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『ディアナの水浴』 57 cm×73 cm 1742年 フランソワ・ブーシェ ルーヴル美術館蔵/トマス・ゲインズバラ《シドンズ夫人》1785年 油彩・カンヴァス  シドンズ夫人は18世紀後半のイギリスで大変有名な悲劇女優で、特にマクベス夫人の役で有名になりました。彼女を描いた油絵や版画などの肖像画も多く、展覧会も開催されるほど。舞台上だけでなく彼女のゴシップなどが新聞で取り上げられ、私生活も注目された、いわゆるセレブリティの走りです。→今津京子

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 ルーブル美術館にモーリス・カンタン・ド・ラ・トゥール1752年の作品「ポンパドゥール夫人の肖像」がある。なぜかフランスに行ったことがない私でも知っている。1928年10月発行の平凡社『世界美術全集』第二十四巻で白黒だが初めて見たからだ。ネットで検索すると、ルイ15世の公妾。美貌ばかりでなく学芸的な才能に恵まれ、サロンを開いてヴォルテールやディドロなどの啓蒙思想家と親交を結んだ。また芸術の熱心な愛好家、パトロンでもあり、様々な芸術家とも交流した。ポンパドゥール夫人の時代はフランスを中心に優雅なロココ様式の発達した時代になった」とある。芸術の熱心な愛好家、パトロンということで『世界美術全集』に掲載されている。
 私は『世界美術全集』第二十四巻「ルイ王朝(2)清朝中期 徳川(宝永享保)時代」は京都の古書展の百円均一コーナーで買った。相当傷んでいたが切り抜き用に買った。当時だから印刷も相当粗い。この本は伊東忠太、鎌倉芳太郎が関わっているので琉球美術も載っている。
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白地紅型大模様花鳥文上衣(田邊孝次氏蔵)
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鳥居清倍「市川團十郎の和唐内」/鳥居清信「牢破りの景清(丹繪)」
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古山師房「吉田街道」/鳥居清信「傘美人圖」
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宮川長春「観劇絵巻」
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宮川春水「美人弄弦圖」 
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西村重長「新吉原月見之座舗」
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奥村政信「小倉山莊」
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奥村政信「佐野川萬菊の大坂色子」「遊色三幅つい」/鳥居清信「後面圖」
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西村重長(?〜1756)筆[浮絵品川座敷]

 1974年12月 矢野輝雄『沖縄芸能史話』日本放送出版協会に「すでにいわれているように、古典音楽と仏教の声明の唱法、傀儡師と京太郎、初期歌舞伎踊りと古典舞踊、能と組踊り、盆踊りなどの口説歌と沖縄全土を展開した口説など、その例は枚挙にいとまがない」とヤマト芸能と沖縄芸能とのかかわりを述べている。

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MGM社の「八月十五夜の茶屋」の撮影は大成功、同劇に出演して帰国の途にある大映スター根上淳、清川虹子および沢村みち子

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沖縄神社拝殿細部
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円覚寺方丈細部
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円覚寺方丈
1928年10月 平凡社『世界美術全集』第二十四巻

1922年4月23日『沖縄タイムス』莫夢生(末吉安恭)「陽春雑筆ー琉球の戰舞」
○(略)かやうな軍歌をうたひつつ戦舞を踊ったのは如何に勇ましかったことだろう。フィジィ土人の戰爭踊は手に自然の丸棒を持ち一人の音頭取あり多数の者がそれに従ふて踊り出すやうで、八重山の赤蜂軍のそれを偲ばすさうである。戦舞はアフリカのバリー種族にも行はれ、又サイパン土人もこれをなすと云ふことである。
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1922年4月22日『沖縄タイムス』莫夢生(末吉安恭)「陽春雑筆ー詫遊は神舞」
○(略)今日の演劇舞踊の起源は神前にて足ふみとどろかし神懸りして舞ふ神舞であることは、各民族に共通するものであるからだ。歌舞伎の元祖といはるる出雲の阿国ももとは巫女であったと云ふのである。巫女から歌舞伎の生まれたのは卵から鶏の生まれたそれに近いものではなかろうか。而して神事と舞踊との関係が最も著しく現れているものは琉球のものであるから日本の古代を研究するにも、琉球 他のものが参考になると同じく又其の舞踊も大切な研究資料ではあるまいかと思ふのである。
 「詫遊は神舞」と題し次のように書いている。□私は宮古の神舞は(沖縄)本島の上代にあった詫遊の神舞と同じものであると云った。即ち神舞に出づる女人達の扮装の異形なるは袋中のいわゆる龍宮様ではないか。龍宮との関係も宮古の伝説にはよく現れている。あるいはまた宮古の「あやぐ」もこれから出たものであろうとも思う。(沖縄)本島内にある「しのぐ」も、その由来するところはここにあるのではないかと思うのである。
 さらに私は詫遊の遊と云うのに舞踊の意味のあることを考えさせられるのである。琉球語の「あそび」と云うことは、唄をうたい、舞うことを意味することは誰もよく知っているとおりである。「あやぐ」を交遊と書くのも村芝居をあそびと云うのも、その意味を現したものの一つである。琉歌に 遊びかとまうきやる踊りがどもうきやる歌もうたえらで遊でたぼれ とある遊びはすなわちこの遊びである。 春や花ごとに色まさりまさりでかけやうおしつれて眺め遊ば の遊びは遊賞の意で、それと前者とは違うのであるが、 とりの伊平屋島や浮やがて見ゆる遊で浮やがる我玉黄金 の遊びはたしかに舞踊でなければ意味をなさぬ。琉球語の遊びと云う言葉は二様の意味があり、舞踊の意味が本源的のものであろうと思う。
(略)
 今日の演劇舞踊の起源は神前にて足ふみととろかし神懸りして舞う神舞であることは、各民族に共通するものであるからだ。歌舞伎の元祖といわるる出雲の阿国ももとは巫女であったと云うのである。巫女から歌舞伎の生まれたのは卵から鶏の生まれたそれに近いものではなかろうか。しかして神事と舞踊との関係が最も著しく現れているものは琉球のものであるから日本の古代を研究するにも、琉球□他のものが参考になると同じくまたその舞踊も大切な研究資料ではあるまいかと思うのである。

成道寺(じょうどうじ)について
 大阪市のほぼ中央に位置し、大阪城より南へ三十分、「大坂冬の陣」に真田幸村が陣を張ったところで有名な真田山という上町台地の一番高い  寺町の一角に成道寺はあります。
この成道寺は今から四百年まえ、江戸時代の慶長十六年(1611年) 二月、弁蓮社良定袋中上人によって開創されました。
 その後、宝暦十一年(1761年)六月、大破した堂宇を第十一世郁湛上人が自財を投じて再建しましたが、昭和二十年(1945年)三月、戦災により焼 失し、同二十八年(1953年)に現本堂が再建されました。
 なお、御本尊阿弥陀如来坐像(御身丈九十五センチメートル)と山門は戦災による難をのがれ、現在に至っています。
 当成道寺は大阪唯一の袋中上人開基の寺であり、創建当初から鎮守として主夜天尊が安置され、盗難除の霊験あらたかなので、今日に至るまで参拝者が絶えたことがありません。(成道寺)

袋中上人
 袋中上人は江戸時代前期の浄土宗の学僧です。上人のご生涯は文字どおり、阿弥陀佛におまかせした念佛専修の生活で、布教と著作に専念さ れた在野の学僧です。
 上人は沖縄のエイサーの生みの親としても有名です。上人は念仏をこの地に広めるために、節や振りを付けた「念仏踊り」で民衆にも分り易く説い ていきました。この念仏踊りが後にエイサーに発展していったと言われています。
袋中上人のご生涯
 天文二十一年(1552年)奥州岩城郡(今の福島県)に袋中上人はお生まれになられた。
 七歳のころ叔父の天蓮社のお寺に送られた。上人は賢明で九歳の頃には三経一論(三経(三部経):無量寿経、観無量寿経、阿弥陀経、一論:往  生論、浄土宗のよりどころとなる経論)の他、多数の経論を暗誦していたそうです。
 上人十四歳、永禄八年(1565年)出家し法名袋中を授かった。齢二十歳のとき大沢の円通寺へ行って大乗円頓戒を受けられ、重ねて比叡山で受  戒なされた。
 上人二十五の春、武蔵の三縁山(東京、芝の増上寺)に入って、勉学に励まれた。宗祖の法流と白旗派の口伝とをすべて伝授され、浄土門を極め られた。その後成徳寺の住職となられた。
 上人五十二歳のとき中国へわたって法を得たいとおもわれ、まず琉球へ渡られた。中国へ渡ろうとなされたが渡ることはできなかった。このとき琉 球の国王は上人の徳を慕って、深く帰依した。そこで、上人を城外の桂林寺の住職とした。琉球には三年間滞在なされた。
 慶長十一年(1606年)帰国し、その後京都三条の壇王法林寺を再興し、東山五条に袋中庵を建立なされた。
 寛永十六年(1639年)正月二十一日享年八十八歳で入滅なされた。

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吉村周山・画『画英( がえい )』 六巻六冊 寛延三(一七五〇)年九月刊
吉村 周山(よしむら しゅうざん、元禄13年(1700年) ‐ 安永5年(1776年))は江戸時代の大坂の絵師、根付師。

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玉氏真栄城親雲上徳実「美女の図」
 玉氏真栄城親雲上徳實:1721年、毛姓盛時嘉楊親雲上が繪圖並指図奉行のとき
玉氏真栄城筑登之親雲上徳實が出てくるので繪圖作成にも関わったことがわかる。「美女の図」には黄檗僧・無染頭陀の題賛がある。無染は伊藤若冲の「牡丹図」にも題賛している。