今帰仁村歴史文化センターでー左が館長・仲原弘哲氏と新城栄徳(渚さん撮影)

本日、文化の杜の渚さん運転のクルマで今帰仁と本部を廻った。渚さんは本部生まれで北山高校出身。今帰仁村教育委員会で、今帰仁城発掘や『百按司墓木棺修理報告書』編集にも関わっていて今帰仁に詳しい。今帰仁村歴史文化センターで館長の仲原弘哲氏が出迎えた。仲原氏は渚さんとも旧知の間柄。2012年8月22日寄贈された仲宗根政善の資料・本(100箱余.り)が地下書架に並んでいた。ガラスケースにある『琉球国由来記』(「1946年、山城善光氏帰沖,伊波先生からの手紙と『琉球国由来記』の写本,服部四郎氏から米語辞典が届けられる」と略年譜にある)には仲宗根宛の伊波普猷の署名がある。東江長太郎『通俗琉球北山由来記』(1935年11月)もある。□→1989年3月、東江哲雄、金城善編により那覇出版社から『古琉球 三山由来記集』が刊行された。

全集類は『比嘉春潮全集』(新聞スクラップが貼りこまれている。)『宮良當壮全集』『仲原善忠全集』『琉球史料叢書』などが目についたが、とくに日本図書センターの『GHQ日本占領史』はかなりの巻数である。安良城盛昭『天皇制と地主制』上下もある。

今帰仁関係を始めとして国文学雑誌や、琉球大学関係資料、同僚であった大田昌秀の著書も多数。また伊波普猷との関連で那覇女トリオの新垣美登子、金城芳子、千原繁子の署名入りの贈呈本もある。平山良明の論文原稿①、仲程昌徳『お前のためのバラード』、我部政男、渡邊欣雄、池宮正治、比屋根照夫、野口武徳、川満信一などの本も署名入りが並んでいた。娘婿が編集した『島田寛平画文集 1898-1967」 寛平先生を語る会1994年11月も目についた。
     □□2012年6月 仲程昌徳『「ひめゆり」たちの声ー『手記』と「日記」を読み解く』出版舎Muɡen(装丁・真喜志勉/墨染織・真喜志民子/写真・真喜志奈美)


天皇関係、大学紛争を特集した雑誌もある。マクルーハン②の本もあった。マクルーハンは、もともとは文学研究者として出発したが、その後メディア論を論じる(挑発的にして示唆に富んだ)社会科学者として名を成した。60年代後半~80年代前半にかけて爆発的な影響力を誇った。「内容ではなく、むしろそのメディア自身の形式にこそ、人びとに多くをつたえているのだ」と訴えることをつうじて、それまでの活字文化と、ラジオ文化、テレビ文化 相互のあいだにかれが差異線をひいたことは、いまだに重要である。 (ウィキペディア)


沖縄言語研究センターの「仲宗根政善 略年譜」を見ながら今帰仁村歴史文化センター書架に並んでいる本を思いつくまま記していくことにする。()内・写真・□は新城追加。

1907年(明治40年4月26日)
沖縄県国頭郡今帰仁村字与那嶺にて,父仲宗根蒲二,母カナの長男として生まれる 。生家は農業を営む。母カナは,名護の町を一度見たいというのが夢であったが,終生ついにかなえられなかった。祖父政太郎は,謝花昇(1908年死亡)に私淑していた。謝花は近在まで出張してくる都度,仲宗根家に宿をとった。
□1913年
9月5日 今帰仁村字与那嶺715番地に、父島袋松次郎(教師)、母静子(教師)の長男として霜多正次生まれる。→書架には霜多作品もある。

1914年~1919年(大正3年~8年)
兼次尋常小学校(大正8年4月1日,高等科併置,校名を兼次尋常高等小学校と改名する)に入学。桃原良明校長(4代),安里萬蔵校長(5代),安冨祖松蔵校長(6代),上里堅蒲校長(7代),当山美津(正堅夫人)等から直接教えを受ける。32歳の若さで赴任してきた上里校長に出会ったことによって,生涯を決定される。伊波普猷「血液及び文化の負債」の民族衛生講演で兼次小を訪れる。
1920年(大正9年)
沖縄県立第一中学校に入学。大宜見朝計(書架に1979年発行『大宜見朝計氏を偲ぶ』これに政善は「二人でたどった道」を書いている。川平朝申の文章もある。),島袋喜厚,上地清嗣等, 国頭郡から7名。中城御殿(現博物館)裏にあった駕籠屋新垣小に最初下宿。
母カナ死亡(享年40歳)。14歳になるまで,一晩中目がさえて一睡もできなかったということは一度もなかったが,虫のしらせか母の亡くなった夜だけは,蚊帳の上をぐるぐる飛んでいるホタルが妙に気になって,とうとう一睡もできなかったという経験をする。
泉崎橋の近くで,初めて伊波普猷の姿に接する。4年から5年にかけて,英語を担当していた胡屋朝賞先生の感化を受ける。
1926年(大正15,昭和元年)
福岡高等学校文科乙類に入学。沖縄から最初の入学者であった。級友から珍しがられ,親切にされる。翌27年には,大宜見朝計が入学。
伊波普猷著『孤島苦の琉球史』と『琉球古今記』を買い求め貧り読む。
安田喜代門教授から『万葉集』の講義を聞き,万葉の中に,日常用いている琉球方言がたくさん出て来るのに興味を覚える。また,考古学の玉泉大梁教授から,日本史の中ではじめて琉球史の概要を聞く。ドイツ語担当白川精一教授の感化を受け,ドイツ語に興味を持つ。
1929年(昭和4年)
東京帝国大学文学部国文学科入学。同年入学者に林和比古,永積安明, 吉田精一,犬養孝,岩佐正,西尾光雄等がいた。
本郷妻恋町に最初下宿。2年の時から国語学演習で,橋本進吉教授に厳しく鍛えられる。同ゼミに先輩の服部四郎,有坂秀世氏等がいた。服部氏が,今帰仁村字与那嶺方言のアクセントを調査し整理して,法則を示してくれたことによって, 郷里の方言に一層興味を持つようになる。金田一京助助教授のアイヌ語の講義,佐々木信綱講師の万葉集の講義を受ける。
伊波普猷先生宅に出入りするようになる。
1931(昭和6年)
第二回南島談話会で,はじめて柳田国男,比嘉春潮,仲原善忠, 金城朝永,宮良当壮に会う。
1932(昭和7年)
東京帝国大学文学部国文学科卒業。世は不況のどん底にあって,町にはルンペンがあふれていた。就職口もなく,朝日新聞に広告を出しても家庭教師の口すら年の暮れまで見つけることができないというような状況であった。
たまたま,県視学の幸地新蔵氏から,郷里の第三中学校に来ないかとの手紙があって,伊波普猷先生に相談。「東京でいくら待っても職はないし,2,3年資料でも集めて来てはどうか」と言われ,帰郷する気になる。
★「語頭母音の無声化」(『南島談話』第5号)。
★「今帰仁方言における語頭母音の無声化」(『旅と伝説』)。
1933年(昭和8年)
名護の沖縄県立第三中学校に教授嘱託として赴任。伊波普猷先生から,蚕蛹の方言を調査してほしい旨の手紙を受け,さっそく生徒126名を対象に,国頭郡の各部落の方言を調査し報告する。方言使用禁止の風潮の中で,方言を調べ研究するのを,生徒たちから不思議に思われる。伊礼正次,サイ夫妻の長女敏代と結婚。
1934年(昭和9年)
★「国頭方言の音韻」(『方言』第4巻第10号)。
1936年(昭和11年)


折口信夫先生を嶋袋全幸氏と共に案内。正月を名護で迎える。北山城趾見学の帰り,与那嶺の実家に立ち寄る。
三中から沖縄女子師範学校・沖縄県立第一高等女学校に転勤を命ぜられる。『姫百合のかおり』(沖縄県女子師範学校・沖縄県立第一高等女学校,30周年記念号)の編集委員を勤める。
★「加行変格『来る』の国頭方言の活用に就いて」(『南島論叢』)。
1937年(昭和12年)
川平朝令校長から「国民精神文化研究所」に研修に行くことをすすめられ,あまり気のりがしなかったが, 東京へ転ずるきっかけをつかむことができるかも知れないとの希望があって,目黒長者丸にあった同研究所へ入所する。
伊波先生を塔の山の御宅に訪ね,入所報告をすると「紀平正美などが,『神ながらの』道を講じているようだが,あんなのを学問だと思っては大間違いだ。研究所に通うより,うちに来て勉強するがよい」と注意を受けて近くに宿を貸りる。先生に励まされ,研究意欲に燃えて,夏の終わりに帰省。

1950年(昭和25年)
一中健児之塔建立。碑に刻む歌を胡屋朝賞校長に懇望され,一中の校歌4番をもとにした「よどみなくふるいはげみしけんじらのわかきちしほぞそらをそめける」 の歌を献納。
1951年(昭和26年)
8月5日戦死した生徒たちの七回忌を機に,★『沖縄の悲劇-姫百合の塔をめぐる人々の手記』を華頂書房から上梓。
アイフェル講習会のため,群島政府の費用で上京。同行した喜屋武真栄氏は,リフェンダーファーに見つかり,強制的に帰沖を命ぜられる。喜久里真秀氏と2人はこっそりのがれて受講。
1952年(昭和27年)
沖縄群島政府廃止のため文教部副部長の職を辞して,琉球大学に転ずる。後,教授兼図書館長に任命される。
□1954年7月 桑江良行『改訂 標準語対照 沖縄語の研究ー附篇・沖縄語から見た古典』おきなわ社(著者署名入りで仲宗根に贈呈)

1955年(昭和30年)
琉球大学副学長に任命される。
上京,御徒町に伊波冬子氏(普猷夫人)を訪ねる。貴重資料を,琉球大学に伊波文庫として永久に保管して欲しい旨,承って帰省。後,翁長敏朗事務局長が上京。「おもろ覚書」の遺稿を除いて,すべての資料を譲り受け,「伊波文庫」として琉球大学図書館に保管された。
国文科で東京大学の服部四郎教授を招聘,国語学を中心に講義。服部教授招聘を機に,琉大方言クラブが結成される。同クラブから幾多の俊秀が輩出することになる。
1956年(昭和31年)
東京大学総長矢内原忠雄先生が沖縄教職員会の招きで来島,講演会が開催される。島ぐるみの土地闘争に関連して,停退学処分に付された学生6名のうち4名を,国文科専攻の中から出す。
1958年(昭和33年)
副学長を退任。
1959年(昭和34年)
教員の認定講習のため,本土から派遣されてきた教授団の1人,先輩の松田武夫氏を宝来館に訪ね,以来深い親交を結ぶ。
1960年(昭和35年)
東京大学長茅誠司氏が沖縄教職員会の招きで来島,講演会が開催される。
★「沖縄方言の動詞の活用」(『国語学』第41集)。
1961年(昭和36年)
伊波普猷先生ゆかりの地浦添に,墓と顕彰碑を建て,東京築地本願寺に安置されていた御霊を,8月31日の命日にお迎えし,第1回物外忌を催す。
★「琉球方言概説」(『方言学講座』第4巻)。
★「琉球方言と文学」<座談会>(『塔』)
1963年(昭和38年)
ハワイ東西文化センターへ出張(3月~64年7月)。
1964年(昭和39年)
神戸大の永積安明教授を国文科で招聘したところ,米軍から同教授への渡航許可が降りず,学内問題となる。国文科を中心に「渡航拒否反対闘争」が起こる。
アジア財団の学術調査費の援助を受けて,宮古の言語調査を行う。調査,研究の成果を『宮古諸島学術調査研究報告,言語・文学』(琉球大学沖縄文化研究所編)として,1968年4月に刊行。
1968年(昭和43年)
東京大学にて長期研修(4月~69年3月)。
★「3本の指-おもろそうし校本・辞典・総索引-」(『文学』36)。
★『ああひめゆりの学徒』を文研出版から刊行。51年版に「ひめゆりの塔に祀られた戦死者名簿」を付す。
1969年(昭和44年)
★「仲原先生をしのぶ」(『仲原善忠選集』)
★「東西南北」(『IDE』88号)。
1970年(昭和45年)
★「仏桑華の花」(『心のかけ橋』)
1972年(昭和47年)
『全国方言資料』10,11(琉球篇I,II)を担当。
★「安里先生のことども」(『安里源秀教授退官記念論文集』)
1974年(昭和49年)
★『沖縄の悲劇-ひめゆりの塔をめぐる人々の手記』(東邦書房)刊行。 68年版の題名を元に戻す。
1975年(昭和50年)
定年により琉球大学を退職。後任に,ドイツから帰国した上村幸雄氏が就く。
★「与那嶺方言の撥音「ン」と促音「ツ」」(『琉球大学法文学部紀要 国文学・哲学論集』)。
★「思い出」(『伊波普猷全集月報8』
★『今帰仁村史』の言語の項を担当執筆。
1976年(昭和51年)
名誉教授の称号を授与される。
★「おもろの尊敬動詞『おわる』について」(『沖縄学の黎明』)。
★「言語学から見た沖縄-宮古方言の語彙体系を求めて-」(『人類科学』)。
★「宮古および沖縄本島方言の敬語法-『いらっしゃる』を中心として(九学会連合編『沖縄』)。
★「伊波先生の思い出」(『伊波普猷-人と思想』)。
★「伊波先生の思い出」(『養秀』)。
★「おもろ語の「くもこ」について」(『新沖縄文学』)。
1977年(昭和52年)
ひめゆり学徒戦没33回忌をとり行う。
★「さやはの春秋」(『青い海』)。
★「仲原先生をしのぶ」(『仲原善忠全集付録』)
1978年(昭和53年)
上村幸雄教授を中心に「沖縄言語研究センター」を設立。同センター代表に就任。「琉球列島の言語の研究・10年計画」が始まる。
★「いしやらたうくすく」(『青い海』)。
1979年(昭和54年)
沖縄師範女子部と一高女の旧ひめゆり学徒,34年目の卒業式を行う(3月4日)。
★「なかべきよら御城」(『青い海』)。
□7月 嘉味田宗栄『琉球文学序説』ペリカン社  仲宗根政善「序文」→仲宗根政善 原稿「嘉味田宗栄氏を悼む」1980年(昭和55年)
第24回沖縄タイムス文化賞受賞。ライフワーク『今帰仁方言辞典』原稿を角川書店に入稿する。
★『ひめゆりの塔をめぐる人々の手記』を角川書店から刊行。「ひめゆりの塔に祀された戦死者」遺影を付す。
★「宮良先生のお人柄」(『宮良当壮全集』)。
1981年(昭和56年)
★「東恩納先生をいたむ」(『東恩納寛惇全集』付録10)。
★「春潮先生の思い出」(『沖縄文化』)。
1983年(昭和58年)
第1回東恩納寛惇賞受賞。沖縄県文化功労賞受賞。
★『沖縄今帰仁方言辞典ー今帰仁方言の研究・語彙篇』(角川書店)刊行。
★『石に刻む』(沖縄タイムス社)刊行。
1984年(昭和59年)
第74回日本学士院賞・恩賜賞受賞。第12回伊波普猷賞特別賞を受賞。
1987年(昭和62年)
★『琉球方言の研究』(新泉社)刊行。
1988年(昭和63年)
★『蚊帳のホタル』(沖縄タイムス社)刊行。
1989年(平成元年)
沖縄ひめゆり平和記念資料館設立とともに館長に就任
1992年(平成4年)
妻敏代,死去(享年82歳)
1995年(平成7年)
2月14日午前6時35分,肺炎のため死去(享年87歳)
□7月★『琉球語の美しさ』ロマン書房「ソーロー<候> 八重山では、いらっしゃることをオールンという、奄美へんでもつかう。またおもろにも『おわる』という言葉がたくさん出ている。この『オワル』と『召し』が複合して『召しおわる』が出来、ミシオールン、シショールン、ショーインとなったので、別に鎌倉時代の候がはいったのではないと思う」「「昔、師範学校に、日露戦争の勇士で朴訥豪快な屋部軍曹という体操の教師がいたという。唐手の名人でもあった。標準語は十分話せなかった。唐手の指南のとき、『腕にムルシグヮー出して、足をクンパッて、ブッタカシテ、アッタカシて、バチミカスのだ』といっていたという。」「この今帰仁というのはどこにもざらにあるようなところではなく、ただ世界に一つしかないところである」

□1997年3月 狩俣幸子『仲宗根政善言語資料(手稿)目次集』琉球大学附属図書館