09/21: 世相ジャパン 2025⑬



10月3日 久しぶりに外出、市場本通り、平和通りの古美術なるみ堂に行くとハワイ・オハフ在住の大城忠夫さんが来ていた。ハワイにも「星空観測で有名な標高4,207メートルの「マウナケア」山頂には、冬ともなれば雪が積もる」と。/モノレール牧志駅からおもろまち駅、沖縄県立博物館・美術館「沖美連展」で画廊沖縄の上原誠勇さんと出会う。〇岡本由希子さん、大城さゆりさん、前田比呂也さん、上原誠勇さん

9月22日 『沖縄タイムス』






嘉陽宗博さん/金城馨さん



『第51回 がじまるエイサー祭り』9月21日(日)PM12時〜大正区千島公園グランド/孫こうた遊ぶ









9月23日~29日 パレットくもじ5階「金城次郎の名作展」


斎藤 陽子 7月11日 体調の優れない時に「何が食べたい?」と問われ、「炊き立てのご飯にSPAM」と答えて、福島育ちの主人に失笑されました。幼い時から食べていたSPAM(ホーメル・フーズの製造販売するランチョンミート缶詰の製品)は私にとって『最後の晩餐』的な食品だと、自分でも再認識して驚いています。
1960年以後の東京での貧しい大学生活では、当時SPAMが1缶有れば、2、3日はどうにか過ごせたもので、貧しかった日本の1960年の学生時代の、私の人生の食生活にSPAMは大きな役割を担っていたものです。(略)このSPAM最近は全国的に認知度をあげて、人々が食するようになった様なので、今日はSPAMについて書いてみようと思いますジェイ・C・ホーメルが第一次世界大戦に従軍した際に、フランスのアメリカ軍の補給所に配属され、長期保存可能な携行性の高い食品に必要性があると感じ、大型の缶詰製品だった「ホーメル・フレーバー・シールド・ハム」を小型化すれば新たな市場を開くことができると考えて、缶詰のサイズを従来の4分の1(12オンス)にし、1936年に「スパイスハム」として売り出し、翌1937年に発売を開始したポーク缶の「SPAM スパム」です。
この商品は長期保存が可能で味にほとんど変化がなく、家庭でも手軽に調理できるという利点があり、ホーメル社は大々的なキャンペーンを展開して発売から数カ月でホーメル社の主力商品となり、手軽で簡単に調理できることから「ミラクルミート」と称されるようになります。またこの缶詰は第二次世界大戦中には各国友軍の軍事物資となり、戦時下の戦闘兵士の携帯食料として利用されます。
第二次世界大戦が勃発した1941年に米国では武器や食料を同盟国に提供する武器貸与法(Lend-Leas Act)が成立し、ホーメル社もポーク缶を提供することになり、このときアメリカ政府や軍から缶詰の形状を兵士の背嚢(背負いバッグ)に詰めやすくするため、長方形にするようホーメル社に依頼しています。ホーメル社は1941年3月のには第二次世界大戦における主な提供国(提供先)はアメリカのほか、イギリスやロシア(ソ連)などの友軍国へのSPAMを提供し、ソ連軍がアメリカ軍から提供されたSPAMは1億ポンドにもなり、フルシチョフは「SPAMが無ければ、我がソ連軍に食料を配給する事はできなかっただろう」と語ったています。
第二次世界大戦を指揮したアメリカ合衆国大統領のアイゼンハワーは、SPAM製品に対し「兵士の健康を維持し、飢えさせないよう戦った」と評して、感謝状を贈っています。
その後イギリス、ハワイ、グアム、フィリピン、韓国、沖縄 など米軍駐留地を中心にSPAM市場が広がり、グローバル商品となったといいます。
沖縄とSPAMの関係とは・・・・・・沖縄戦から戦後にかけアメリカ軍に捕虜として収容された沖縄住民は、元々軍隊食として用いられたSPAMを駐留軍から支給された食糧として、また捕虜から解放された後も食糧難により、軍からの払い下げ品や横流し物資として、SPAMを食べ始めることとなり、戦後の食糧難時代に、生き抜くために重宝したものです。沖縄では琉球王国時代より豚肉を食べる文化が根付いていましたが、激戦となった沖縄戦により養豚業が壊滅状態となり、また冷蔵庫がなくても保存が利くため豚肉の代用品として、戦後の食卓にSPAMが用いられることとなります。
流通や保存技術の発達した現代においても、豚肉よりSPAMは価格が安く、買いだめも可能なため、沖縄料理や日常のおかずにSPAMは欠かすことのできない食材となっています。
なお、ホーメル社の発祥の地で本社のある、アメリカのミネソタ州のオースティンには【SPAM博物館】があり、スパムの町として名高いです。