1983年8月『琉球新報』新城栄徳「落ち穂ーオキナワの少年」
東京時代の座右の書

 左の本の表紙の「さざれ石」写真を見て京都のさざれ石を見た。→日本国歌にうたわれている「さざれ石」とは、ちいさな石という意味です。さざれ石は年とともに大きく成長し、岩になると信じられている神霊の宿る石です。 国歌の原典は「古今和歌集」にも詠まれた生き石伝説「さざれ石」です。下鴨神社の「鴨の七不思議」の中に、「泉川の浮き石」や「御手洗の神石」伝承が残っており、石に宿る神聖な力をを現しています

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 1974年8月『山口組時報』「田岡家(本家)令息満氏 華麗なる華燭の典」
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□約700名の来賓、一部を紹介してみたい。政財界ー石井一、中山正暉、五島昇、松村正直、佐々木慎太郎、中井一夫、松尾国三。
会社関係ー岡田茂(東映社長)、川辺正夫(松竹副社長)、徳間康快その他。
作家・タレントー川内康範、飯干晃一、小池一雄、俊藤浩滋(東映プロデューサー)、鶴田浩二、高倉健、勝新太郎、中村玉緒、寺島純子、梅宮辰夫、ビクトリア、待田京介、伴淳三郎、清川虹子、五木ひろし、渚ゆうこ、天中軒雲月、大村崑、西郷輝彦、山口洋子、吉村道明、沢村忠。なお、元首相、岸信介氏他各界知名士多数より祝電があり、司会者より披露されたことを、最後に付記しておきます。(小田秀臣・山口組時報編集責任者・記)
 私は東大阪の布施駅ちかくに住んでいた。通り道の鶴橋駅を7時ごろ散策のおり小田秀総業の2階でボヤ騒ぎがあり、パトカーが無線で「親分(小田秀)と、子分8人がいる」と喋っていた。その小田秀組長は怒号し子分をどやし続けていた。すぐ目の前だったが火はすぐ収まった。小田秀組長は『山口組時報』の編集責任であった。かつて佐野真一氏も『山口組時報』の編集に誘われていた、と本人が書いている。
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大阪・小田秀組総本部、1980年ー八興建設(瀬川清社長)が2億4、000万円で請け負う
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1975年1月『山口組時報』
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左・大正区平尾にあった山口組内嘉陽組事務所。後に難波に移る・右
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山本健一を中心とした3代目山口組組織図□田岡組長の写真は粟国出身者が多い大阪天六の市場にあった金田組事務所に飾っていたもの、この組事務所は窓が空きっぱなしで組員がいつも不在であった。

山本健一初代山健組組長(バックの扁額は頭山満の書)
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初代山健組組織図
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写真ー1977年6月ー徳島・勝浦会2代目襲名、左から諏訪健治、勝浦隆司、松浦一雄、図越利一、山本健一
 通勤電車の近鉄線から山本健一組長の入院している大阪市生野区の今里胃腸病院の看板がよく見えた。山本組長は1982年2月4日に肝硬変に腎不全を併発して死去。関西の夕刊紙ではいつも病状を伝えていたので病院の看板が見える毎に思い出していた。

神戸大嶋組の四天王の一人と言われた本多が、1938年豪雨にみまわれた神戸の河川工事を行い本多組を立て1940年に大嶋組から独立、本多組を結成。本多組は倉庫業、湾岸荷役業をシノギとしており「ミナトの六人衆」と呼ばれるようになる。ダイエーの中内功会長も闇市で活動していた当時を回顧し、「本多さんは大親分だったですよ」と証言している。 二代目本多会の時代まで所属していた最後の若衆であった四国の竹形の逝去とで本多会を支えていた者達はほぼ生存しなくなった。本多の関わったものは今や、倉庫会社、建設会社など、いわゆる堅気の企業としてしか残っていない。 →ウィキ
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1983年9月『スコラ』「兵庫県下主要暴力団」
 大行社ー大正13年(1924年)6月11日 清水行之助が後藤新平のほか、有力諸賢の後援を得て設立。戦後永らく休眠状態にあったが、1981年に岸悦郎が旧知の仲である清水から要請があり、暫定的に会長代行となった。結成式には稲川会初代会長の稲川角二や住吉連合代表の堀政夫が列席した。岸は公式には堅気でありながら任侠右翼であることを認めていた。→ウィキ

 「メンズサイゾー」2011-9-22 〇9月21日発売の「週刊文春」(文藝春秋)でビートたけしが「暴力団との関係」を赤裸々に語り、大きな話題となっている。暴力団との交際が原因で島田紳助が引退したことにより、芸能界と暴力団の関係がクローズアップされ、どのタレントもヤクザとの関わりが明らかになることにおびえるようになった昨今、なぜあえて暴力団との関係を自ら語ったのか。
 記事では、フライデー襲撃事件後に復帰した際に「復帰が早すぎる」として右翼団体に街宣をかけられたことがあると明かしている。紳助が暴力団と関係を持ったきっかけは、同じく右翼団体に街宣をかけられ、その解決を渡辺二郎を通じて暴力団に頼んだことだった。しかし、たけしは右翼団体の関係先である住吉連合会の堀政夫会長をひとりで訪ね、土下座して謝って解決したという。この点が紳助とは違うとして、「タレントとして、そういうのを上手くやって逃げるのも本人の芸」「紳助は逃げる芸がなかった」と語っている。また、10年ほど前に、ある芸人(※文春は中田カウスだと断言)の策略によって山口組の渡辺芳則5代目組長と無理やり面会をさせられたこともあるという。さらに、稲川会からのプレッシャーにより初代会長・稲川聖城氏との面会を断れなくなり、月刊誌「新潮45」(新潮社)で対談したこともあった。(略)

『四国新聞』2002年6月3日ー右翼団体「大行社」(東京都港区)の元会長で総帥の右翼団体「大行社」(東京都港区)の元会長で総帥の岸悦郎氏(76)が台湾で死去していたことが3日、警視庁の調べで分かった。警視庁などによると、岸氏は5月から、がんの治療のため台湾に滞在していたが、今月2日深夜、台北市郊外の別荘で死亡したという。大行社は日本で最大規模の右翼団体。
沖縄の右翼・総会屋

1997年ー『民族』日本民族思想普及会(儀武晋一)/1989年ー『社会時報』桜魂社護国塾(松田昌雄)

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平成4年度 日傷・日妻の会全国合同沖縄大会、沖縄コンベンションセンター、笹川会長と沖縄国際武道空手連盟の皆さん

※2020年09月01日、三代目山口組若頭補佐や一和会理事長を務めた加茂田重政元組長が亡くなったと、関係者が明かした。90歳だった。

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山口組本部事務所

竹井博友 たけい-ひろとも
1920-2003 昭和後期-平成時代の経営者。
大正9年10月9日生まれ。昭和18年読売新聞社会部記者となる。21年退社し,アサヒ芸能出版社などを創立。33年地産社長に就任し,不動産,ホテルなどの地産グループを形成。「読売新聞」の大阪,名古屋進出に際し,大阪本社常務,中部読売新聞社社長をつとめた。平成3年脱税で有罪となる。平成15年7月29日死去。82歳。栃木県出身。明大卒。(コトバンク)

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菅谷組

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白神組事務所/1975年4月 『八紘』発行人・白神英雄(1923-3から1987年 サイパンで射殺される)

 い聯合の歴史は、会津小鉄一家で若頭を務めた“いろは幸太郎”こと長谷川幸太郎の舎弟・西村伊三郎が明治に興した砂子川組に端を発する。
西村はもともと相撲取りであり四股名を“砂子川”と名乗っていた。日露戦争で子分を引き連れ軍夫長として参戦し、戦勲に対して帝国陸軍の“山形の印”を代紋とすることを許された。大正9年、西村が49歳で急逝し跡目不在が続いたが、のちに砂子川組三代目を継ぐこととなった岡田卯一郎が奔走、京都の“稲荷の庄助”こと山崎庄助が二代目を継承した。昭和28年、山崎が高齢により引退、岡田卯一郎が三代目を継承したが、岡田は“井桁の代紋”を掲げる山岡組の二代目であった。岡田が砂子川組三代目を継承する際に、一番の舎弟である池田大次郎に井桁の代紋を託した。池田は終戦直後に大阪・京橋を拠点に博徒組織として結成した池田組を率いていた。池田は井桁の代紋を受け継ぎ、井桁の代紋に“い”の文字を入れて掲げた。昭和45年、池田組を母体に池田を会長とするい聯合が結成された。昭和48年、池田が急逝。
その後内部対立が発生し、池田の一周忌を済ませたのち、い聯合副会長・所司原節也が二代目い聯合、い聯合監事・船本 登が二代目池田組、い聯合副長・谷口楠蔵が浪花連合をそれぞれ結成し、3派に分裂した。昭和61年、所司原二代目が引退。同年、二代目体制で理事長、会長代行を歴任した松井 毅が三代目を継承。大阪・都島を本拠に組員約500人を抱えたが、平成5年1月に解散。傘下の松井組、誠心会等諸団体は山口組系列となった。
歴代会長 初 代 - 池田大次郎 二代目 - 所司原節也 三代目 - 松井 毅
最高幹部
舎弟 - 大見謝恒伸(大見謝組組長)※浦添出身
若頭 - 中村長治郎(誠心会会長)
本部長 - 西森三男(三代目松井組組長)
若頭補佐 - 平山昭洋(平山組組長)
若頭補佐 - 渡辺輝男(渡辺組組長)
会長付 - 浦田鉄夫(浦田組組長)
会長付・常任理事 - 山田 亨
会長付・常任理事 - 河田弘次(河田組組長)
常任理事 - 横井英明(横井組組長)
会長付・常任理事 - 東野秀臣(東野組組長)
親衛隊副長・常任理事 - 安楽和美(安楽組組長)
親衛隊副長・常任理事 - 松倉千明(松栄会会長代行)
親衛隊副長・常任理事 - 寺田 明(寺田組組長)