1971年5月 『建替え建直しー人類愛善世界の提唱』出口王仁三郎生誕百年記念会

2003年正月 沖縄県護国神社に行くと鳥居に日本民主同志会/松本明重とあった。懐かしい名前である。平良盛吉翁の『関西沖縄開発史 : 第二郷土をひらく 』1971を援助し日本民主同志会本部名で発行していた。松本氏は世界救世教外事対策委員長、祇園すえひろ会長だが、沖縄に関わり、「京都の塔」「小桜の塔」に碑を建てている。この人とダブって思い出したのが、「元祖スエヒロ」という「しゃぶしゃぶ」の店を経営している大阪日本工芸館長の三宅忠一氏である。この人も沖縄民芸などに力を入れていた。

松本氏は東本願寺紛争にも名が出てくる。相対する西本願寺と云えば弟22世門主・大谷光瑞が思い出される。戦前沖縄の新聞に、光瑞来沖かと云う記事を見たことがあるが、結局来なかったようである。その代わりというか弟の大谷尊由が1918年2月に来沖し相当に歓迎されたようである。光瑞と同じく宗教界の怪物と知られる人物に大本の出口王仁三郎が居る。その大本宣教場の亀岡「天恩郷」は明智光秀の居城跡で、そこに沖縄から奉仕活動に来ていた金城ひろこさんを大城敬人(現名護市会議員)氏に紹介されて遊びによく行った。


虎瀬公園は、モノレール儀保駅から歩いて15分くらいの ところにある公園。 遊具は滑り台や幼児遊具があるので小さい子でも 楽しく遊ぶことが出来る。 園内には、緑が多くとても見ているだけでも気持 ちいい。 公園の隣りには世界救世教の建物がある。

蘇鉄



佐藤惣之助詩碑。1959年五月、惣之助の出身地である川崎市民の厚意によって建立されたものである。当初、首里当之蔵町、旧琉球大学構内(現首里城公園)にあったものを、公園の整備に伴い、当地へ移築したものである。建立に際しては、同じ神奈川県出身の陶芸家浜田庄司の手による陶板が用いられている。碑の文言は「宵夏」。


○せかいきゅうせいきょう 【世界救世教】
岡田茂吉(一八八二~一九五五)が開いた大本教系の新宗教。もと大本教布教師だった岡田が、岡田式神霊指圧療法を始めて大日本観音会を一九三五年に発足させたのが始まり。宇宙の主神を大光明真神とし、岡田の掌から放射する観音力で浄霊が行われ、万病が治るとする。のち大日本健康協会・世界メシヤ教などと変わり現名に。岡田は信者から「お光様」と呼ばれた。所在地・静岡県熱海市桃山町。MOA美術館 創立者の「熱海にも世界的な美術館を建設し、日本の優れた伝統文化を世界の人々に紹介したい」との願いを継承し、1982年にMOA美術館を開館しました。その成り立ちは、昭和32年にまず、熱海市に熱海美術館を開き、昭和57年の創立者生誕百年の年に、現在の美術館を開館、「Mokichi Okada Association」の頭文字を冠するMOA美術館と改め、財団の中心拠点として、美術品の展観をはじめ、いけばな、茶の湯、芸能、児童の創作活動などを通して、幅広い文化活動を展開。


那覇市泊の光明会館(生長の家沖縄県教化部)の蘇鉄
○生長の家は、大本で機関紙の編集主幹をしていた谷口雅春が起こした教団です。生長の家は岡田茂吉の系統と違い、大きな分裂もなく現在に至っています。この教団の特徴は、設立の経緯が同人雑誌だったので現在でも機関紙を定期購読することが信者の勤めとなっていること、またメディア・マスコミには非常に敏感です。マスコミの取材に対してまともに答えを出さない(出せない)新宗教団体が多い中、生長の家だけは毎度ながらもっとも丁寧に回答を出します。生長の家のホームページにも、教義から組織から歴史から沿革その他にいたるまで、丁寧に解説されています。(はてなキーワード)

1953年6月ー大阪四天王寺(出口常順管長)から地蔵菩薩3体寄贈
2010年7月1日、陶芸家の末吉安允氏と連れ立って雨の中、旧三和村魂魄塔、那覇市旭ヶ岡、浦添浦和塔の地蔵菩薩を参拝する。途次、豊見城市のギャラリー春秋(城谷初治〒901-0235豊見城市字名嘉地108/電話098-850-1261)、伊波普猷の墓、浦添グスクようどれ館に寄る。不思議とお地蔵さんの前に行くと雨は止む。浦添グスク周辺は英祖王統の頃に浦添ようどれと極楽寺が造営されたと伝わる。察度王統の頃に大規模なグスクになっている。

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写真左から糸満、旭ヶ岡、浦添の地蔵尊。糸満の和光地蔵尊は管理され清掃もされている。ブログで見ると2005年5月の琉球新報に「糸満市米須の沖縄バス運行管理士の山城健一(58)氏が地主から300万円で買取り公園化した」とある。
1964年6月 島田叡氏事蹟顕彰会『沖縄の島守 島田叡 親しきものの追憶から』
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1952年9月30日ー出口常順氏の「島守の塔」墓参

1952年9月27日、出口常順大阪四天王寺管長は戦没者慰霊と伝道の目的で来沖。戦死した島田知事とは三高の同窓。9月29日『沖縄タイムス』出口常順「沖縄来島について」□出口常順(明治33年11月7日~平成6年3月3日)ー愛知県知多郡武豊町で中川八平、いく4男。明治41年11月ー出口兵三郎の養子となる。明治44年3月ー大阪四天王寺山内東光院、市川圓常大僧正の徒弟となる。大正12年3月ー第三高等学校卒業。大正15年3月ー京都帝国大学文学部哲学科卒業。昭和2年12月ー四天王寺執事に就任。昭和5年三月ー比叡山専修院卒業。昭和7年6月ー四天王寺海外留学生として欧米に2年滞在。昭和20年4月ー四天王寺悲田院常務理事就任。昭和26年2月ー和宗総本山四天王寺管長就任。学校法人四天王寺学園理事長就任。社会福祉法人四天王寺福祉事業団理事長就任。昭和44年12月ーインド・セイロン・カンボジャ仏跡巡拝。昭和50年ー天台仏教教団の顧問として中国を視察。

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写真・四天王寺の蘇鉄
平成6年4月6日午後1時~3時  四天王寺第百壱世 出口常順儀 慈光心院常順法印大和尚 本山葬
2011年11月11日『琉球新報』「大阪の長沼さん和光地蔵を巡る」

那覇市の開南小学校付近に、かつて「湧田地蔵堂」があった。地蔵菩薩は、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上の六道の輪廻に苦しむ人々を救う仏とされ、ヤマトでは中世以降、六道の巷を住処とする地蔵と、境を守る道祖神が習合し、道々の境界に地蔵が祀られるようになった。湧田地蔵は、真言宗の僧 日秀上人(1503~1577年)が、1538年 泉崎村の南に位置する湧田村に建立した。堂は赤瓦屋根の中央に擬宝珠を載せた八畳間ていどの平屋で、中央に石柱が立ち、石柱上部は六角の厨子の形であった。厨子の中に上人手彫りの木像が安置され、厨子には「欽奉 六道 能化地蔵菩薩 現世安穏 後世善所 大明嘉靖十七年戊戌 三春晦日 敬白」の文字が刻まれた。

泉崎・湧田村では村の神女が中心となって旧歴の1日・15日、9月9日、10月の竈まわり等、村の守護仏として拝んだとされるが、普段は鬼ごっこや陣取りなど子どもたちの遊び場でもあったという。日秀上人建立の地蔵堂は、湧田の他に、那覇地蔵堂(東村、西村の境)と若狭町地蔵堂があったが、1944年の10・10空襲やその後の沖縄戦により破壊された。