1997年8月、沖縄県公文書館で「岸秋正文庫の世界」展が開かれるにあたって比嘉晴二郎氏に新城栄徳を介して展評を依頼した。沖縄タイムス8月5日に掲載された。

比嘉晴二郎(梯梧の花短歌会会長)「沖縄文献を長年研究ー岸秋正氏と収集品」

 岸秋正という人は、その没後のことし1月、朝子夫人が夫の長い年月をかけて収集した貴重な沖縄関係の古文書を含む文献資料のすべてを沖縄県公文書館へ寄贈して話題になった人である。もっとも自分自身で多少とも沖縄関係の古文書に関心のある人、あるいは図書館、公文書館の職員ならいざ知らず、普通の人は新聞紙上で岸秋正氏を知るくらいであろう。
数ヶ月前に朝子夫人から、秋正氏の遺稿集『わが青春の思い出』という本が贈られてきた。第1章は、わが青春の思い出、陸軍士官学校(予科)を経て、同学校を卒業、終戦までという副題がついている。第2章は、第2の人生ー。この章は朝子さんの筆になるものである。第3章は、研究発表一覧ー。琉球関係古文文書収集の楽しみ(岸秋正)となっており、北斎の「琉球八景について」「琉球の希書について」「続・琉球の希書について」等となって本編には琉球の希書に対する秋正氏の独自の書誌的な研究が載っている。
ここで秋正氏の夫人朝子さんの父・宮城新昌さんのことを書いておきたい。沖縄の農林学校を卒業してアメリカの西海岸の高等園芸学校に入学、カキの養殖を学んだ。西海岸のオリンピアやカナダに養殖場を持ったりしたが、帰国後は、宮城県下で養蠣(れい)業をおこし、アメリカに種カキ輸出の道を開いたり、垂下式養れい法を考案した。岸氏も宮城県で養れい業に従事。昭和27年秋、長男を一夜にして失ったので養れい業を宮城県の人に譲り、岸一家は東京の麹町に移った。それは昭和28年のことだった。
 沖縄の実業家、宮城仁四郎氏は新昌さんのいとこである。仁四郎氏は、灰燼と化した沖縄で、機械製塩、製糖業と生産業を通じて、また、タバコ、パイン、セメント等の製造で沖縄復興に貢献した人である。仁四郎氏の経営する大東糖業株式会社が東京に出張所をつくることになり、秋正氏に責任者になってほしいという話があり、日本橋の小さな事務所を借り、女性一人を入れた二人だけでささやかなスタートであった。
 さて、秋正氏が、沖縄関係の古文書を収集する動機についてふれたい。大東糖業の専務・大嶺薫氏が、ときどき上京し、骨董趣味のある同氏は、岸氏を同道して、骨董商や古書店をよく回ったらしい。これが秋正氏の沖縄関係古文書収集の発端になったようだ。
沖縄県内にも沖縄関係古文書の収集家がいて、秋正氏も多くの知己を得たらしい。故人となった天野鉄夫さん、私もその小さい収集家の一人であった。私も秋正氏と数回会い、私の乏しい蔵書も一回は見てもらったことがあった。秋正氏は軍人上がりだが、会って話した感じでは誠実な感じのする人であった。

1999年5月『琉文手帖』「沖縄近代文化年表」
○附録Ⅰ、わが琉球学の先達たちー岸秋正氏
岸氏の名前を最初に見たのは1977年の「末吉麦門冬の資料提供申し出る」と言う新聞記事であった。1988年4月、東京古書会館の城北展で、根元書房の佐藤善五郎さんに岸氏を紹介してもらった。この時の事を氏は「沖縄から上京中の新城栄徳氏に会いコーヒーをのみながら種々懇談す。新城氏は『琉球の文化』編集にたづさわっていた人で琉球資料をよく調べられており且つ比嘉晴二郎氏や天野鉄夫氏等よく知っておられる方だ」と記しておられる。お会いしたのはこの時が最初で最後、この時に戴いた氏の名刺が今もある。

岸氏は1917年10月、愛知県一宮市で生まれて、1935年一宮中学校を卒業し陸軍士官学校に入学。この頃、東京の山田真山が名古屋に移り住んで、一宮市公園に9メートルの阿弥陀仏や勢至観音、観世音菩薩を制作(岸文庫に1918年刊の山田真山作品図録がある)。岸氏は1941年9月に陸軍砲工学校卒業、12月の香港攻略戦に参加し、その武功が朝日新聞、満州日日新聞、読売報知など全国の新聞で報道され話題となる。1942年、ガダルカナル島攻略戦に参加。

1943年12月に宮城新昌の次女・朝子と結婚。1946年6月、義父宮城新昌の勧めで宮城県萩の浜にて養蛎業を学ぶ。1947年、千葉県五井町にて養蛎業を始める。1955年5月に大東糖業株式会社東京連絡事務所長となり、本社の大嶺薫専務の骨董屋廻りに同道するうちに琉球関係古文献蒐集に興味をもった。1979年8月、神山政良蔵書の沖縄史料編集所への寄贈に立ち会い、9月の『南島史学』に「琉球の稀書について」と題し発表。

岸氏は1995年12月8日に逝去、78歳であった。その膨大なコレクションは、夫人の朝子さんにより沖縄県公文書館に寄贈された。1977年8月に主な文献を展示した特別展「沖縄へのまなざしー岸秋正文庫の世界ー」が開催された。その図録に展示の資料評価・選定の協力者として私の名前も記されている。

神山政良
1926年4月9日ー漢那憲和を囲んで


東京宮良長方邸でー右から上運天令儀、岸本賀昌、伊江朝助、漢那憲和、神山政良、銘苅正太郎、比嘉良篤。上は宮良長方御夫妻

1950年11月 仲井間宗裕・伊佐栄二『沖縄と人物』「神山政良」

神山政良関係資料



関連年表
1886年11月             在京沖縄学生「勇進社」結成。(1888年3月沖縄学生会と改称)
1890年9月              沖縄青年会機関誌『沖縄青年雑誌』創刊
1899年                 照屋宏によって学生の寄宿舎設立が計画される。沖縄青年会仮事務所を尚家に置く。
1909年4月              沖縄青年会20周年記念会を上野精養軒で開催、大隈重信、志賀重昂ら参加。
1909年10月24日        『沖縄毎日新聞』「神山政良氏の文官高等筆記試験及第」
1913年3月              明正塾(在京沖縄青年会寄宿舎)落成式。塾長・東恩納寛惇、書記・伊波興旺。
1913年11月21日        『琉球新報』神山政良「欧大陸旅行」連載。

1915年12月4日 『琉球新報』神山政良 訳「奈翁とホ氏の琉球問答=セントヘレナ島に於ける=」(1)

12月13日 『琉球新報』神山政良 訳「奈翁とホ氏の琉球問答」(9)


1923年8月11日           神山政良、明正塾常任管理委員(~1928年9月)

1931年12月15日        神山政方『蘭谷遺稿』神山政良。
1932年8月12日         球陽会聯盟結成(神山政良中央委員会委員長)、沖縄の文化推進運動、図書館の
                    増設普及。

1946年10月15日          財団法人「沖縄財団」設立。
1954年2月            『沖縄復帰会報』創刊号□神山政良「結成を祝して」、東恩納寛惇「名と実」。
1954年6月               沖縄県学生会『祖国なき沖縄』日月社。

1960年1月『オキナワグラフ』「希望訪問ー学究と友情に生きる/明るくなった南灯寮」

1963年9月15日         『琉球新報』神山政良「琉球新報の創刊70周年祝うー絶えず混乱の世論指導」。
1966年3月            神山政良『年表ー沖縄問題と在京県人の動き』琉球新報社東京総局。
1973年5月15日           財団法人沖縄協会『南援17年のあゆみ』。
1975年5月11日           『八重山ー創立50周年記念・会員名簿』東京・八重山郷友会。
1976年12月             横浜市鶴見沖縄県人会『会員名簿』。
1977年9月            神山政良『沖縄紀行』。
1982年2月              神奈川県沖縄協会・川崎沖縄県人会『川崎の沖縄県人70年の歩み』。
1982年3月              財団法人沖縄協会『関東沖縄出身者名簿』。


1983年
1987年8月              東京沖縄県人会『三十周年記念誌』由井晶子「神山政良初代会長のこと」。
1995年9月              南燈寮草創記編集委員会『南燈寮草創記』。

1999年3月            沖縄県史研究叢書『神山文庫目録』史料編集室。