1972年4月 沖縄の雑誌『青い海』5月号 一泉知永「燃ゆる眼・闇をつらぬく眼」

一泉知永(旧姓・嘉手納)明治大学教授・日本生活文化史学会副会長
1923年4月25日 那覇市に生まれる

1965年5月 沖縄興信所(代表・大宜味朝徳)『琉球紳士録』「本土在住琉球紳士録」

写真左から宮島肇、新崎盛敏、大浜信泉/石川正通、宮城栄昌、一泉知永/外間寛、安良城盛昭、島茂彦

 
1971年1月『サンデーおきなわ』「沖縄人国記ー明治大学教授 一泉知永」



2004年7月1日『琉球新報』一泉知永「言葉にみるー沖縄文化の原像」〇沖縄は古来「日本の中の沖縄」であったであろうか。これは、単に過去のことではなく、巨大軍事基地をかかえさせられている現代・現在の問題でもある。数年前のNHKのドラマ「琉球の風」が全く期待はずれでつまらなかったのも、沖縄の政治的危機にあたって中国派と日本派の対立は画(か)かれても、肝心の琉球王朝の主体的姿は全く影が薄かったからである。あれでは、琉球王朝は日中にはさまれたピエロである。

 明治大学名誉教授の一泉知永(いちいずみ・ちえい)さんが15日午後5時34分、肺炎のため東京都内の病院で死去した。81歳。那覇市出身。自宅は東京都杉並区和泉2-27-8。通夜は19日午後6時から、告別式は20日午前11時から杉並区永福1-8-1の築地本願寺和田堀廟所で。喪主は妻知榮子(ちえこ)さん。一泉さんは1923年、那覇市泉崎の生まれ。41年に県立二中、49年に明治大学を卒業し、証券会社勤務を経て、53年に同大助手となり、研究者の道を歩んできた。専門は金融論と文化史で、著書に「証券市場論」「金融論」などがある。近年は沖縄方言や日本語の語源にも関心を広げていた。→2005年1月17日『琉球新報』

 2016-9『明治大学広報』第695号(1975年 商学部卒)一泉 知由ー私は、1975年に商学部を卒業し、東京海上火災保険(当時)に入社、33年3ヶ月勤務後、2008年7月に依願退職し、日本ゼネラルフードという給食事業の会社に転職しました。現在、1万人の従業員が、企業、病院、老人施設、学校などに毎日約35万食の食事を提供する会社の副社長をしています。 私を今の会社に強烈に誘ってくれた西脇司(にしわきつかさ)社長(明治大学校友会愛知県支部長)は、明治大学付属明治高等学校の同級生です。15歳から大学を卒業するまで、共に学び、遊んだ仲間と、卒業して33年後に、同じ会社で働くことになるとは、とても不思議な縁を感じています。(以下略)


1982年12月10日『琉球新報』一泉知永(明治大学教授、葬儀委員長)「石川正通先生を悼む」

正通曼荼羅③
1979年1月1日『琉球新報』石川正通「憂時立砲と沖縄」
有事立法を、精神分析学的政治学で翻訳すれば、憂時立砲になる位のことは、僕のような数学者でない、ずぶの素人にも解るであろう。尤も僕の数学とは数種類の学問のことである。鉄砲を持った奴が、たいてい無鉄砲である事実が、これを実証する。鎌倉の三代将軍実朝が「物言はぬ四方(よも)のけだもの」と憐んだ可憐な鳥獣を無闇に殺生して自慰(マスターベーション)に耽り、ついでに暴発で、人間まで殺す自称狩猟家を政府も認めている。セイフは、英語では安全だが、日本語では危険だ。

第一次世界大戦が終わったとき、「イキガ(男)ヌ、ハティレー、ジャーナリスト(蛇成人)」と言わんばかりに、世界各国の新聞人がニューヨークに集まって、今回の戦争を何と命名しようかと鳩首凝議した。議論百出の席。人間はそれほど馬鹿でないから、二度とこんな馬鹿な戦争は起こすまい。だから、「ザ・ラスト・ヲワ」(最終戦争)が一番良い名だと、決議しようとしたが、きまらずに、いつもまにか第一次世界大戦と言う呼称に落ち着いて、第二次世界大戦の素地を作った。馬鹿どもが夢のあと。

徳富蘇峰は、終戦の詔勅を拝して、「八十三年非なり」と、自分の史観の誤りを、五言律の漢詩に托して懺悔した。伊江朝助男爵が、ヤガテユヤ暮リテ、行クン先ヤ見ラン六十六タンメ、ドゥゲイクルビ と、琉歌に盛った心境と同工異曲の挽歌である。歴史書きの歴史知らずは論語読みの論語知らずより哀れなりけり。人類の発生から絶滅まで、過渡期でない瞬間は無い。時々刻々、革新へ革新へと、動いてやまないのである。世界の列強が軍備拡張に明け暮れている今の今々、第三次世界戦争の勃発を想定して見るのも狂人の狂態ではあるまい。

極東軍事裁判の通訳官翻訳官調査官として、僕がキーナン検事(闇の大統領カポネを裁いた鬼検事)邸に住み込んでいたとき、秘密書類を見た。日清戦争・日露戦争・第一次世界大戦の時の対独の三回の宣戦詔勅には、何れも「大日本帝国皇帝」となっているが、大東亜(太平洋)戦争の宣戦の詔勅には「大日本帝国天皇」となっている。「豈朕が志ならんや」が耳に残る詔勅。天皇であっても、皇帝であっても、三度目の宣戦布告の詔勅の出ないことを、命がけで望む。「ユヌ、ペイ・サン・レザールム!(武器無き国!)」とナポレオンを唸らせた平和の島、守礼之邦の後裔吾等の平和責務は地球よりも重い。

1982年1月 石川正通「花は葉の変形」
○(略)  もっと驚くべきことは、漢字の「花」という字である。これはクサカンムリ(植物)が化けるで、花は葉の化け物であることを、中国人はゲーテより何千年も前に知っていたことになる。仲原善忠氏の実兄で著名なジャーナリスト仲原善徳氏に、大宜味朝徳君主宰の「南島」紙上で「石川正通は漢文の天才である」と書かれて、冷汗をかいたことがあるが、私は、   浅けれどわが学問の根幹は北村素堂の深き漢学   と歌った通り、北村木次郎先生の薫陶を受けて、漢字漢文が好きである。漢詩も作ったり朗詠したりする。世界文学(Weltliteratur ウェルトリテラトフア) 永遠の女性(Ewigweiblich エウィックワイプリッヒ)等の言葉を造ったゲーテ先生、以て如何となす。

第一回の古里洋行の折、キャラウェイ高等弁務官と会談の節、四方山の話のついでに、
Poems are made by fools like me,But only God can make a tree.「詩は私のような馬鹿にも作れるが、木は一本でも神様でなければ作れない」。
と言うアメリカの愛樹詩人で、私が生まれた1897年72歳で他界したジョイス・キルマーの名句をご存じですかと、お尋ねしたら「知っているどころではない。美しく作曲されたその詩を、小学生のとき、一列に並んで、よく歌ったものです」と即答された。それではアメリカはなぜ、日本本土や沖縄の木を焼き払ったのですかと、詰め寄ったら「多分どこか外の神様が焼いたのでしょう。」Perhaps some other god might have burnt your trees.
と、にが笑いされ、弁務官室で、私と妻に、おいしいコーヒーとお茶をご馳走し、記念撮影して下さった。シュワルツ博士の話もした。
ベトナム戦線で、アメリカ軍が強行した枯葉作戦を知ったら、キルマーは憤死したであろう。