1926年9月 『琉球年刊歌集』琉球狩社
□山城正忠「序に代へて」/琉球文学会ー山城正忠、世禮国男、松根星舟、狩社同人「琉球年刊歌集発刊之辞」
□當間黙牛/北村白楊/島袋九峯/伊豆味山人/伊竹哀灯/宮里潮洋/國吉瓦百/名嘉元浪村/照屋一男/上里堅蒲/比嘉泣汀/池宮城寂泡/新田矢巣雄/間國三郎/川島涙夢/島袋哀子/漢那浪笛/山里端月/又吉光市路/美津島敏雄/江島寂潮/西平銀鳴/山城正斉/大山潮流/池宮城美登子/星野しげる/小栗美津樹/禿野兵太/新島政之助/小林寂鳥/梅茂薫村/水野蓮子/松根星舟


□国吉真哲翁は1924年4月、山城正忠を会長に、上里春生、伊波普哲、山口三路(貘)らで琉球歌人連盟を発足させた。国吉翁はこのころ、貘と一緒に歌人連盟顧問の麦門冬を訪ねた。同年暮れに麦門冬は急死した。連盟の団結は後に『琉球年刊歌集』として結実した。25年9月の『沖縄教育』(又吉康和編集)は山城正忠が表紙題字、カット(獅子)は山口重三郎である。同年11月、真境名安興が沖縄県立沖縄図書館長に就任したころ、国吉翁は又吉康和の後任の『沖縄教育』編集人となる。又吉は沖縄県海外協会に転じた。海外協会の機関誌『南鵬』には国吉翁の詩歌が載っている。琉球新報連載「むかし沖縄」285回に国吉翁撮影の写真がある。真栄田一郎の墓前で池宮城秀意、瀬長亀次郎、城間得栄、上原美津子が写っている。真哲翁は真栄田一郎が死んだ時、姉の冬子から「弟の死顔でも良いから写真に撮って送ってほしい」との依頼を受け、棺を開け写真を撮った。戦後、瀬長はうるま新報の社長、池宮城はうるま新報専務となる。瀬長と池宮城は沖縄人民党結成に参加する。その人民党誕生の瞬間を国吉翁が記録することになる。

□1897年、今帰仁村に生まれました。本名は小那覇全孝といい、彼の本業は歯科医で、県立二中の第一期卒業生にして日本歯科医大学を卒業した秀才です。愛称を「ブーテン」で呼ばれます。第二次世界大戦の戦後復興の時代に、弟子の照屋林助と村々を回って、「命の御祝事さびら」(生きていることを祝いましょう)と呼びかけ、戦禍の傷が癒えない人々に生きる力と勇気を与えました。沖縄の漫談の祖です。三味線に乗せて世相を風刺する抱腹絶倒の漫談は天歳的です。代表作には「石川小唄」「スーヤーヌパァパァ」「盗ドゥ万才」「百歳の花風」があります。1969年に亡くなりました。享年72歳でした。 →(小那覇舞天 おなはぶーてん / ラジカル・ビスケット)



1935年現在ー沖縄県立第二中学校卒業者名簿
1915年3月・第一回卒業ー伊藝豊徳(健康保険所)、波平鎌一(小禄村)、新元亀次郎(那覇石門 商業)、友利恵任(台湾彰化群鹿港街専売局出張所)、小那覇全孝(嘉手納で歯科開業)、川上喜成(那覇税務署)、饒平名紀芳(東京日本橋区通り2-4日本橋ビル)、玉城亀寿(馬山公立高等女学校)、竹山秀一、玉城三郎、高良睦茂、平兵一、楚南元煐(東京高工卒)、楚南元勳(那覇で保険会社)、仲里金英(在今帰仁)、上原昇(大阪東成区中本第一小学校)、山城光進(東京赤城小学校)、福永親昌(那覇市役所)、山城正綱(在東京)、兒玉正作(沖縄県庁)、照喜名重實(台湾壮氏公学校)、安里重善(台湾台南新営海豊麿公学校)、大河内清榮(旧姓惠 大阪四條綴中学校)、志堅原良政(札幌市)、比嘉良瑞(東京市外戸塚町字諏訪2)、比嘉福吉(邊野喜小学校長)、平田重徳(鹿児島市樋之口町152池上方)、比嘉寛清(美里小学校)、比嘉盛義(津波小学校)、瀬名波佐善(沖縄県師範学校附属小学校)

1916年3月・第二回卒業ー川平惠優(鉄道省神田表猿楽町22)、與那覇浩之(安東県安東運送会社)、玉城孫太郎(今帰仁)、嵩原繁(花蓮港高等j與学校)、多嘉良憲吉、高嶺朝昌(在東京)、仲吉朝敏(神田実費診療所)、上江洲敬高、照屋勝雄(高知市江ノ口町中水道1018)、崎山用喬(台湾台北基隆高等女学校)、宜保俊一、嶺井松一、識名朝明(中城小学校)

1917年3月・第三回卒業ー伊礼喜俊、富山嘉積(県立第一中学校教諭)、金城松房、吉元山戸、平良蔵太郎(那覇金城病院)、津止重忠(大阪朝日新聞社)、永田重雄(大阪市西区京町堀33)、仲榮眞武雄、上里良保(嘉手納172)、上地平清、上原健男(東京市外東大久保234)、久場良雄(海軍少尉)、山城正直(羽地尋常高等小学校)、前田實(鹿児島県立志布志中学校教諭)、東風平玄宗(麹町警察署)、幸地新松(豊橋市豊橋病院)、小波津英毅、安慶田一(東京中央職業紹介所)、新垣武久(県立工業学校教諭)、安谷屋熊一、新垣邦二(北谷尋常高等小学校)、有馬宏(龍山満鉄京鐵局)、宜野座衡(久志尋常高等小学校)、島袋山戸、島袋正輝(宮城尋常高等小学校)、比嘉利幸(久志局長)、勢理客宗邦(東京市本所区太平町1ノ14)