神山政良、山入端つる、貘の左に平良リヱ子

著者の後田多敦氏から『山之口貘 詩と語り』が贈られてきた。中に「貘さんが又吉康和」へ宛てた手紙の一節は興味深い。手紙には『小生まだ碌な仕事も出来ずまことにお恥ずかしい次第ですが、最後まで東京に頑張ります』とある。」 この手紙には「船」の詩原稿が添えられていた。国吉真哲記者によって元旦号の記事になったのはいうまでもない。


山之口貘の又吉康和宛書簡/詩稿
null
1952年1月1日『琉球新報』

新城栄徳「山之口貘、バクの由来」
1911年1月ー『沖縄毎日新聞』獏夢道人(末吉麦門冬)「古手帖」

1913年2月ー『沖縄毎日新聞』獏族(末吉麦門冬)「川柳 車上偶吟ー龍宮の火事鹽焼きの死魚出て/聲聞いて誰やみしへが入みそうれ/寒いのに波上などへ吹かれに出/大和語は唯はいはいと受け流し」

□新城栄徳「國吉眞哲翁から、貘と一緒に末吉麦門冬の家に遊びに行った話を伺ったことがある。玄関から書斎まで本が積んであって、麦門冬が本を広げている上を鶏が糞を垂れ流しながら走りまわっていたのが印象に残っているとの話であった。思うに貘はそのとき麦門冬の旧號・獏を夢を喰う意味での「獏夢道人」をいくぶん意識に植えつけたのではなかろうか。」→1997年8月1日『琉球新報』「貘のいる風景」

大正14年9月ー『沖縄教育』第百四十七号(編集者・又吉康和)□山之口貘詩「まひる」「人生と食後」(編集後記ー山之口氏は今般中央の『抒情詩』に日向スケッチ外三篇入選しました之れより琉球詩人がどしどし中央の詩壇に出現せんことを念じます救世者は政治家でなく、それは詩人と哲人であります。表紙の装幀を本号から改めました題字は山城正忠氏の揮毫、獅子は山口重三郎氏に御願しました茲に両氏に篤く謝意を表して置きます。)→この『沖縄教育』を那覇市歴史博物館に寄贈したのは鹿野政直さんである。

大正15年9月ー『沖縄教育』第百五十六号(編集者・國吉眞哲)□山之口貘短章「彼」(編集後記ー山之口貘君は青年詩人で『彼』は短章ではあるが胸を突くものがある筈である。)null

null
大正15年12月ー『南鵬』第2巻第1号(編集者・又吉康和)□山之口貘詩「莨-ニヒリストへの贈物ー諦らむるものの吐息はけぶるのである/深い深い地の底に吸はれてけぶるのである  うちつづくこの怪しげな平面に直角lで/高い高い 昇天の涯で/ああ 疲れた生命のまうえ/死んだ月の輪にけぶるのである  うちふるふ希望の触手の末梢はしびれ/得体の知れない運命にすっかり瘠せてしまうて/とほくとほく真空をめざしてけぶるもの  それは火葬場を訪ねる賓客の莨です。」、國吉灰雨「風景短章」

1975年7月23日ー『琉球新報』国吉真哲「小説や絵にも筆力ー貘は中学時代は画家になることを志し、大正11年ごろの第一回の上京は日本美術学校に入学のためであった。しかし間もなく家計が左前になり、学費に窮することもしばしばで、いくばくもなく学校をやめ、大正12年の関東大震災を機会に帰郷したようである。家族が離散して後は、学生のもつズックの手提げにスケッチブックと大学ノート2冊、タオルと歯みがき楊子を入れたのが全財産のようであった。(略)絵については、基礎としてのデザインを強調し、物の見方や、対象の把握がなければ、真実を探求することは出来ないという意味のことを話していた。(貘)自画像ははっきり覚えている。赤みがかった茶色を主にし、くすんだ黄土色とだいだい色を使用したもので、よく似ていたが、少しきつかった。」

1986年12月ー『金真弓』沖縄県歌話会□新城栄徳「沖縄近代美術の流れと文学ー山之口貘の全集の年譜を見ると、大正6年8月に若い画家たちら浦崎永錫の主張で『丹青協会』が創設、とある。これは誤りで大正8年9月の『自由絵画展覧会』のことではなかろうか。翌年に『ふたば会第一回展』が開催されている。これらは沖縄近代美術史についてあまり知られてないゆえにそうなったので、先学の研究を下地にアウトラインを述べてみる。」



2012年 沖縄大学地域研究所『地域研究』第9号 後田多敦「小説・・・・・の比喩と歴史像の検討」
 後田多敦氏が別件の序に論文抜刷を贈ってくれた。その一つが『地域研究』に書いたもので、敦氏は論文で同郷の作家を詳細に腑分けしていて、「素材としての史実と創作の間」と副題が付いている。このNHKで放映した・・・・・の原作本を最初にO氏が批判したが、私は電話でO氏に「逆宣伝ですよ」と言ったことがある。次はT氏が新聞投稿で「NHKは尚家を汚らしく下品な内容と同じように天皇家も描けるのか」と甚く立腹。その投稿を見て、近代史家N氏も批判した。

嘗て、姫百合部隊のことを取材し、ヒヨリミ戦記を書いたルポライターが居た。最後には伏字だらけの本になったが。沖縄人は愛国者だったと言わんばかりのマンガ本が若いものに読まれたが今は話題にするのは居ない。現実がそれを上回ってしまっている。紀要やグループ内で批判するのは良いが、新聞・雑誌、ネットで批判すると逆宣伝になり批判した相手は注目度が高まったと喜ぶ。


1938年3月15日発行『日本詩人會會報』下段の左側に山之口貘の名がある。


1999年5月ー講談社文芸文庫『山之口貘詩文集』
□貘ー (略)
     飢えた大きなバクがのっそりあらわれて 
     この世に悪夢があったとばかりに
     原子爆弾をぺろっと食ってしまい
     水素爆弾をぺろっと食ったかとおもうと
     ぱっと地球が明るくなったのだ

□鮪に鰯ー(略)
     地球の上はみんな鮪なのだ
     鮪は原爆を憎み
     水爆にはまた脅かされて
     腹立ちまぎれに現代を生きているのだ
     (略)

null
末吉安久氏(山之口貘記念会初代会長)から國吉眞哲氏(山之口貘記念会2代目会長)宛の手紙