はしがきー私が「おもろ」の研究会に出席して感じたことは、おもろの中にわからないことばがたくさんあることである。そのことばもおもろのできた当時は使用していたであろうが、今日では死語となり、その意味さえわからなくなっている。琉歌もこれと同じように、数百年も経ったらわからなくなることばができるであろう。今でさえわからなくなりかけている語もある。してみれば、琉歌もわかっているうちに、書き残して置かねばならないと思う。それがこれから琉歌を研究したいという人のために、やっておくべき責務ではないだろうか。

1969年4月  見里朝慶『琉歌の研究Ⅱ』(㈱)琉球文教図書
はじめにー私は「沖縄の文化」は日本文化の源流をなすものではないかと常常考えている者の一人である。例えば言語にしても包丁のことを、青森や長崎では「ほうちゃ」というそうで、沖縄では「ほうちゃう」といっている。また井戸のことを、伊豆の大島では「かあ」といっているが、沖縄でも同じである。それから木で丸く作った洗濯器のことを沖縄では「はんじり」といっているが、鳥取や千葉や宮崎辺ではこれを「はんぎり」といっている所があるそうだ。このように言語も中央(当時は京都)から遠く離れた所では、まだ昔の語がそのままに残っているのではないか。「沖縄語」と「日本語」と類似点があることを指摘して、言語の上から日琉同祖論を称えた向象賢のことは周知の通りである。かかる意味で私は琉歌と和歌との間にも言語上、あるいは思想上のつながりがありはせんかと、万葉集・古今集・新古今集その他特に古い文献と比較してその具体的な実例を見出すことにした。それでこの歌集にも、万葉集は勿論、古今集、新古今集、拾遺集、千載集などから、また古事記、日本書紀などに載っている歌など5、6首を出してある。

また琉歌は解釈の上から、まちまちの説が多く、これが定説だというべきものがないのである。これが定説だといっても果たして納得がいくかどうか、それでこれに定説を与えるのは困難である。そこで私はいくつもの説を出すことにした。どの説を取ろうとこれは読者の判断にまかせたい。いろいろの説を多く取ったつもりであるが、もれた所があるかもわからないのでそれは補ってもらいたい。その為この中に引例してある琉歌は外に59首ある。私の琉歌は首里を中心にしてある。それで歌詞では地方と違う所があるかも知れないと思う。その点も注意して呼んでいただきたい。