写真前列左から仲尾次政補、山田實、仲尾次、山田豊、山田有登、その前が山田保、山田昭、山田。後列左が山田實姉の貞子、右が山田實母 1929年10月 山田家の庭で


2013年11月30日13時30分から16時40分 沖縄県立博物館・美術館 講堂「近代琉球の宗教的偉人 仲尾次政隆がのこしたもの」真宗ネットワーク・琉球 
講演・知名定寛「仲尾次政隆」/公演・大工哲弘「仲尾次口説、七月念仏、宮良川節、仲順流れなど」



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講師の神戸女子大学教授・知名定寛氏


2008年5月 知名定寛『琉球仏教史の研究』榕樹書林

写真ー知名定寛氏と榕樹書林・武石和実氏


会場に読谷から彫刻家の金城実氏が来ていた。


金城実「運動としての親鸞」

1924年1月 『沖縄教育』太田朝敷「社会改造の基礎精神ー般若心経の講話中よりー」
○宗教的道徳を初として、社会の総ての伝統的統制力がその権威を失ったこと、唯り我が国ばかりでなく、世界を通じて皆然りである。英国の如きも長い年代を通じてその誇りとした所の所謂紳士道なるものが、今日ではどうやら影が薄くなって来た様である。我が国の武士道にしてもその現れとして見るべきものが、社会の各方面を通じて容易に見出されなくなったのである。今日の世界で伝統的の権威に依って国家社会の秩序を維持し、国民の生活を調整せんとするものは、恰も朽ちたる縄で悍馬を御せんとする様なもので、苟も大勢を達観するの明識あるものは取らない。近来流行の改造とかいう様な標語の如きも、詮じて見れば総ての伝統から脱せんとする切なる要求の叫びに外ならない。
(略)
儘にならぬが浮世とはよく云うがことだが、この浮世が儘にならぬと知りつつ儘にしようとするのが普通の人情である。資本家は資本の力で儘にしよううとするし、労働者は団結の力で儘にしようとするし、政治家は国家の権力で儘にしようとする。儘にするものはいいかも知れないが、儘にされるものは甚だ迷惑である。これでは到る処矛盾撞着が絶えないのも当然である。然るに真智の眼を開いて見た時には、宇宙は円融無碍で、人間が誰でも偏頗なく満足すべき法則が手近かに存在して居る。般若経の帰趣は即ちこの法則の認識にある。般若心経に「五蘊は皆空なりと照見して、一切の苦厄を度す」ということがある。漢訳では僅か十一字に過ぎないが、般若心経の帰趣はこの簡単な語で尽くされて居る。此に五蘊というのは、色、受、想、行、識のことで、色は物質、受想識は心とそのはたらきを謂うたので即ち精神のことである。空とはからっぽという意味ではない。空の十義とて無障礙、周徧、平等、広大、無相、清浄、不動、有空、空々、無碍というような説明もあるが、これは専門的になって六つかしいから、吾々の認識する事物は、精神的にしても、物質的にしても、善いの悪いの或いは美とか醜とかあるものではない、又それに永久の存在がある筈もない、ぎりぎりの所になると清浄である無碍である平等である自由である無辺である。即ち空であるという意味に見て居ればよい。・・・・
(略)
私の話は近頃抹香臭い所が多いから、今度はバタ臭い所を少し加味して見る。米国のロイス教授はその近著『宗教的内観の根源』中に斯く説てある、曰く救いに至る道を求むるに、社会的経験と指導と頼むのは正当の事のように思われる。社会的世界は如何にも矛盾に満ちては居るが、あらゆる機会に吾々の見解を広くするのである。・・・・・