nullnull
2022年4月 沖縄県立博物館・美術館「第1回シンポジウム・琉球弧の無形文化財の危機を考える」

null
高江洲義英氏

null
横山學氏(ノートルダム清心女子大学名誉教授)
島袋和幸氏

null
新城栄徳、島袋和幸氏、高江洲義寛氏

null
2022-4 島袋和幸(090-4920-6952)『本土に出た沖縄・伊江島人』

 「くろねこの短語」4-22 なんとも姑息なことを。自民党安全保障調査会が、「敵基地攻撃能力」を「反撃能力」に名称変更する提言案を了承しましたとさ。これって、ペテン師・シンゾーが「安全保障法制」を「平和安全法制」にすり替えたのと同じで、ロシアがウクライナ戦略を「特別軍事作戦」といまでも言い募っているのと何ら変わりはありません。もっと言えば、戦時中に、「全滅」を「玉砕」、「退却」を「転進」と悲惨な状況を美辞麗句に置き換えた大本営の手口そのままなんだね。
 さらに、攻撃対象として「指揮統制機能等」という文言を追加してるんだが、何を意味してるんだろう。「等」と付いているのがなんとも不気味だ。拡大解釈するのに一番便利な言葉ですかからね。そして、防衛装備移転三原則の見直しにも言及している。「侵略を受けている国に幅広い分野の装備移転を可能とする制度を検討」するんだとか。これって、侵略している側にすれば、宣戦布告にも等しいことなんであって、まさにいまのロシアがそうなんだよね。
 自民党安全保障委員会の提言ってのは、つまるところ「いつでも戦争しますよ」宣言みたいなものだ。でも、いまのウクライナの現状からもわかるように、ミサイルがビシバシ飛び交ういまの戦争は、一般大衆労働者諸君がダイレクトに攻撃されるんだよね。「撃ちてし止まん」の玉砕精神で戦えってか・・・。それにしても、コロナ禍で貧困に喘ぐ一般大衆労働者諸君をほったらかしたままで、ウクライナ戦争をいいことに、よくもまあ軍備がどうのこうのと火事場泥棒みたいなことができるものだ。

null
山城 明 いいね うるま市 4-19

null
末吉安允氏提供
null
null
2022-3 豊里友行『沖縄にどう向き合うか』新日本出版社

null
2022-4-18 コロナ禍で疎遠になっていた友人の記者を新報に訪ねる。左から宮城修氏、新城栄徳、米倉外昭氏
nullnullnull
2022年3月 宮城修『ドキュメント<アメリカ世>の沖縄』岩波新書

null


『沖縄の軌跡』発行人・島袋和幸 携帯090-4920-6952)
nullnullnullnull
2021年11月22日 那覇市歴史博物館、左が外間政明氏、島袋和幸氏/11月23日 沖縄県立博物館・美術館民家/金城美奈子さん、島袋和幸氏/左が大城辰彦氏、島袋和幸氏

nullnullnull
11月17日14時半 ジュンク堂で上原美紀男氏と遭遇。古本屋anmo堂に同行。店主の嘉陽安茂氏
null
11月17日10時 我が家の屋上にて、島袋和幸氏(葛飾区四ツ木4-18-10 携帯090-4920-6952)
nullnull
2021年10月『沖縄の軌跡』第231号「震災時 千葉県:朝鮮人・日本人虐殺事件」

null

 1990年5月19日『琉球新報』「近代沖縄の美術家一堂に 東京の島袋和幸氏 浦添美術館に写真寄贈」

2016年7月21日『沖縄タイムス』島袋和幸「検見川事件の真相 関東大震災~沖縄県民の虐殺」

関東大震災絵葉書





「沖縄・烽火のネットワーク連絡会」代表・島袋和幸(〒124-0011 葛飾区四ツ木4-18-10 携帯090-4920-6952)氏が全国の烽火跡などを訪ねた折に出会った蘇鉄。

長崎県南島原市<原城跡>の蘇鉄
null
沖永良部島の世之主の墓、墓の入口と左側に蘇鉄が自生。
null
沖永良部 西郷神社

沖永良部島の遠見台・ウブス

沖縄・烽火のネットワーク
 2010年6月、東京の島袋和幸氏が息子さんと西銘生楽の孫娘の幸子さんを同行し来宅された。島袋氏は「沖縄・烽火ネットワーク連絡会」(〒124-0011東京都葛飾区四つ木4-18-10/携帯090-4920-6952)なるものを立ち上げ烽火をあげている。私も琉球国の守礼門(中山門)の年表を作成中なので、かつて琉球国の通信手段であった烽火なるものに興味を持った。わが粟国島にもかつて番屋原というところに「遠見台」があって遠見番が居たという。

6月9日ー黒島などの烽火跡の調査から帰ってきた島袋和幸氏と烽火ネットワークの烽火をあげるため『琉球新報』『沖縄タイムス』に行った。両社とも仁記者が興味深く対応してくれた。タイムスでは与那嶺功記者にも会った。島袋氏には『烽火手帖』なるものを提案した。東京で島袋氏の刊行物の印刷を引き受けているのは大和印刷(大城盛和代表・〒東京都千代田区岩本町2-5-2電話03-3863-3236)で、大城氏は沖縄では琉球新報の印刷会社に勤めたことがある。

 島袋和幸氏の20歳頃は、奈良の大和高田に住み、<大和三山>などを見て、斑鳩の里あたりを散策。その頃は、大阪上本町の写真学校、京都の学校にも通っていた。22歳頃は暑い京都で数年過ごし、周辺の寺院も訪ねた。この寺院巡りは、東京に定住しても妻や幼い子供を連れての家族サービスになった。その後は岐阜の大垣、木曽川駅あたりに住んでいた。以後、東京で伯母の飲食店を手伝い、調理師免許も取った。(続く)

島袋和幸『関東大震災・虐殺事件ー{秋田・三重・沖縄県人虐殺}/<検見川事件>.の真相』大和印刷
『沖縄の軌跡』発行人・島袋和幸(〒124-0011 葛飾区四ツ木4-18-10 携帯090-4920-6952)
null
2023年8月17日 『中日新聞』「関東大震災直後『検見川事件』」




秋田県人殺害ー殺人集団と化した[自警団]の妻沼町殺人・傷害事件の事件現場ー国宝・妻沼聖天山の真ん前で起きた事件。