nullnull
2022-10-30  第7回世界のウチナーンチュ大会


1994年8月 『アルゼンチンのうちなーんちゅ80年史』在亜沖縄県人連合会


1987年3月 玉城源五郎(1909年今帰仁生まれ。1935年アルゼンチンへ渡る)『アルゼンチンに活きるー沖縄県人移民小史ー』ニライ社

nullnull
1981年8月 賀集九平『アルゼンチン同胞八十年史』


1968年12月 『在亜日本人洗染業50年の歩み』亜国洗染クラブ

 『沖縄タイムス』2016年10月30日□那覇市の沖縄セルラースタジアム那覇で30日午後5時すぎ、第6回世界のウチナーンチュ大会(主催・同実行委員会)の閉会式が始まった。翁長雄志知事とアルゼンチン3世の比嘉アンドレスさんとペルー3世の伊佐正アンドレスさんが10月30日を「世界のウチナーンチュの日」と宣言。会場の参加者からは喜びの歓声が上がった。○→来賓としてネット上、スキャンダルで何かと話題になっているアベの走狗・鶴保庸介沖縄担当相も参加していたが「世界の土人(ウチナーンチュ)の皆さん、基地と沖縄振興はリンクしますよ」とヤボなことは言わなかったようだ。
 【名護】世界のウチナーンチュ大会に参加したハワイ在住の県系人ら約30人が31日午前、名護市辺野古の米軍キャンプ・シュワブゲート前を訪れ、米軍普天間飛行場の辺野古移設に反対し、座り込みを続ける市民らを激励した。平和への思いを込めてデザインしたハワイの首飾り「レイ」を市民一人一人に贈った。ハワイ在住の芸能集団「御冠船歌舞団」の金城ノーマンさん、和多エリックさんが歌三線で「懐かしき古里」「艦砲ぬ喰ぇ残さー」を披露し、最後はカチャーシーで団結を確かめた。
 稲嶺進名護市長は在沖米軍基地問題に関し「現実は非常に厳しい。現場を見て交流することで、分かってほしい。帰ったら(周囲に)伝えてほしい」と語った。県系2世のエドワード・クバさん(72)は市民に贈ったレイについて「大浦湾の向こうにあるハワイのウチナーンチュと皆さんはつながっている」と連帯のあいさつをした。【琉球新報】
「世界のウチナーンチュの日」を宣言内容
 我々は今日、世界のウチナーンチュのみなさんに伝えたい。
 我々ウチナーンチュは、持っている。
 我々ウチナーンチュは、未来を創造する力を持っている。
 我々ウチナーンチュは、未来への希望を持っている。
 我々ウチナーンチュは、世界へ飛び立つ勇気を持っている。
 我々ウチナーンチュは、互いを許し合う寛容の心を持っている。
 我々ウチナーンチュは、互いを助け合う相互扶助の心を持っている。
 我々ウチナーンチュは、豊かな伝統文化を持っている。
 我々ウチナーンチュは、困難に打ち勝つ不屈の精神を持っている。
 我々ウチナーンチュは、先祖への感謝の心を持っている。
 我々ウチナーンチュは、家族を愛する心を持っている。
 我々ウチナーンチュは、出会った人を愛する心を持っている。
 我々ウチナーンチュは、郷土を愛する心を持っている。
 我々ウチナーンチュは、平和を愛する心を持っている。
 我々ウチナーンチュは、ウチナーンチュであることに誇りを持っている。
 ウチナーンチュは一つになる。
 5年の時を経て、今日、また、世界中からウチナーンチュが集い、心が一つになった。
 ウチナーンチュがウチナーンチュであることを祝おうではないか。
 ふたたび世界中からウチナーンチュが集まった今日10月30日を祝い、「世界のウチナーンチュの日」としようではないか。
 今日10月30日を「世界のウチナーンチュの日」とし、この誇りを我々ウチナーンチュの魂に刻み込もうではないか。ここに、誇りを持って宣言します。今日は、「世界のウチナーンチュの日」です。今日は、めでたい「世界のウチナーンチュの日」です。おめでとう、世界のウチナーンチュ。いっぺーにふぇーでーびる。サンキュー ベリー マッチ。ムチャス グラシアス。ムイト オブリガード。ちばらなやーさい。頑張ろう。
null
1984年12月ー和歌山市民図書館移民資料室『和歌山市民図書館移民資料室』
null
1984年12月ー和歌山市民図書館移民資料室『和歌山市民図書館移民資料室』
null
1984年12月ー和歌山市民図書館移民資料室『和歌山市民図書館移民資料室』


沖縄県海外協会『雄飛』
 1895年、大見謝恒昌が渡米。後に北太平洋鉄道会社に勤める。
 1897年11月20日、比嘉統熈、北京丸で横浜出航。12月4日にサンフランシスコ上陸。→1996年4月北加沖縄県人会『沖縄県人サンフランシスコ移住百周年記念誌』
 〇1899年12月、当山久三の斡旋で第一回ハワイ移民。
 1901年4月3日、長崎在住の安仁屋政修(琉球新報通信員)渡米。→1903年2月13日『琉球新報』安仁屋政修「アメリカだより」
 〇1925年12月 沖縄県海外協会『南鵬』創刊号 真境名安興「ベージル・ホール、渡来に関する琉球側の記録」
 〇1952年4月 『雄飛』第四號 嘉陽安春・琉球政府行政府総務局長「移民問題について」/「琉球大学ー志喜屋孝信学長、事務局長に翁長俊郎、家政学部長・翁長君代」


null
 1989年6月 福地曠昭『沖縄の鍛冶屋』海風社/2010年10月 沖縄市立郷土博物館『沖縄の鍛冶屋』

〇古波津清昇「誇りに思う」/「沖縄民権の会会報『沖縄民権』総目次(抄録)」
2001年4月『民権の火よ永遠にー古波津英興追悼集ー』沖縄民権の会(座覇光子)

1983年6月 古波津清昇『沖縄産業史ー自立経済の道を求めて』文教図書
1990年9月 古波津清昇『起業の心得帖-チャンスを生かせ』ブックボックス壷川店
兵庫沖縄県人会事務所で拓伸商事社長の宮城幹夫氏に出会ったことがある。氏は1940年の沖縄県大阪物産斡旋所所長だった宮城桃幸の子息。

 『琉球新報』2017年3月16日 沖縄県内唯一の製鉄メーカー拓南製鉄(那覇市)の創業者で、県工業連合会会長などを歴任した古波津清昇(こはつ・せいしょう)氏が14日午前5時9分、那覇市内の病院で老衰のため死去した。94歳。八重瀬町東風平出身。1961年に県内初の電気炉鉄鋼生産を開始して沖縄の産業復興と工業近代化に大きく貢献し、拓南グループ11社で構成する拓伸会を一代で築くなど戦後沖縄の経済界を代表する重鎮の一人だった。
 1968年2月城間武松『鐵と琉球』金秀鉄工株式会社/1982年5月『鉄と共に三十五年』金秀鉄工株式会社
又吉真三さんと懇意であった崎間麗進さんは元金秀建設専務、山里銀三氏も金秀建設社長を勤めて居られた。

null
与那覇岳ー与那覇岳は、沖縄県国頭郡国頭村字奥間・字比地に位置する山である。 沖縄海岸国定公園内にある沖縄本島最高峰で、標高は503メートル。ただし、その隣の498メートルのピークに三角点があり、こちらを山頂のように見なす向きもある。 ウィキペディア