琉球玩具
1935年       「琉球古代玩具目録」東京浅草・沖縄屋(矢賀宗友)
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1959年1月『守礼の光』創刊号「表紙・崎山さんの玩具づくり/過去と未来を結ぶ民芸」/1973年3月『琉球の文化』<特集1・琉球の伝統玩具>
「崎山嗣昌/古倉保文」


1936年       尾崎清次『琉球玩具図譜』笠原小児保健研究所
1936年6月24日 『沖縄日報』「懐かしの玩具市、東町に露店居並ぶ」
1967年3月26日 『琉球新報』「ある生活/郷土玩具研究家ー古倉保文さん」

 関久子:1901年和歌山県に生まれ、1996年94歳で逝去。本名=尾崎くに★『大老女 関久子さん』(伊藤えり子/私家版/1996年)
 大阪府の北端にある能勢町の「野草園」の世話をしてきた関久子から、薬草の知識も含めて野草園を引き継いだ45歳の伊藤えり子が、最期の息遣いまで見つめて、関の全生涯を貫く思想・地球観・世界観を描いた。題名の「大老女」は、カナダ先住民の作家アン・キャメロン著『銅色の女の娘たち』に登場する、太古の知恵を子孫に伝える力強い老女を意味する。同題のビデオも作成されている。
 関の社会運動の歩みは、彼女が講演の中で自らを語ったものが掲載されている。戦前は小学校教員として働き、戦後「大阪教育労働組合(教労)」の結成に参画して初代婦人部長となる。その結成大会で女ひとり発言し、「同一労働同一賃金」のスローガン欠如を指摘し、委員長が謝罪して方針案が補強され、府庁交渉へ。さらに大阪の労組・婦人団体による「勤労婦人連盟」(略称「勤婦連」36組合参加)を結成して初代委員長になり、労働運動に打ち込んだ。1947年の歴史的な2・1スト時の高揚と中止の悔しい想いの話は、臨場感あふれる。1951年には婦人民主クラブ大阪支部の結成に参画。
 1970年〜77年には、能勢ナイキ基地反対闘争に傾注。村の農民への働きかけは生半可な関わりでは信頼されない、毎日曜日通いつめてビラを渡し、話し込む中から信頼を築き、豊中を中心とする地域の民主陣営と繋いでいく。7年頑張って、防衛庁に計画を断念させた。87年からは沖縄の反戦地主会や石垣島の空港建設反対運動に、三里塚闘争に、反核反原発運動にアメリカにも行って原住民と交流という具合に、納得がいくまで関わる。→エル・ライブラリー

1925年 夫婦で玩具を収集し、木版画にする作業に取りかかる。
1936年 尾崎清次『琉球玩具図譜』笠原小児保健研究所
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1970年10月 関久子『艸炎』大阪啄木の会
1987年8月 『86才元気印やってます 関久子の歩み』個人史をきく会(豊中市)
1987年9月16日  『毎日新聞』「元気印・反戦おばあちゃんー86歳 関久子さん」

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