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江戸時代の測量家、伊能忠敬(1745~1818)の命日の17日、遺髪と爪が納められている香取市牧野の観福寺(田中量信住職)で墓前祭が行われた。約40人の参列者らは読経の中、焼香し、日本で初めて実測日本地図を作成した郷土の偉人をしのんだ。関係者らによると、墓前祭は1933(昭和8)年に当時の佐原町議会で5月17日に「忠敬祭」を行うことを決議したが、いつから実施されているかは不明で、48(同23)年に没130年祭を行った後は10年ごとに開催したという。98(平成10)年以降は毎年実施されるようになった。その後、2007年までは市の行事として行っていたが、憲法の政教分離原則もあり、08~10年は観福寺主催で実施。11、12年は東日本大震災の影響などで中止となっていた。今回の墓前祭は、有志による市民団体「(仮称)忠敬墓前祭斎行を考える会」(山村増代会長代行)の主催で、3年ぶりに開催された。「千葉日報5月18日」

1983年10月 伊佐三郎『回想』
第15章 万葉集歌の英訳と琉歌
日本民族の心の故郷とも賞賛される万葉集歌の外国語訳は、明治維新前にさかのぼってのことである。即ち1834年、独乙の有名な東洋学者ハインリッヒ・ユリアス・クラブロース(Heinrich Julius Klaproth)(1783~1835)がシベリヤ旅行中、難波船からシベリヤ放浪中の日本人漁夫にあい、彼等から聞いた万葉集歌を独乙語に訳したのが、外国語への訳の始めであった。明治維新(1868)後は次から次へと訳文が表れた。1872年にオーストラリアの学者フィズマイヤー(August Pfizmaier)(1808~1887)により万葉集歌の200首が英訳され、世界の注目をひいた。万葉集歌の英訳の満足すべきもの、完成されたものとも見られるものは、現代版である(The MANYOSHU)である。日本の英文学者、国文学者を網羅した日本学術振興会、特別万葉集委員会が、日本在住の英国詩人ラルフ・ホッヂソン(Ralph Hodgson)の協力によって、万葉集歌四千五百首中の壱千首を翻訳したものである。それは1940年に完成され、コロンビヤ大学版(Columbia University Press)として、ニューヨーク及びロンドンでされている。この英訳により万葉集の文学的価値が、いよいよ高く世界の文学界に宣揚されつつある。さて郷土沖縄の歌謡もまた、沖縄の人たちの心の故郷である。沖縄の歌謡にも万葉集歌のような秀歌が無数にあるといってよい。
    万葉集「わが背子は いづち行くらむまつち山越ゆらむ今日ぞ 雨な降りそね」
    琉歌  「なま降ゆる雨や雲に宿みそり 里が花の島着ちゅるえまや」
    万葉集「足音のとどとひびけば松下に 出でて見つる けだし君かと」
    琉歌  「夕まんぎとともに 立ちゅる面影や ゆすの足音も 里めとむて」

伊佐三郎は本書に「粟国の英傑、友利仁三郎」を紹介、「私の父の姉で、友利家に嫁いだ伯母があった。私の母や、私の兄弟姉妹、皆から親のように親しまれた伯母であった。(略)此の伯母さんの二男一女の中の、次男が、友利仁三郎である」と記している。私も元村長の友利仁三郎の名は知っていたので大阪で友利氏に出会って親しく会話してもらい感激した記憶がある。


写真ー友利仁三郎

伊佐三郎は、同郷(粟国)の先輩・新里朝彦の世話で1927年5月に東京教育界の名門 白金小学校に勤務する。校長は創価学会創設者の牧口常三郎であった。新里は1916年に沖縄県師範学校入学、1919年の大ストライキの首謀者10名と共に放校処分。上京し、人力車を引くなどの労役苦学で豊島師範を卒業し、竜野川小学校勤務のとき牧口常三郎を知る。新里は1925年に白金小学校に勤務した。伊佐の1932年の教え子の一人に中川順(テレビ東京社長)が居る。

関連事項


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写真ー新里朝彦
伊佐はまた、同僚で新里と同じ豊島師範出身の鈴木昶を知る。鈴木は熱心な大本信者で、伊佐は1933年暮れに亀岡大本本部に鈴木らと同行し出口王仁三郎にも会っている。1942年3月、白金小学校を去って、千葉県佐原中学校に転出。佐原中学校の校歌2番「関東平野の空高く 筑波の峰ぞほほえめる 朝に夕に打ち仰ぐ 忠敬翁の遺徳ぞ尊し 崇き御教心の技と 高嶺を攀じて勇まし我等」と伊能忠敬が歌いこまれている。1949年4月から千葉県立千葉工業高等学校教諭となった。ここで1958年まで勤務した。

新里朝彦は粟国小中学校校歌の作詞者である。2013年の東京での戸澤裕司写真展には、新里の子息が来られ、写真展の関係者に手紙で「過日は短い時間ながらお会いする機会を頂き有難うございました。同時に粟国の空気を感じ取ることが出来る楽しい会合でした」とある。



伊佐三郎(沖縄高校校長時代)


1979年6月 在阪有志による『黎明期の粟国』出版祝賀会


1982年 大淀沖縄県人会・大阪粟国村人会主催の激励会

1985年3月 米城律・伊藝滋『石川正通追想集』石川澄子□伊佐三郎「沖縄近代(二十世紀)の偉大なる学者 石川正通先生」

「千葉県立房総のむら」〒270-1506 千葉県印旛郡栄町龍角寺1028 ☎0476(95)3333 FAX0476(95)3330
参加体験型の博物館として昭和61年4月1日に開館しました。 平成16年には「千葉県立房総風土記の丘」と統合して、恵まれた里山環境の中で原始・古代から近代現代までの衣・食・住・技の移り変わりを体験することができる博物館としてリニューアルスタートしました。平成21年5月には、開館以来500万人の来館者を数え、外国からのお客様も年々増加しております。歴史と自然を学ぶ「風土記の丘エリア」と、商家・農家などの「ふるさとの技体験エリア」とで楽しむことができます。