誌に沖縄関係記事は無いと決めつけていたが、最近ネットで表紙と目次が見られるようになったのでチェックしてみた。『風俗奇譚』である。同誌は1960年1月に文献資料刊行会から創刊された性風俗雑誌。内容はSMを中心に、ゲイ・レズビアン、レザー・ラバー・乗馬・腹切り・女格闘技などの各種フェティシズム、そして女装と、多種多様な性的嗜好を大集合させた感じの「総合変態雑誌」。(→三橋順子)先発の『奇譚クラブ』があった。前記の雑誌には沖縄に関する記事は無かったが、『奇譚クラブ』に、1953年2月ー木之下白蘭「琉球の女達」(白蘭は1936年5月『サンデー毎日』の大衆文芸に「撤兵」が当選)◇1972年7月ー道場瑞夫「SM通信 沖縄復帰と沖縄美人」が見える。(2011-10記)



1968年9月 編集発行・中村屋『相馬愛蔵・黒光のあゆみ』
 
大正期の中村屋/インドの詩聖タゴールを迎えたボース一家と相馬夫妻/大東亜民族交歓大会でアジア民族解放を叫ぶボース、沖縄で戦死したボースの長男正秀
相馬愛蔵(創業者)
屋号は明治の末頃に中村不折が揮毫したものを用いている。1901年の創業以来、妻の相馬黒光とともに独創的なパン・食品を作り続けた。1904年にはシュークリームをヒントに現在もポピュラーな菓子パンであるクリームパンを考案した。1927年には現在の中華まんのもととなる「中華饅頭」を発売。これが現在の中華まんの始まりとも言われている。
1918年に娘がインドの独立運動家のラス・ビハリ・ボースと結婚をしたことから、本格的なカリーの調理を学び、1927年(昭和2年)6月12日に当時の日本では珍しい純インド式カリーを販売している。本店のカリーのキャッチフレーズ「恋と革命の味」はここから生まれ、引き継がれている。フランスパンを日本で最初に発売した京都の進々堂創業者の続木斎や、山﨑製パン創業者の飯島籐十郎も相馬のもとで勤務していた。→ウィキ


1941年5月  東恩納 寛惇『泰 ビルマ 印度』大日本雄辯會講談社 (装幀 東恩納洋)




荻原碌山「母と子」「女」
1936年6月 相馬黒光『黙移』女性時代社



1891年10月『小公子』女学雑誌社
若松 賤子(わかまつ しずこ、1864年4月6日(元治元年3月1日) - 1896年(明治29年)2月10日)は、教育家、翻訳家、作家。巌本善治夫人。バーネットの『小公子』の名訳で知られ、日本で初めて少年少女のためのキリスト教文学を紹介した。→ウィキ