『沖縄タイムス』2018年1月5日ー戦前の那覇市内に約1500平方メートルの墓地を所有していたが戦後の混乱で所有権を失ったなどとして、琉球王朝の国王の子孫を始祖とする門中会が、代替地を管理する県と那覇市に所有権の確認を求める訴訟を4日までに、那覇地裁に起こした。同会は当時の住民の証言を頼りに所有を立証する予定で、代表の高安繁彦さん(68)=大阪府=は「証拠収集に6年かかった。先祖の誇りにかけて取り戻す」と訴えている。
 訴状などによると、原告の狄氏(てきうじ)高安門中会の始祖は第二尚氏王朝の4代尚清王の八男で、先祖が17世紀、琉球王府に多大な貢献をしたことから、王府から墓地と「御拝領墓」が与えられた。墓は戦前の同市住吉町にあり、同会は毎年墓地で清明祭を開いたとされる。

2012年9月、関西沖縄文庫の金城馨氏から「住吉神社北側(那覇港が見渡せる高台)に拝領墓を頂いた山城尓也(ヤマグスク ニヤ)の背景にあるもの」を貰った。河内長野市の子孫・高安繁彦氏が作成した先祖についての考察であった。氏集にも新参狄氏と載っていて、大宗は狄懋芳・高安筑登之高吉とある。子孫によれば、この系図は太平洋戦争で行方不明となったようである。


2013年3月2日午後2時ー沖縄県立博物館・美術館で、右が高安繁彦氏( 090-6550-3643)、新城栄徳

琉球王府を救った若者たち
薩摩の侵略後、薩摩役人(警備担当等大和衆と呼ばれた足軽)が那覇等で徘徊していた。質の悪い役人は琉球王府にとって治安の上で目にあまるものがあり、また経済的にも大きな負担であった。そこで、異国船が先島沖に来たことを理由に彼らを先島に派遣する。しかし、洋上で船もろとも沈没させ、薩摩役人を処分した。いわゆる事故に見せかけた事件である。事故を装うため2名の琉球役人と共に船頭が犠牲になった。

先祖 山城(ヤマグシク)尓也は腕の良い船大工であった。ある日 琉球王府から薩摩役人を船ごと沈めるよう命を受け、先島へ向かう船を操船し出航したが帰らぬ人となった。代償は子孫を士族として取り上げ生活を保障するとともに本人には御拝領墓を与える条件であった。彼の墓の前で太平洋戦争直前まで清明祭が執り行われ、この出来事は子孫の口伝として今日まで語り伝えられている。墓はアメリカ軍によって削りとられ現在は海中に沈められている。




  高安家に伝わる口伝に、検地のため、先島(宮古・八重山)へ向かう薩摩役人を先祖の山城尓也が首里王府の命で(琉球)役人と共に船を沈めた。出航に際し、山城尓也は「跡継ぎは弟に、また自分の墓は海の見える高台に」と遺言した。それで垣花に御拝領墓、子孫は、山城尓也の母の出身地の豊見城間切の高安邑の高安を頂いた。




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