○小説の裏ばなしーあれから十何年もすぎて、昭和十年、新垣美登子さんが、辻遊郭をテーマにして「花園地獄」の題で新聞小説を発表した。佳境に入って人気を博したが、男主人公を除かねば場面の展開が困難になった。美登子さんはその男の病気のことで相談に来たので、有島武郎と三木謙三博士の故智にならって引きうけることにした。まず、飲む、打つ、買うの三拍子の中年をすぎた男を半年位で死なせるには胃癌が適当と思い、診断、治療の舞台を県立病院にした。担任の医師はその一時代前に美青年で独身者として、若い娘達のあこがれの的だった仲地紀晃さんのイメージを浮きほりにした。(略)文章は美登子さんの自由表現で添削はあったが、病院に関する」ことはほとんど敷写しである。レントゲン影像の説明、幽門癌、そして方々にすでに転移が認められることなど。(略)東京の東恩納寛惇先生から新聞社の親泊政博氏に物言いがあった。「女だてらに辻の内面をかくとは汚らわしい。沖縄ではそんな″手合い"を女流作家というのか。」と。

その後、20数年がすぎ、戦後の沖縄を訪れた東恩納先生は、いとこに当たる新嘉喜家に滞在して、大勢の知人との久闊を喜び語っていた。そこへ美登子さんは女子大時代の保証人であった関係で挨拶に行った。″手合い"といわれた記憶もこの人には何のその、いっこうに通じなかったらしく、又先生も喜んで、明日「伊野波の石くびり」を訪ねるから連れて行くとおっしゃった。当日は親泊さんが車を提供して前にのり、弁当は料亭那覇のマダムが持参して後座席に先生を中心に二人の初老の女がのった。沿道では謝敷板千瀬とか、北谷の何とか、いろんな古歌の説明があり、時々感動して肩に手をかけたりした。いよいよ、  伊野波の石くびれ無蔵連りて昇るにやへも石くびれ遠さはあらな(読人しらず)の現場に着き、昇る時には二人の初老女を抱えるようにして昇った。


「伊野波の石くびり」の伝説取材で、後ろ右から金城清松、池宮喜輝、前右から上江洲文子、寛惇、新垣美登子



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松乃下で芳名録に記帳した東恩納寛惇(真喜志康徳所蔵)
○1978年5月「東恩納寛惇全集付報1」千原繁子「巷の細路にしてー私が東恩納先生を知らない時期の話に、多分大正3年頃のことであろう。久しぶりの帰省に友人が歓迎会を催した。ちょうど麻布で開業していた銘苅医師と二人の合同であった。会員が集まったので代表が迎えに行った。そこは西町の屋嘉家で、夫人の生家である。人力車に乗る段になって、「会場は」前のモウの三杉です」「辻じゃないか」といって出席することをにべもなく断った。これは屋嘉のお母さんに直接聞いた話である。主催者こそいい面の皮だったろう。こんな石部金吉は沖縄では通用しない。ずっと後になっての話であるが、辻での放談に「那覇であの世代で、結婚まで童貞だったと信じられるのは、東恩納のモーサーチー(童名)と、○○のケーケー(精薄)」といったとか。それを後輩のあけすけの男が、先生夫妻にしゃべってしまった。夫妻は腹を抱えて笑ったそうである。そしてその男を清涼飲料と名づけてある、と夫妻から直接聞いた。

(略)二女和代さん夫妻と同居して居られたが、和代さんの便りによれば、毎晩ビールを飲むので困る、注意すると山原の人のやっている飲み屋に行くようだとのこと、胸つぶれる思いがした。やっと1958年に後輩の乞いに応え帰郷の運びとなり、飛行場に降りると、故郷の土は残っているといって土に口づけしたい思いだったといわれた。宿舎は親戚の新嘉喜家で、入れかわり立ちかわりの訪問客、それに講演会と、寸暇もない有様だった。2時間の講演に一片のメモも持たずに、淀みなく年代までもすらすらと、音声のくずれもなく、知識に飢えていた聴衆は水を打ったようだった。私もこんな会は始めてであった。和代さんから、飲み過ぎを注意してくれと前もって頼みがあったので、夕食会で注意して見ていたら、ビール7本になってやっと帰る途中、「50年間も僕はひたすら打ち込んだよ。余生は少しくらい緩んでもいいんじゃないかな」と仰ったときは、涙がにじんだ。先生は数えの78歳であった。