04/23: 1923年5月 『沖縄タイムス』莫夢生(末吉安恭)「青すだれー東西刺客観」
5月11日莫夢生「青すだれー清明上河図と日章旗(4)」
▲問題は日章旗に移って行くが、仇英の清明上河図の原本は宋の張択端のそれである。然らば支那の日章旗を初めて用ひたのは、明時代でなくて宋時代であると云ふことも、明瞭になったのである。更に私は張択端のことを調べる為めに画論画史を猟って見たら、明の董玄宰の画禅室随筆に端なくもそれを見出した。 張択端が清明上河図、皆南宋時、 京の景物を追慕せしも にして、西方美人の思あり、筆法の繊細なる、亦季昭 に近きか、惜むらくは骨力乏しきのみ
張択端に就いてはこの外に書いたものは見ないが、清明上河図は南宋 京の景物を追慕せしものだと云ふことがわかり、日章旗もその時のものであると云ことだけは明瞭になった。而して桜田氏は日章旗に就いては、前に西村天囚氏にが書いたものに、島津斉彬公が船印に用ひられたのが抑も初めであると記してあったのを、憶えていると云ひ、若し斉彬公が用ひられた事実がありとすれば、我帝国の日章旗は、この明時代の日章旗と没交渉のものではあるまいと云った。
▲清明上河図の日章旗は南宋のものであって、明時代のものではない。或は明時代にもあったかは知らないが、島津斉彬が日章旗を船印に用ひたのは、私は琉球から行ったものではないかと疑ふのである。琉球の船に日章旗を用ひたことはこれまた船舶の図がそれを証する。那覇市役所にある首里那覇の図及び浦添朝顕氏の蔵する同じ図等にも日章旗がある。
國立故宮博物院
5月14日『沖縄タイムス』莫夢生「青すだれー東西刺客観」
1923年5月 『沖縄タイムス』莫夢生「青すだれー東西刺客観」
○在独逸の高田義一郎氏が日本及日本人に感想を寄せられたのを見ると、「日本の刺客は皆申し合わせたように斬姦状を懐にして理由を明らかにし名を名乗って先ず自分の身体を投げ出してかかっている。」「西洋の刺客は辻斬り強盗のそれと同じ・・・」
1922年10月 『沖縄タイムス』莫夢生「雨絲風片ー琉儒と道教」
○李鼎元の使琉球記を読んでー沖縄には道教の寺はない。即ち支那にあるような道観、道士こそなけれ、道家の思想は早くからあったのである。○唐御竈、他に天妃、関帝王、文昌帝君、土地君などは道教の神様。久米の学者先生達は支那伝来の天妃廟を敬すること孔子廟同様である。○道教思想のあらわれとして、現世的因果応報の最も面白い例は、私は組踊の孝行巻に於いてこれを発見する。
○蔡温はまた蓑翁片言の中にも弁妄を試みている。○東汀随筆を仔細に見ると翁は矢張り道教的思想が深く頭脳にこびりついて離れなかった人・・・○これは蔡温が程順則への書簡、これに依ると流石の順則も積もる身の不幸に対し、哀悼尤怒の意なき能わなかったようである。
1923年10月 『沖縄タイムス』莫夢生「安楽椅子ー沖縄党争史論を読む」/1923年8月 『沖縄タイムス』莫夢生「老榕の髭ー俳諧に現れたあらぬ恋」
▲問題は日章旗に移って行くが、仇英の清明上河図の原本は宋の張択端のそれである。然らば支那の日章旗を初めて用ひたのは、明時代でなくて宋時代であると云ふことも、明瞭になったのである。更に私は張択端のことを調べる為めに画論画史を猟って見たら、明の董玄宰の画禅室随筆に端なくもそれを見出した。 張択端が清明上河図、皆南宋時、 京の景物を追慕せしも にして、西方美人の思あり、筆法の繊細なる、亦季昭 に近きか、惜むらくは骨力乏しきのみ
張択端に就いてはこの外に書いたものは見ないが、清明上河図は南宋 京の景物を追慕せしものだと云ふことがわかり、日章旗もその時のものであると云ことだけは明瞭になった。而して桜田氏は日章旗に就いては、前に西村天囚氏にが書いたものに、島津斉彬公が船印に用ひられたのが抑も初めであると記してあったのを、憶えていると云ひ、若し斉彬公が用ひられた事実がありとすれば、我帝国の日章旗は、この明時代の日章旗と没交渉のものではあるまいと云った。
▲清明上河図の日章旗は南宋のものであって、明時代のものではない。或は明時代にもあったかは知らないが、島津斉彬が日章旗を船印に用ひたのは、私は琉球から行ったものではないかと疑ふのである。琉球の船に日章旗を用ひたことはこれまた船舶の図がそれを証する。那覇市役所にある首里那覇の図及び浦添朝顕氏の蔵する同じ図等にも日章旗がある。
國立故宮博物院
5月14日『沖縄タイムス』莫夢生「青すだれー東西刺客観」
1923年5月 『沖縄タイムス』莫夢生「青すだれー東西刺客観」
○在独逸の高田義一郎氏が日本及日本人に感想を寄せられたのを見ると、「日本の刺客は皆申し合わせたように斬姦状を懐にして理由を明らかにし名を名乗って先ず自分の身体を投げ出してかかっている。」「西洋の刺客は辻斬り強盗のそれと同じ・・・」
1922年10月 『沖縄タイムス』莫夢生「雨絲風片ー琉儒と道教」
○李鼎元の使琉球記を読んでー沖縄には道教の寺はない。即ち支那にあるような道観、道士こそなけれ、道家の思想は早くからあったのである。○唐御竈、他に天妃、関帝王、文昌帝君、土地君などは道教の神様。久米の学者先生達は支那伝来の天妃廟を敬すること孔子廟同様である。○道教思想のあらわれとして、現世的因果応報の最も面白い例は、私は組踊の孝行巻に於いてこれを発見する。
○蔡温はまた蓑翁片言の中にも弁妄を試みている。○東汀随筆を仔細に見ると翁は矢張り道教的思想が深く頭脳にこびりついて離れなかった人・・・○これは蔡温が程順則への書簡、これに依ると流石の順則も積もる身の不幸に対し、哀悼尤怒の意なき能わなかったようである。
1923年10月 『沖縄タイムス』莫夢生「安楽椅子ー沖縄党争史論を読む」/1923年8月 『沖縄タイムス』莫夢生「老榕の髭ー俳諧に現れたあらぬ恋」