02/12: 2014年5月20日~6月22日 沖縄県立博物館・美術館「麗しき琉球の記憶ー鎌倉芳太郎が発見した“美”」」①
昨年暮れ、沖縄県立博物館・美術館指定管理者の「文化の杜共同企業体」から今年5月に開催される企画展「麗しき琉球の記憶ー鎌倉芳太郎が発見した“美”」の図録に末吉麦門冬と鎌倉芳太郎についての原稿依頼があった。奇しくも今年11月25日は末吉麦門冬の没後90年で、展覧会場の沖縄県立博物館・美術館に隣接する公園北端はかつて末吉家の墓があった場所である。加えて、文化の杜には麦門冬曾孫の萌子さんも居る。私は2007年の沖縄県立美術館開館記念展図録『沖縄文化の軌跡』「麦門冬の果たした役割」の中で「琉球美術史に先鞭をつけたのは麦門冬・末吉安恭で、その手解きを受けた一人が美術史家・比嘉朝健である。安恭は1913年、『沖縄毎日新聞』に朝鮮小説「龍宮の宴」や支那小説「寒徹骨」などを立て続けに連載した。そして15年、『琉球新報』に『吾々の祖先が文字に暗い上に筆不精(略)流石は朝鮮で支那に次ぐ文字の国ではある』と朝鮮の古書『龍飛御天歌』『稗官雑記』などを引用し、『朝鮮史に見えたる古琉球』を連載した。
画家の名は音楽のように囁くー末吉麦門冬
安恭の琉球風俗にふれた随筆は1915年の『琉球新報』「薫風を浴びて」が最初であるが、美術評論を試みたのは1912年である。第6回文展に入選した山口瑞雨作「琉球藩王」を見た安恭は『沖縄毎日新聞』で「王の顔に見えた表情は無意味であり無意義である。冠がどうのといっては故実家の後塵を拝するに過ぎない。作者が琉球と目ざす以上はもっと深く強く琉球人の歴史、民情、個性を研究してから筆を執らねばならなかった」と酷評。しかし長嶺華国に対しては「翁の存在は私に希望と自信と栄誉とを載せしむるに充分である」と理屈抜きで讃美している。1983年1月、鎌倉の畢生の著『沖縄文化の遺宝』(岩波書店)が第10回伊波普猷賞を受賞したとき、鎌倉は談話として「沖縄美術や沖縄文化の手解きを私にしてくれた偉大な文化人、末吉安恭氏にふれたい。末吉氏に出会わなかったら、この本は世に出なかったかもしれません」と述べている。
麦門冬を一言で説明すると、鎌倉芳太郎(人間国宝)が『沖縄文化の遺宝』の中で「末吉は俳諧を能くして麦門冬と号し、学究的ではあったがその資質は芸術家で、特に造形芸術には深い関心を持ち、琉球文化の研究者」であると述べたことに尽きる。鎌倉は続けて麦門冬の分厚い手の感触を懐いながら「この(琉球美術史)研究のための恩人」と強調しているように、鎌倉は『沖縄文化の遺宝』の殷元良のところで鎌倉ノートには記されてないが次のように補足、「末吉は更に加えて、孫億、殷元良の如き画の傾向は、此の時代において、東洋絵画として、南中国閩派琉球絵画の独自の伝統として、大いに尊重すべきであるのに、深元等がこれを軽んじているのは、一つには尊大なる薩摩人の性格からであり、一つには徳川幕府の御用絵師狩野の流派を守る者として、その画風や主義の相違から来ている、例えば雲谷派の簫白が写生派の応挙を評するに似ている、という。末吉も探元の酷評に腹の虫がおさまらなかったようである。」と、麦門冬の芸術家としての側面を表している。
1911年7月27日『沖縄毎日新聞』麦門冬「忘られぬ華國會」
華國翁は本県が琉球王国であった時代に生んだ最後の丹青家の一人である。即ち琉球王国が生んだ画家の一番末の子である、そして日本帝国の一部たる沖縄県が旧琉球から引継に譲り渡された一の誇りたるべき美術家の一人である。これだけでも私は華國會に臨んで私に希望と自信とを感せしむるに充分であるが、その上に私は華國翁と同じ字に生まれ幼年時代から其顔を知っていて華國翁というえらい画家は私の頭に古い印象を留めていると云ふ関係もあるから今度の華國會の席上に於いて私の肩身に猶更に広くならざるを得ない。私は南香主筆から今日華國會が若狭町の山城(正忠)医院で開かれるそうだから君行って見ないかと云はれた時にも私は疾うに行くと云ふことを極めてる様な気分で社を出てた。(略)私は小さい時から絵が大好きであった、探幽①とか雪舟②とか趙子昂③とか自了とか云ふ名は私の耳には音楽のような囁きとなりそれからこれ等の名家に対する憧憬の念は私の頭に生長して段々大きく拡がっていって私自身が遂に雪舟になりたい探幽になりたいと云ふような空想をなした時代もあったがそれはすぐに或事情の為に打ち消されてしまったがそれでも猶私にはこれ等の名家の残した作物に対する憧憬崇重の念はやまない。何とかしてこれ等の名画を私の手に入れて、私がそれと日夕親しまれるようになって見たいと思ったこともある。今でもやっぱり思っている。・・・
麦門冬が、私は華国翁と同じ字というのは首里は儀保村のことである。1960年10月の『琉球新報』に中山朝臣が「麦門冬作の『儀保の大道や今見れば小道、かんし綱引きゃめ儀保の二才達』を紹介。儀保は平地に恵まれ『儀保大道』は首里三平でも自他共に認められた大通りであった。この村の二才達(青年達)は総じて磊落、飲み、食い、歌い、踊り傍若無人の振舞で鳴らしたものである。したがって儀保村の綱引きは道路と二才達の心意気に恵まれて荒っぽい綱として有名だったという」。朝臣は11月にも麦門冬が那覇泉崎で愛妻を失って『無蔵や先立てて一人この五界に、酒と楽しみることの恨めしや』も紹介している。
①狩野探幽 【かのう・たんゆう】
生年: 慶長7.1.14 (1602.3.7) 没年: 延宝2.10.7 (1674.11.4)
江戸前期の画家。狩野孝信の長男として山城国(京都府)に生まれる。名を采女,のち守信という。探幽斎,生明,白蓮子と号した。慶長10(1605)年,4歳のとき自ら筆をとって描くところ習熟者のようであったという。16年春「山野胡馬図」を描き江月宗玩に賛を求めた。翌年駿府(静岡県)に赴き徳川家康に謁し,その後江戸へ出て徳川秀忠に謁した。19年将軍秀忠の御前にて揮毫し,祖父永徳の再来と称賛された。元和3(1617)年江戸へ召され幕府御用絵師となる。 同5年,女御御対面所三之間障壁に描く。7年,鍛冶橋門外に1033坪の屋敷を拝領する。9年,弟安信に狩野宗家を譲る。寛永3(1626)年二条城障壁画(現存)制作を指揮し完成する。4年大坂城障壁画制作を終える。9年徳川秀忠霊廟の画事をなす。10年8月名古屋城本丸障壁画(現存)制作を命ぜられる。現在伝わる作品は江戸狩野様式の確立を伝えるものとして重要。12年,江月宗玩より探幽斎の号を授かり,弟子益信を養子に迎え采女の名を与える。15年12月29日法眼に叙される。17年「東照宮縁起絵巻」(日光東照宮蔵)を奉納する。18年大徳寺本坊方丈障壁画(現存)を制作。これは探幽の水墨障壁画のあらゆるパターンがみられる貴重な遺品である。正保4(1647)年,江戸城障壁画を制作。慶安3(1650)年,加賀支藩大聖寺藩主前田利治の江戸屋敷に,俵屋宗雪と共に「金碧草花図」を描く。明暦2(1656)年の大火で探幽の家も焼失する。寛文2(1662)年5月29日,画家として最高位の法印に叙される。4年後水尾法皇寿像の制作に携わり,法皇より「筆峯大居士」の印を拝領する。この年,月俸をかえて河内国に采地200石を賜る。10年中風を病み,翌年本復したが,数年後に江戸で没した。墓は池上本門寺にある。江戸狩野派様式を創始した功績は大きく,近年探幽の遺した膨大な縮図が古画研究の視点から再評価されている。またやまと絵学習による探幽の新様式も従来の探幽の水墨様式に加え再評価されつつある。<参考文献>武田恒夫『日本美術絵画全集』15巻,河野元昭『日本の美術』194巻(至文堂) 。(コトバンク)
②せっしゅう【雪舟】 1420‐1506ころ(応永27‐永正3ころ)
室町時代の画僧。日本中世における水墨画の大成者。備中に生まれる。一説に赤浜(総社市)の人で小田氏の出身という。少年期に上京,相国寺に入り,春林周藤に仕え等楊の諱(いみな)をもらい,画事を周文に習った。30歳代まで相国寺で修業,僧位は知客(しか)であったが,この間の作品は伝わらず,一部は周文筆と伝承される掛幅の中に混入している可能性もある。周文流詩画軸の伝統の中で,繊細な余情趣味の山水画風を学びとったが,一方,その観念化と矮小化に抗して,より本格的に南宋院体画の構成筆意を求め,より強固な筆致を身につけたのが前半生の立場と思われる。(コトバンク)
③ちょうもうふ【趙孟頫 Zhào Mèng fǔ】 1254‐1322
中国,宋末元初の政治家,書画家。字は子昂(すごう)。松雪道人,鷗波道人,水晶宮道人と号し,趙文敏,趙呉興,趙栄禄などとも呼ばれる。呉興(浙江省)の人。南宋の孝宗の実父趙子偁(ちようししよう)の5代の孫にあたる。父は趙与訔(ちようよぎん)。宋末・元初の書画人として有名な趙孟堅とは従兄弟の間柄になる。初め宋に仕えて地方官になったが,宋の滅亡後は家郷で閑居した。1286年(至元23),元の世祖フビライに召されて大都(いまの北京)に行き,翌年奉訓大夫,兵部郎中に任ぜられた。(コトバンク)
末吉麥門冬「儀保の大道や今見れば小道 かんし綱引きゃめ儀保の二才達」
1983年11月6日『琉球新報』(落ち穂)新城栄徳「俳人・麦門冬」
麦門冬とは1965年秋に、日比谷図書館で、乾元社版『南方熊楠全集』によって以来の付き合いである。南方熊楠は毒舌家・大宅壮一によると「彼(熊楠)の交友関係は職人とか商人とかに限られていて、知識人は決して近づけなかった。外来者でも、知事とか皇族とかいうのには喜んで会った。その場合には、数日間書庫にこもって出てこ来なかった。質問されそうなことを下調べをしたらしい。したがって、何を質問するか見当のつかぬ私のようなものには、決して会わぬということだった。(略)そしてその才能そのものも、異常で、畸形的だったようだ。現に彼の長男も当時精神病院に入っていた」と、乱暴に紹介している。
その気難しい南方熊楠と文通で親交があった末吉麦門冬はジャーナリストで俳人。島袋盛敏によれば「山寺の和尚といった風格があり、名利の欲に恬淡なる人」と評している。以前、浦崎夢二郎さんに書いてもらった麦門冬作の歌に「雨の日や高枕かきてなかま節」とあり、また鎌倉芳太郎氏には麦門冬の思い出を聞いた「あの人は実にいい人でしたよ。沖縄の誰もが(麦門冬の研究を)やらないので、私が今度の本で紹介したんですよ」と話す。帰りに氏の色紙「やははだのあごの足かたしのばるるまさきくあれるつつぎゆくあご」をいただいた。
名古屋の佐渡山安治さんからは麦門冬の写真を1枚頂戴したが現在では7枚確認した。佐渡山さんの母は麦門冬の妹である。最近、麦門冬の娘・石垣初枝さんから家族の紹介があった。それによれば麦門冬の妻ママツの父は名護朝直(大正10年ごろ沖縄タイムスの琉歌の選者)、麦門冬の長男・安慶(首里附属小学校4年で死去、童名サンデー)、長女(生後まもなく死去)、次女・初枝、3女・君子、4女・信子(8歳で死去)、5女・貞子となっている。
鎌倉芳太郎氏から頂いた『中野区報』と短冊(色紙の歌をひらがなで書いてくれた)
画家の名は音楽のように囁くー末吉麦門冬
安恭の琉球風俗にふれた随筆は1915年の『琉球新報』「薫風を浴びて」が最初であるが、美術評論を試みたのは1912年である。第6回文展に入選した山口瑞雨作「琉球藩王」を見た安恭は『沖縄毎日新聞』で「王の顔に見えた表情は無意味であり無意義である。冠がどうのといっては故実家の後塵を拝するに過ぎない。作者が琉球と目ざす以上はもっと深く強く琉球人の歴史、民情、個性を研究してから筆を執らねばならなかった」と酷評。しかし長嶺華国に対しては「翁の存在は私に希望と自信と栄誉とを載せしむるに充分である」と理屈抜きで讃美している。1983年1月、鎌倉の畢生の著『沖縄文化の遺宝』(岩波書店)が第10回伊波普猷賞を受賞したとき、鎌倉は談話として「沖縄美術や沖縄文化の手解きを私にしてくれた偉大な文化人、末吉安恭氏にふれたい。末吉氏に出会わなかったら、この本は世に出なかったかもしれません」と述べている。
麦門冬を一言で説明すると、鎌倉芳太郎(人間国宝)が『沖縄文化の遺宝』の中で「末吉は俳諧を能くして麦門冬と号し、学究的ではあったがその資質は芸術家で、特に造形芸術には深い関心を持ち、琉球文化の研究者」であると述べたことに尽きる。鎌倉は続けて麦門冬の分厚い手の感触を懐いながら「この(琉球美術史)研究のための恩人」と強調しているように、鎌倉は『沖縄文化の遺宝』の殷元良のところで鎌倉ノートには記されてないが次のように補足、「末吉は更に加えて、孫億、殷元良の如き画の傾向は、此の時代において、東洋絵画として、南中国閩派琉球絵画の独自の伝統として、大いに尊重すべきであるのに、深元等がこれを軽んじているのは、一つには尊大なる薩摩人の性格からであり、一つには徳川幕府の御用絵師狩野の流派を守る者として、その画風や主義の相違から来ている、例えば雲谷派の簫白が写生派の応挙を評するに似ている、という。末吉も探元の酷評に腹の虫がおさまらなかったようである。」と、麦門冬の芸術家としての側面を表している。
1911年7月27日『沖縄毎日新聞』麦門冬「忘られぬ華國會」
華國翁は本県が琉球王国であった時代に生んだ最後の丹青家の一人である。即ち琉球王国が生んだ画家の一番末の子である、そして日本帝国の一部たる沖縄県が旧琉球から引継に譲り渡された一の誇りたるべき美術家の一人である。これだけでも私は華國會に臨んで私に希望と自信とを感せしむるに充分であるが、その上に私は華國翁と同じ字に生まれ幼年時代から其顔を知っていて華國翁というえらい画家は私の頭に古い印象を留めていると云ふ関係もあるから今度の華國會の席上に於いて私の肩身に猶更に広くならざるを得ない。私は南香主筆から今日華國會が若狭町の山城(正忠)医院で開かれるそうだから君行って見ないかと云はれた時にも私は疾うに行くと云ふことを極めてる様な気分で社を出てた。(略)私は小さい時から絵が大好きであった、探幽①とか雪舟②とか趙子昂③とか自了とか云ふ名は私の耳には音楽のような囁きとなりそれからこれ等の名家に対する憧憬の念は私の頭に生長して段々大きく拡がっていって私自身が遂に雪舟になりたい探幽になりたいと云ふような空想をなした時代もあったがそれはすぐに或事情の為に打ち消されてしまったがそれでも猶私にはこれ等の名家の残した作物に対する憧憬崇重の念はやまない。何とかしてこれ等の名画を私の手に入れて、私がそれと日夕親しまれるようになって見たいと思ったこともある。今でもやっぱり思っている。・・・
麦門冬が、私は華国翁と同じ字というのは首里は儀保村のことである。1960年10月の『琉球新報』に中山朝臣が「麦門冬作の『儀保の大道や今見れば小道、かんし綱引きゃめ儀保の二才達』を紹介。儀保は平地に恵まれ『儀保大道』は首里三平でも自他共に認められた大通りであった。この村の二才達(青年達)は総じて磊落、飲み、食い、歌い、踊り傍若無人の振舞で鳴らしたものである。したがって儀保村の綱引きは道路と二才達の心意気に恵まれて荒っぽい綱として有名だったという」。朝臣は11月にも麦門冬が那覇泉崎で愛妻を失って『無蔵や先立てて一人この五界に、酒と楽しみることの恨めしや』も紹介している。
①狩野探幽 【かのう・たんゆう】
生年: 慶長7.1.14 (1602.3.7) 没年: 延宝2.10.7 (1674.11.4)
江戸前期の画家。狩野孝信の長男として山城国(京都府)に生まれる。名を采女,のち守信という。探幽斎,生明,白蓮子と号した。慶長10(1605)年,4歳のとき自ら筆をとって描くところ習熟者のようであったという。16年春「山野胡馬図」を描き江月宗玩に賛を求めた。翌年駿府(静岡県)に赴き徳川家康に謁し,その後江戸へ出て徳川秀忠に謁した。19年将軍秀忠の御前にて揮毫し,祖父永徳の再来と称賛された。元和3(1617)年江戸へ召され幕府御用絵師となる。 同5年,女御御対面所三之間障壁に描く。7年,鍛冶橋門外に1033坪の屋敷を拝領する。9年,弟安信に狩野宗家を譲る。寛永3(1626)年二条城障壁画(現存)制作を指揮し完成する。4年大坂城障壁画制作を終える。9年徳川秀忠霊廟の画事をなす。10年8月名古屋城本丸障壁画(現存)制作を命ぜられる。現在伝わる作品は江戸狩野様式の確立を伝えるものとして重要。12年,江月宗玩より探幽斎の号を授かり,弟子益信を養子に迎え采女の名を与える。15年12月29日法眼に叙される。17年「東照宮縁起絵巻」(日光東照宮蔵)を奉納する。18年大徳寺本坊方丈障壁画(現存)を制作。これは探幽の水墨障壁画のあらゆるパターンがみられる貴重な遺品である。正保4(1647)年,江戸城障壁画を制作。慶安3(1650)年,加賀支藩大聖寺藩主前田利治の江戸屋敷に,俵屋宗雪と共に「金碧草花図」を描く。明暦2(1656)年の大火で探幽の家も焼失する。寛文2(1662)年5月29日,画家として最高位の法印に叙される。4年後水尾法皇寿像の制作に携わり,法皇より「筆峯大居士」の印を拝領する。この年,月俸をかえて河内国に采地200石を賜る。10年中風を病み,翌年本復したが,数年後に江戸で没した。墓は池上本門寺にある。江戸狩野派様式を創始した功績は大きく,近年探幽の遺した膨大な縮図が古画研究の視点から再評価されている。またやまと絵学習による探幽の新様式も従来の探幽の水墨様式に加え再評価されつつある。<参考文献>武田恒夫『日本美術絵画全集』15巻,河野元昭『日本の美術』194巻(至文堂) 。(コトバンク)
②せっしゅう【雪舟】 1420‐1506ころ(応永27‐永正3ころ)
室町時代の画僧。日本中世における水墨画の大成者。備中に生まれる。一説に赤浜(総社市)の人で小田氏の出身という。少年期に上京,相国寺に入り,春林周藤に仕え等楊の諱(いみな)をもらい,画事を周文に習った。30歳代まで相国寺で修業,僧位は知客(しか)であったが,この間の作品は伝わらず,一部は周文筆と伝承される掛幅の中に混入している可能性もある。周文流詩画軸の伝統の中で,繊細な余情趣味の山水画風を学びとったが,一方,その観念化と矮小化に抗して,より本格的に南宋院体画の構成筆意を求め,より強固な筆致を身につけたのが前半生の立場と思われる。(コトバンク)
③ちょうもうふ【趙孟頫 Zhào Mèng fǔ】 1254‐1322
中国,宋末元初の政治家,書画家。字は子昂(すごう)。松雪道人,鷗波道人,水晶宮道人と号し,趙文敏,趙呉興,趙栄禄などとも呼ばれる。呉興(浙江省)の人。南宋の孝宗の実父趙子偁(ちようししよう)の5代の孫にあたる。父は趙与訔(ちようよぎん)。宋末・元初の書画人として有名な趙孟堅とは従兄弟の間柄になる。初め宋に仕えて地方官になったが,宋の滅亡後は家郷で閑居した。1286年(至元23),元の世祖フビライに召されて大都(いまの北京)に行き,翌年奉訓大夫,兵部郎中に任ぜられた。(コトバンク)
末吉麥門冬「儀保の大道や今見れば小道 かんし綱引きゃめ儀保の二才達」
1983年11月6日『琉球新報』(落ち穂)新城栄徳「俳人・麦門冬」
麦門冬とは1965年秋に、日比谷図書館で、乾元社版『南方熊楠全集』によって以来の付き合いである。南方熊楠は毒舌家・大宅壮一によると「彼(熊楠)の交友関係は職人とか商人とかに限られていて、知識人は決して近づけなかった。外来者でも、知事とか皇族とかいうのには喜んで会った。その場合には、数日間書庫にこもって出てこ来なかった。質問されそうなことを下調べをしたらしい。したがって、何を質問するか見当のつかぬ私のようなものには、決して会わぬということだった。(略)そしてその才能そのものも、異常で、畸形的だったようだ。現に彼の長男も当時精神病院に入っていた」と、乱暴に紹介している。
その気難しい南方熊楠と文通で親交があった末吉麦門冬はジャーナリストで俳人。島袋盛敏によれば「山寺の和尚といった風格があり、名利の欲に恬淡なる人」と評している。以前、浦崎夢二郎さんに書いてもらった麦門冬作の歌に「雨の日や高枕かきてなかま節」とあり、また鎌倉芳太郎氏には麦門冬の思い出を聞いた「あの人は実にいい人でしたよ。沖縄の誰もが(麦門冬の研究を)やらないので、私が今度の本で紹介したんですよ」と話す。帰りに氏の色紙「やははだのあごの足かたしのばるるまさきくあれるつつぎゆくあご」をいただいた。
名古屋の佐渡山安治さんからは麦門冬の写真を1枚頂戴したが現在では7枚確認した。佐渡山さんの母は麦門冬の妹である。最近、麦門冬の娘・石垣初枝さんから家族の紹介があった。それによれば麦門冬の妻ママツの父は名護朝直(大正10年ごろ沖縄タイムスの琉歌の選者)、麦門冬の長男・安慶(首里附属小学校4年で死去、童名サンデー)、長女(生後まもなく死去)、次女・初枝、3女・君子、4女・信子(8歳で死去)、5女・貞子となっている。
鎌倉芳太郎氏から頂いた『中野区報』と短冊(色紙の歌をひらがなで書いてくれた)