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 2021年10月 上江洲儀正『島を出るーハンセン病回復者・宮良正吉の旅路』水曜社(新宿区)
 10歳の少年は、兄に連れられて故郷の石垣島を出た。病気がなおればすぐに帰れると思っていた。長い旅のはじまりだった。1956(昭和31)年、島を出た宮良正吉(みやらせいきち)は現在76歳。大阪で暮らし、ハンセン病関西退所者原告団「いちょうの会」の会長である。いまだにやまないハンセン病への差別・偏見の解消をめざし、回復者の語り部として各地で自身の体験を伝えている。ハンセン病の歴史は悲惨である。患者はらい病と呼ばれて差別され村の外へ追いやられ、隔離された。療養所内では男性に断種手術を施し、妊娠した女性には堕胎を強要した。「この病気は死んだら喜ばれる」……。
 回復した正吉は大阪の印刷会社で働いた。社会は荒波だった。恋人ができた。プロポーズの時に回復者だと打ち明けた。「それがどうしたの?」。その言葉にあたらしいふるさとができた。ふたりの子どもに恵まれた。娘に元患者だったと告白してから5 年後、新聞記事で公にカミングアウトし、ハンセン病語り部の道を歩みだした。本書はロングインタビューの積み重ねにより、ひとりのハンセン病患者の半生を「生の声をできるだけ生のまま」「わたし(著者)自身に教えるように」ハンセン病問題の歴史をかさねあわせて書かれた「長い旅」、その現在進行形の経過報告でもある。
 宮良 正吉(みやら・せいきち)1945 年7月沖縄県石垣町に生まれる。小学4年身体検査でハンセン病罹患が判明。翌年、沖縄本島のハンセン病療養所愛楽園に収容のため島を出る。1961年患者専用列車で高校入学。1965 年高校卒業後大阪で就職。2001年らい予防法違憲国家賠償請求訴訟原告団に加わる。2008年はじめて自身の体験を語りはじめる。

 
大濱 聡 2021年11月■「過去の思い出を振り返ってみましょう」として2017.11.10の投稿が。「日本最南端の出版社」南山舎と、代表の友人・上江洲儀正さん(現会長)についての紹介でした。■1987年の創業以来、八重山をテーマに数々の良書を世に送り出してきましたが、このたび初めて自身の本『島を出る―ハンセン病回復者・宮良正吉の旅路―』(水曜社刊)を出版。2019-20年の2年にわたって、南山舎発行の『月刊やいま』で自ら10回連載したルポ「島を出た八重山人」に加筆修正してまとめたものです。
■ハンセン病患者として10歳の幼い身で親元を離れ、島外の療養所でひとりで生きていかねばならなかった人生――〈一人の元患者の半生とハンセン病問題の歴史を重ねあわせて書かれた、現在進行形のノンフィクション〉(新聞広告より)■〈島を出る。島人にとってこのことばは特別な響きがある〉〈島を出るのは、若者にとって宿命のようなものである。しかも一度出てしまうと、島に働く場はそう多くはないから、なかなか戻ることはできない。したがって、「島を出る」ということばには、覚悟、希望、別れ……などさまざまな思いが入り混じる〉(あとがきより)読み応えのある本です。お薦めします。


1995年12月ー『沖縄県図書館協会誌』創刊号 〇編集委員ー生沢淳子、國吉綾子、桑江明美、新城栄徳、田名洋子、中野徹、長嶺智子、本郷清次郎
〇『琉文手帖』を作っている過程で図書館人に顔見知りが多い、それで編集委員を頼まれた。先ず『沖縄県図書館協会誌』の宣伝広報のため、『沖縄タイムス』の金城美奈子さんに「県内出版事情」、『琉球新報』の松島弘明氏に「整理部って何?」、東京の島袋和幸氏には「私と図書館」、八重山の上江洲儀正氏に「図書館・資料館案内まっぷ」を書いてもらった。図書館史の資料紹介として島袋全発「南窓雑記」、島袋盛敏「縦横雑音録」を戦前の新聞から転載した。
1998年12月ー『沖縄県図書館協会誌』第4号 新城栄徳「近代沖縄の雑誌ー総目次と解説①『沖縄公論』『沖縄新公論』『郷土雑誌 沖縄』『海邦』」/上間常道「随想:本との出会い 編集者の場合」
2000年3月ー『沖縄県図書館協会誌』第5号 新城栄徳「近代沖縄の雑誌ー総目次と解説②『月刊琉球』」
2003年12月ー『沖縄県図書館協会誌』第7号 新城栄徳「近代沖縄の雑誌ー総目次と解説③『文化沖縄』」
 
2004年12月 『沖縄県図書館協会誌』第8号 新城栄徳「麦門冬と県立図書館と私」
○去った11月25日は、沖縄タイムス主筆・末吉安恭(麦門冬)の命日で没後80年にあたる。その日の『沖縄タイムス』に琉球学の開拓者としての麦門冬を紹介した。ここでは麦門冬と沖縄県立図書館と、私との関わりを述べる。私は「ソテツの島」とも呼ばれている粟国島で、石垣と福木に囲まれて育った。近隣の殆どが首里の末裔だという。だから我が家の隣りには「首里福原」という集会所がある。
 それはさておき、小学4年のとき、叔母が病死、祖父が日射病で死去。那覇の父の呼び寄せで家族全員が那覇に移住した。安里の伯母宅、親類の寄宮、楚辺などに住み、泊に定住し「ソバ屋」を始めた。その頃の那覇はトラックやバスが砂ぼこりや排気ガスをばら撒いて走っていて、その側を馬車がノンビリと馬糞を落とし散水しながら歩く。さながら西部劇映画の風景だ。泊界隈は空き地が多くカエルやクモをよく捕まえて遊んでいた。上之屋の外人住宅に行き(金網を潜って)同世代の子供とジェスチャーで会話しながらパチンコを作ってあげたりした。プラモデルの戦車や航空母艦、菓子などを簡単にくれた。プロレスごっこなどし楽しく遊んだ。
 中之橋が出来ると前島は近くになり国際通りも近くなった。それまではよく首里の図書館、博物館に行った(学校をサボって)。首里図書館は、今の沖縄県立図書館の前身で館長は末吉安久、常駐していたのが嘉手納宗徳氏であった。そこでは日本歴史人物事典から挿絵入りで字も分からぬままに写していた。小学生が今頃ここに居るのはおかしいと嘉手納氏に説教された。安里の琉映本館では東映時代劇、貸本屋では漫画・劇画をよく見た。ウチナー芝居の那覇劇場は母に連れられて歌劇や琉舞が好きになる。
 中学生になると、休み時間はいつも学校図書館で過ごしていたので、上級生の図書委員長(書店の娘)に委員をさせられた。委員になると教師用や館内用の本も借りられるので良かった。委員会議というのがあるが義務ではないので出た記憶がない。図書委員バッジは今もある。私の息子や娘は大阪で生まれ育ったが、中学は私と同じこの学校である。さて中学生になると新聞もよく見る。『沖縄タイムス』『琉球新報』に記事は結果的に反米感情を煽る事件記事で溢れていた。
(略)
 沖縄県立沖縄図書館長の伊波普猷がスキャンダルもあって上京しようとする中、末吉麦門冬の友人たちは、麦門冬をその後継図書館長にと運動していた。山里永吉の叔父にあたる比嘉朝健もその一人であった。その朝健の案内で、沖縄政財界に隠然たる力を持つ尚順男爵を訪ねた。かつて、麦門冬が閥族と攻撃した当人である。朝健の父・次郎と尚順は親しかった。朝健に引っ張られる形で尚順邸を訪ねた。史筆・漢詩人で知られる麦門冬である。漢詩人の尚順は、琉球料理で歓待し、長男・尚謙に酌をさせるなどの好意を示し麦門冬が語る郷土研究の情熱に、その館長就任に力を尽くすと約束した。が、麦門冬の水死でそれらが無に帰す。
 後年、首里図書館に麦門冬の蔵書が寄贈された。尚順はその本の山を見て、微醺を帯びた麦門冬を想いだし漢詩を作っている。
  数奇閲歴麦門冬/俳句和歌一代宗/万巻遺書填巨館/猶留眼底半酣容 麦門冬遺書寄贈首里図書館詩中及此(昭和11年11月9日『沖縄日報』)

週刊誌は個人で保存するには限界がある。後に雑誌図書館・大宅壮一文庫が開館したときは早速に訪ね整理法を学んだ。そのときは西沢昌司氏が応対してくれた。次に行くと、八重山出身の上江洲榕氏と出会った。『琉文手帖』2号の東京連絡所が大宅文庫(http://www.oya-bunko.or.jp/)となっているのは上江洲氏が引き受けたからである。

大宅壮一文庫
 1959年6月に来沖した毒舌評論家の大宅壮一は糸満摩文仁の南部戦跡で「動物的忠誠心」「家畜化された盲従」などの発言で物議を醸したが、その大宅は死して20万冊余の雑誌と、独特な分類整理法を遺した。大宅は「資料には、新聞、雑誌、単行本の3つがある。新聞は事件の起こった年月日、あるいはその背景をすばやく知るのに役立つ。したがってナマの資料として欠かすことができない。しかし、単行本は資料としてはあまり役に立たない。理由は、一人の著者が自分の観点から物を見、判断しているから、淘汰されすぎている。だから資料としての面白みがとぼしい。それにくらべると、雑誌は資料の宝庫だ。新聞にくらべ、事件、時代の背景が分量的にもたくさん盛り込まれている。それに1冊の雑誌の中には、多くの記事、つまりたくさんの事件、そして視点が詰まっている。ときには、正反対の意見が同時に掲載されているし、とくにインチキ雑誌、バクロ雑誌のたぐいにはときどき面白い記事がある。そういった意味で、雑誌は文字通り資料の宝庫だ」

 「本は読むものではなく、引くものだよ」。マスコミ生活50年、かたわら、資料の収集整理に力を尽した大宅壮一らしい言葉です。大宅壮一は、ことあるごとに古書市、古本屋通いを続け、およそ20万冊の蔵書を遺しました。生前その資料室は、“雑草文庫”と称され、蔵書のほとんどが雑誌、雑本で占められていました。没後の1971年、マスコミはじめ各界のご協力により財団法人大宅文庫(1978年大宅壮一文庫と改称)が設立されました。当初は1日平均2人に満たなかった利用者は、現在1年間でおよそ10万人です。(→大宅壮一文庫)


1960年1月1日『琉球新報』「沖縄を料理するー毒舌ことはじめ大宅壮一・岡本太郎」



1982年4月『図書館雑誌』上江洲儀正(大宅壮一文庫事務局次長)□大宅壮一文庫の方法・(略)資料を事典にかえる索引の役割ー去る1980年に『大宅壮一文庫索引目録』を刊行したとき、日本現代人物のなかで資料のもっとも多い人物を調べてみたら、田中角栄(1、017件) 長島茂雄(736件) 三島由紀夫(702件) 美空ひばり(702件) 福田赳夫(552件) 野坂昭如(547件) 江川卓(536件) 王貞治(531件) 石原慎太郎(518件) 山口百恵(513件)・・・・・・の順になった。最近は、田中のトップは断然揺るがないにしても、長島や王、江川のプロ野球勢と、引退した山口がずいぶん件数を稼いだようだ。文庫の資料のほとんどが雑誌、しかも索引化されているのがポピュラーな総合雑誌であってみれば、この資料件数は知名度のバロメーターである、といえないだろうか。いいほうの記事か、悪いほうのそれかは別にしても・・・・・。

 人名索引に比べると件名索引は分類がちょっと難しい。人名索引なら、例えば西田敏行の記事(その家族の記事もふくむ)は、その人物以外には分類されようもなく、それだけ間違いも少ないのだが、件名索引は内容や記事の扱われ方も考慮しなくてはいけないから少々面倒になる。時には、何のことを書いているのかさっぱりわからないようなコウショウな論文があったりして頭を抱えてしまうこともある。ともあれ、人名で分類されない記事は件名索引のどこかに分類しなくてはいけない。

 件名索引には「政治・その他」「経済」「世界」「天皇」「戦争」「公害」「犯罪・事件」「世相」「おんな」「サラリーマン」「趣味・レジャー」「スポーツ」「芸能・芸術」「マスコミ」「地方」・・・・・など33の大項目があり、それぞれの大項目はいくつかの中項目をもつというふうにたこ足配線のようになっていて、小項目は全部で約6千ある。大分類がNDCの10に比べて33と多いのは、NDCの「社会科学」に相当する分野がふくらんで、こんなふうにしないと不便になってしまうからだ。これもまた雑誌索引であってみれば当然といえるかもしれない。

 例えば、大項目「災害」には、地震、水害、台風、海の惨事、山の遭難、火災事故、飛行機事故、など13の中項目があり、その中の「地震」の項目を紹介すると、地震の歴史、地震一般、予知、防備・対策、川崎ガケ崩れ、実験事故、地震と鯰、地震学・学者、川崎直下型地震の予測、地震と火山の関係、関東大震災、新潟地震、松代地震、十勝沖地震、宮城県沖地震、その他の地震、というように区分されている。つまり地震に関する記事はこの15の項目のいずれかに分類される。世相を反映する大宅文庫の索引は可変的で、今後大きな地震が起こったらその地震についての項目が新たに設けられる。しかし、小さな地震のひとつひとつの項目はおこす必要はない。そのために「地震一般」や「その他の地震」の項目のように大きく括る、あるいは他のどこにも分類されないようなものを集めておく場所を、中項目に最低一カ所設けておくのだ。

 索引には最大公約数的な考え方が必要だ。あまり厳密にしすぎると逆に不便になってしまう場合が多い。ある程度不統一であっても、何がどこにあるかがすぐにわかるような実用的な索引づくりを今後も心がけていきたい。


上江洲儀正(上江洲榕)ー南山舎前史

1983年2月 なんりの会『じくうち』上江洲榕「ニーラン神の島」
1984年7月4日 『琉球新報』上江洲儀正(大宅壮一文庫事務局次長)「落ち穂ー追悼M君」
1989年1月20日 『沖縄タイムス』上江洲儀正(南山舎代表)「八重山手帳」

 上江洲儀正氏との出会いは1976年。『週刊ポスト』に「雑誌図書館『大宅文庫』活用の手引き」が載っていて雑誌17万冊を辞典のように利用できると紹介されていた。早速、京都駅から新幹線で上京。文庫を訪ね西沢昌司氏に会い「大宅壮一と沖縄」を話題にして歓談した。その次に尋訪ねると上江洲氏が居たので書庫を見たり大宅の生前の書斎で上江洲氏の仕事が終わるのを待ち新宿の沖縄料理屋へ繰り出した。そのうち上江洲氏から自分の小説が載っている『早稲田文学』『じくうち』が贈られてきた。手元にある『大宅壮一文庫索引目録』の扉には彼に押して貰った文庫の印がある。そのときの名刺には「財団法人大宅壮一文庫事務局次長」とあった。彼は『じくうち』の同人で4号に東京とシマをテーマに小説「二ーラン神の島」を書いている。5号に「肝苦さんさあ」、6号に「義足」、7号「人形」であった。私は彼が文庫に居る時、松島記者担当の『琉球新報』落ち穂欄にエッセイを書いてもらったが今では良い記念となっている。数年後『八重山手帳』や『情報ヤイマ』創刊号が贈られてきた。那覇で会ったときの名刺には「企画・出版・情報処理・南山舎」とあった。

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写真左から金城正篤氏、仲宗根将二氏、新城栄徳、上江洲儀正氏


〔大濱聡〕2017-11-10