1945年8月、国吉真哲・宮里栄輝・源武雄が早く帰還できるよう「県人会」結成を相談。宮里栄輝、熊本沖縄県人会長になる。/女子挺身隊救済で尼崎沖縄県人会結成。
      9月、松本三益が比嘉春潮を訪ね、伊波普猷を代表に推し「沖縄人連盟」結成を相談。
      11月11日、沖縄人連盟創立総会。総務委員・伊波普猷(代表)、大浜信泉、比屋根安定、比嘉春潮、永丘智太郎
      11月26日、関西沖縄人連盟創立大会。代表・豊川忠進、兼島景毅、井之口政雄  参加・良元村(のち宝塚)、神崎川、城東、泉州、堺、和歌山の県人会
      11月、九州沖縄県人連合会結成。大分、熊本、宮崎、鹿児島の沖縄県人会が参加。会長・真栄城守行     
      12月6日、沖縄人連盟機関紙『自由沖縄』第一号(比嘉春潮)
1946年1月26日、中央大学講堂で沖縄学生会発足、会長・山川武正、評議員・上地栄、神村朝堅、金城和彦
      1月28日、関西沖縄人連盟大会(尼崎難波自由市場内)徳田球一を招く。
      2月24日、日本共産党第五回党大会「沖縄民族の独立を祝うメッセージ」
      3月、『関西沖縄新報』創刊
      4月1日、沖縄人連盟(沖縄大島人連盟)関西本部結成大会。会長・幸地長堅 副会長・翁長良孝、大江三子雄、大山朝繁、宮城      清市、屋良朝陳
      4月、関西沖縄青年同盟結成大会。委員長・大湾宗英  顧問格・高安重正  執行部・屋良朝光、山田義信、高良武勇
      8月4日、沖縄人連盟兵庫県本部結成大会。会長・大山朝繁  副会長・赤嶺嘉栄①、安里嗣福、大城清蓮  書記長・上江洲久
①空手家・赤嶺嘉栄
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写真ー前列左から友寄英彦実行委員長、平良良松那覇市長、比嘉佑直保存会長。後列左から備瀬政太郎経民部長、前田武行助役、稲嶺成珍助役、赤嶺嘉栄審判長。→2001年12月 『那覇大綱挽』那覇大綱挽保存会

空手の人物事典や上地流の本を見ると赤嶺嘉栄が出てくる。沖縄人連盟史関連にも名前が出てくる。その沖縄人連盟では赤嶺が中心となりヤクザ鴻池組系井上組に抗議している。また又吉世喜(1975年)や喜舎場朝信(1977年)の葬儀に、宮城嗣吉と共に友人代表のひとりに名をつらねている。また赤嶺の葬儀のとき友人代表のひとりとして東京の万年東一の名がある。万年は横井英樹銃撃事件で知られる安藤昇の親分である。
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写真ー赤嶺嘉栄
万年東一の名刺/安藤組組織図、上の方に万年東一の名がある。

1947年2月、大阪で「沖縄青年同盟」結成大会(全国組織)。中央執行委員長・仲宗根仙三郎、副委員長・大田直治(関東)、宮城春潮(中京)、宮城清市(関西)、山城善貞(兵庫)、具志清雲(九州)、顧問・高安重正
1947年3月、沖縄学生会、沖縄人連盟から離脱して沖縄学生同盟に改称
1947年8月15日、沖縄人連盟総本部部長会議で沖縄文化協会設置を決定、会長格・宮良當壮
1947年11月、沖縄青年同盟準機関紙『沖縄タイムズ』創刊。


1947年12月、駒場の日本民芸館で「沖縄民藝展覧会」、沖縄文化協会「沖縄文化記念講演会」
1947年12月に柳宗悦氏がその駒場の民芸館で沖縄民芸展覧会を開催した時、宮良氏に連絡があって沖縄文化記念講演会を一緒に開くこととなり、「沖縄語と日本語の関係」(宮良当壮)、「沖縄の歴史と文化」(東恩納寛惇)の講演があった。この時柳氏から文化協会の講演会を定期的開く提唱があり、その斡旋を宮良氏がすることになった。1948年の4月から毎日第一土曜日に民芸館で講演会を開いた。9月、沖縄連盟から離れて独自の沖縄文化協会に改組。比嘉春潮、仲原善忠、島袋源七、金城朝永、宮良当壮の5人が運営委員となり、仮事務所を比嘉春潮の所に置いて発足した。

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この新しい沖縄文化協会が出来ると私(比嘉春潮)は自ら進んで、会報『沖縄文化』の編集、印刷、頒布を引受け、その第一号を1948年11月1日に出した。『沖縄文化』はタブロイド半截判4頁、誌名に「沖縄文化協会会報」の肩書を加え、毎月1日発行とした。内容は会の主張・研究ものに文化ニュース(又は文化だより)等を載せた。→沖縄文化協会『沖縄文化叢論』(法政大学出版局1970年5月)

沖縄文化協会の人びとー右から仲原善忠、伊波南哲、比嘉春潮、宮良当荘、金城朝永、志多伯克進、東恩納寛惇、神村朝堅、柳悦孝


1948年1月21日 沖縄青年同盟準機関紙『沖縄タイムズ』第二号




1948年3月15日『沖縄タイムズ』第3号

1950年4月 『おきなわ』創刊□巻頭言ー1950年 この新しい年を迎へて、我々沖縄の者は、講和条約に対する希望の光を期待し、昨年までの宙ブラリンの気持ちを一掃出来ると予想したのであったが、近頃は又、国際情勢が微妙複雑に変化しつつあるように見受けられる、夢の中の物の形の様に、形をなすが如くしてなさず手に取れるようで届かないのが講和条約であり、沖縄の帰属問題であらう。まことに、悲喜交々到るの態であるが、所謂『二つの世界』②の醸出す空気が決めることであり、我々は、沖縄の人間は、能の無い話であるが、その時が来るまで待つの外仕方の無い事であらう、『その時』が来るまで我々沖縄人は充分に智識を蓄へ、心を澄まして待つ可きであらうし、その間に、歴史をふり返り新しい沖縄の立上りに備へ、心を戦前の豊かさに立戻らせるなど、感情の整理、感覚の研磨を完了して晴れの日を待つ準備が必要であらう、私達のこのささやかな小誌が、これ等の心の立直りに幾分でも役立つことが出来れば幸である。希くば私達の微力に、諸賢の鞭撻と教示を加へて下さらん事を祈ります。これが私達の小さな野心、大きなのぞみである。

②第二次世界大戦後の世界を二分した、アメリカ合衆国を盟主とする資本主義・自由主義陣営と、ソビエト連邦を盟主とする共産主義・社会主義陣営との対立構造は「冷戦」という。1945年から1989年までの44年間続き、アメリカ合衆国とソビエト連邦が軍事力で直接戦う戦争は起こらなかったので、軍事力で直接戦う「熱戦」「熱い戦争」に対して、「冷戦」「冷たい戦争」と呼ばれた。



1952年9月 『おきなわ』第31号○おきなわ社ー東京都中央区銀座西2-3に変わり、発行人に中田匤彦(第一物商株式会社社長で、女優の大空真弓の父)。神村朝堅は編集人

中田匤彦(大空真弓の父)ー『おきなわ』第39号から第41号まで森英夫(遠藤朝英)が伝記を書いている。

『青い海』2号に紹介された遠藤朝英・医学博士


1966年 沖縄タイムス社『現代沖縄人物3千人』

大空真弓 おおぞら-まゆみ
1940- 昭和後期-平成時代の女優。
昭和15年3月10日生まれ。昭和33年新東宝に入社,「坊ちゃん天国」でデビュー。その後東宝の「駅前」シリーズなどに出演。39年テレビドラマ「愛と死をみつめて」が大ヒットし茶の間の人気者となる。舞台では「黒蜥蜴(くろとかげ)」などに出演。東京出身。東洋音楽高(現東京音大付属高)卒。本名は中田佐智子。


『オキナワグラフ』1960年1月号の表紙を飾った大空真弓/同号に「僕は特派員」に新川明、石野朝季、島袋俊一らが登場する。



1954年11月 仲地吉雄『憂愁の郷土沖縄を想う』おきなわ社
1955年12月1日ー沖縄市町村長会『地方自治七周年記念誌』□印刷・琉球新報社 □デザイン安谷屋正義 □編集ー比嘉春潮、伊豆味元一、神村朝堅

1956年7月  宮城鉄夫顕彰会編『宮城鉄夫』おきなわ社
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平成13年10月 『顕彰記念誌 宮城鐵夫先生』同顕彰記念事業期成会(BOOKSじのん在庫)


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1956年8月ー『琉球民謡集』おきなわ社(神村朝堅)

1956年8月 島袋盛敏『琉球芸能全集1 琉球の民謡と舞踊』おきなわ社(中田匡彦)□琉球芸能全集編集委員ー比嘉春潮、島袋盛敏、山内盛彬、伊波南哲、山之口貘、高嶺朝盛、神村朝堅





1956年11月 島袋全発遺稿刊行会編『島袋全発著作集』おきなわ社

1957年12月 大里康永『謝花昇伝 沖縄自由民権運動の記録』おきなわ社

1957年12月 太田朝敷『沖縄県政五十年』おきなわ社
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1974年7月31日『琉球新報』津野創一(月刊「青い海」編集人)「おち穂ー雑誌二題」
○ぼくの、風変わりな友人の一人である新城栄徳君が、例によってひょっこりやってきて「これ、あげます」と言って、一冊の雑誌を置いてひょう然と帰って行った。ザラ紙の、30ペ-ジほどの冊子「おきなわ」創刊号である。昭和25年4月の発行だから、24年ほども前の、紙の事情もまだわるいころのものだ。発行所が東京になっていて、広告が、当時の在京県人の経済活動を問わず語りに語る。
巻頭言には、講和前の沖縄の帰属問題を憂う在京県人の気持ちをうつして「その時が、来るまで、県人の心の立ち直りに資する」ために発行した、とはっこうの趣旨がうたってある。その時は、翌年9月にやってきて、対日平和条約は沖縄を日本から切り離すことを明文化して調印された。残念ながら、その時の周辺の「おきなわ」は手元にない。しかし、おそらくは在京県人を中心として、郷土沖縄をうれう声が全ページに盛られているだろう、と想像する。
数日後、再びひょっこりやってきた新城君は、「おきなわ」が30号ほど続いたこと、したがって「青い海」が沖縄の月刊誌としてやっとのことで最長不倒記録?をつくったことを伝えて、ひょう然と帰っていった。ぼくたちが、ささやかな月刊雑誌の発行を思いたったのが70年の暮れだった。以来、いくつかの危機と分裂と業務不振などの曲折を経て、いま沖縄の郷土月刊誌「青い海」は8月号で35号を数える。「その時」にそなえたものではなかったが、復帰というその時を境に、編集の方向も少しずつ変わっている。「こころの立ち直りに資する」ほどの自信はないけれども、沖縄をともに語らい続けようというのが、発行人の山城賢孝とぼくと、スタッフの心意気である。
「それにしても、24年前に『おきなわ』をつくった先輩たちを、何ほどものりこえてはいませんね」。ひょっこりやって来た新城君のひょう然と帰る前の捨てゼリフである。ナイーブなぼくは、著しく傷つき、そのことばの鉄ついにうちひしがれて、気恥ずかしさから、沖縄と東京と大阪をせわしく立ち回る”いちむどぅやー人生”に埋没する。新城君はぼくの友人である。新城君は「ぼくは『青い海』の友人」なのだ、という。

1997年8月ー『敍説』新城栄徳「雑誌『おきなわ』総目次」

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雑誌『おきなわ』

新垣正美・神戸大学大学院総合人間科学研究科人間環境科学専攻「「沖縄人連盟の研究」(1999年度提出修士論文)
□沖縄人連盟とはー近代以降の沖縄/沖縄人の歴史は、国家や民族など近代が生んだ境界線に常に翻弄されてきた歴史であった。沖縄/沖縄人の存在の特徴は、既成の国家や民族などの「境界」に収まり切れず、「境界線の上」に立ち続けてきたという点にあると考えられるが、この事実は平時にはそう意識されることはない。そして、この事実が最大限に意識されたのは、敗戦後から講和条約までの間、沖縄の帰属が不明だった時期だと考えられ、この時期に「非日本人」であること/沖縄人の特殊性を、GHQ・日本政府にアピールして物資・特別待遇を獲得し、在本土沖縄人困窮者の救済に取り組んだ沖縄人連盟こそが研究対象にふさわしいと考えた。沖縄人連盟についての先行研究は、極めて少なく、その実態には未解明の点が多い。数少ない研究成果としては、新崎盛暉氏のものと冨山一郎氏のものがある。以下に、それぞれの研究と課題を提示したい。

新崎盛暉(略)

冨山一郎ー著書『近代日本社会と「沖縄人」』(1990)について述べてみたい。冨山氏の研究における沖縄人連盟に関する箇所によると、沖縄人連盟の名観は、「独立論」的な「沖縄人」と生活利害にそった「沖縄人」が混在していたという。そして、沖縄人連盟に参加した沖縄出身大衆が「沖縄人」を自称したのは、GHQの権力を背景にした特配などの経済的利益が存在したからであり、日本共産党の認識・方針を踏襲する「独立論」的な「沖縄人」との間にはズレがあったとしている。冨山氏は、さらに、「独立論」的な「沖縄人」の問題点として、「沖縄人=少数民族」と定義していながら、労働運動への合流という方針を提示するのみで、この時期最も問題であるはずの帰属問題に関して方針を示していない点を指摘している。つなり、共産党の主張する「独立論的」な「沖縄人」は、何ら具体性・現実味のないものだったと評価している。

冨山氏によると、「沖縄人」を主張することによる経済的利益がなくなり、かつ、「非日本人」としての差別(いわゆる「第三国人」視)が強まると、生活利害にそった「沖縄人」を主張する理由はなくなっていき、必然的に、戦前の「日本人志向」が再生してという。沖縄人連盟が、「独立論的主張」から「復帰論」へ旋回したのもこうした理由から説明している。すなわち、富山氏は、先行研究を、沖縄出身者自身の問題として分析していないと批判しているにもかかわらず、沖縄出身者の主張のありかた・主体性を、無理やり政治と切り離した上で単なる「損得勘定」や「同化」の帰結としてのみ解釈している。当時の社会情勢の中の沖縄出身者自身の問題として考えた場合、「独立論的」な「沖縄人」と生活利害にそった「沖縄人」は、本当に切り離せるものだったのだろうか。

また、沖縄人連盟の「復帰論」への旋回は、なぜ1948年に行われたのだろうか。冨山氏は、「復帰論」への旋回の原動力となったのは、「日本人志向」を持ち、沖縄人連盟内で多数を占めていた大阪勢だったとしている。大阪勢が、沖縄人連盟内の一大勢力であったのは、結成当初からの事実であり、1948年に急に力を持ったわけではない。だとすると、1948年に「沖縄人」を主張することによる経済的利益がなくなったと考えられるが、その点に関する記述は見られない。