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島袋慶福翁の筆跡

□1964年3月23日『琉球新報』石川正通「島袋慶福先生・恩師の若い日の面影ー31歳の陸軍少尉 島袋慶福先生に、明治43年(1910)の一年間、12歳の神村孝太郎、平良宗訓らの同級生といっしょに、愛の教育で、みっちり仕込まれた私たちのいまの、礼儀正しさと姿勢を崩さない端正さは、全く生徒愛の権化 島袋慶福先生のご薫陶の賜物だと種明かしの告白を聞いたら意外に思う人があるかも知れない・・・・」


私と芝居との付き合いは粟国島で生まれた時からで、私の実家の近隣は首里士族の末裔だと称し集まり実家の隣に「首里福原」という集会所を造った。そこでは毎年旧正月に村芝居が上演され、私の父(新城三郎)も一度だけ「金細工」のモーサー役と二才踊りで出演、母方の伯父(玉寄貞夫)は「伊江島ハンドーグヮー」のカナーヒー役で二度も出演したと当時の記録にある。私の9歳のときには伯父が照屋林助、嘉手苅林昌を粟国に連れてきて民謡ショーを開いたという。


1972年11月 『石の声』№10 曹慶榮(新城栄徳)「試験管の中の人生」

2003年12月27日ー『沖縄タイムス』新城栄徳「うちなー書の森 人の網⑬」孫以上に接した島袋慶福翁
有力な一門の後に「家譜」記録の無い百姓(無系)のわが門中についてふれるのは気が引けるが、先の戦争で士族の「家譜」資料も大方消滅したので事情は同じだ。わが門中のことは『沖縄を深く知る事典』にも書いてあるので簡単にふれる。中学生のころ、近所に島袋慶福翁が居られ会話した。
 島袋翁は1900年に沖縄県中学校を卒業、同窓に東恩納寛惇、漢那憲英などが居た。翁が1953年、神御清明祭の墓前で曹氏門中総代として読み上げた祭文の中に「曹氏4代、前平敷親雲上慶隆様が24歳の時検地のため粟国島に御出張になり同地御滞在中(約半年)に粟国にも御子供が出来て現在でも大へん子孫繁盛しておるように聞きます」とある。
 島袋翁は私がその同門だと分かると孫以上に親しく接してくれた。私の祖父蒲はヤンバル船の船頭で那覇港から山原へ日用品を運び、帰りは材木やタムンを積んできた。父三郎は三重城近くで生まれた。55年前の今日、私は粟国島でゲンカラーオバーによって取り上げられこの世に出た。『沖縄タイムス』と同じ年になった。

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大宗 慶白ー慶京ー慶均ー慶隆
三世 慶均 瀬底親雲上ー1645年 本国中絵図ト為リ薩州ヨリ鬼塚源太左衛門殿 遠武軍介殿 大脇民部左ヱ門殿 簗瀬清右ヱ門殿 渡来ノ時案内者ト為リ東氏当山親雲上政左、李氏長嶺親雲上由恒筆者ト為リテ勤ム








正通曼荼羅②
石川正通は「未来派」でもある。岡本太郎も「未来派」だか、つまり今、現在の退化した思想風土を見通している。次は年代不明の正通からの暑中見舞である。
〇石川正通「暑中お見舞申し上げます」
会社があって社会の無い国では
家屋(ハウス)だけ増えて家庭(ホーム)が減ります
十九世紀は自然科学の世代にのし上がったが
蓑虫人間共は宗教や哲学の蓑の中に隠れて
二十世紀は不自然科学の世代に転落しました

この辺で文明の質と方面を革命しないと
四十五億年まで折角年を取った人類は
広島ピカドンの百万発の原水爆を抱いたまま
二十一世紀は自然科学の時代になって自爆し
動物の退化した人間の姿が露呈されます

八紘一宇の夢が薄倖一雨の雫と化し
大詔奉戴日が大傷繃帯日になった
大東亜太平洋戦争を回顧し反省して
有事立法が憂時立砲にならないように
元号法制化が元号砲声禍を招かないように
朝永振一郎と赤提灯の下で一杯やりながら
石川正通はノーメル平和賞を待っています
先輩追憶
智と仁と勇の源これやこの奇しく尊き出合ひなりけり
歌と絵と書と医の多才正忠は那覇の生みたるダビンチにして
さすらひつ迷ひ込みたる文学と心中せしはビヨン積宝
病み臥せど少年の日を偲ばんと桑の実積みし当間重慎
遊ばして来たかと男の表象にさわりしといふ当間重禄
兆民の一年有半読破せし那覇区の区議の石川正延
布袋腹に酒杯乗せて踊りたる麦門冬の珍芸懐ふ
酒宴にて飲まずも酔ひて谷茶前の珍舞踊りし大城朝太郎
医と酒に那覇を照らせしコンビ祖慶実徳浜松哲雄
蛇皮に乗せ八重山節のサワリ弾く花城永渡の笑顔目に見ゆ
島袋源一郎の蛇皮の音に心奪はれし下村海南
那覇市長又吉康和の祝宴に折口信夫坐して語らず
教養と体験織り混ぜ解き解きし太田朝敷の般若心経
沖縄の香気漂ひし名文は当真嗣合の大言小言
沖縄の表象カンパチ誇りたる石川善盛文吉のをぢ
糖通の伊仲浩に菊判の著書一つあり誤植多けでど
顔長く馬顔と号し大衆と共に歩みし伊江王子かな
地中海のただなかにしてすめろぎの誕辰寿(ほ)ぎし漢那提督
髭を撫デ手を握りしめ学問の外を覗きし伊波文学士
参事官岸本賀昌も期待さるる人間像の一人なりけり
台湾の鉄道ほとんど敷きしてふ照屋宏も泉崎人
実の入らば頭垂れよと稲の穂をモットーとせし高良隣徳
久茂地なるアンマー学校を二高女に育てあげたる島袋全発
開南の雄図抱きて育英の旗を樹てたる志喜屋孝信
婦徳こそ守礼之邦の母胎ぞと子女はぐくみし川平朝令
琉球の猥歌愛でしは空手道中興の父冨名腰義珍
わが家に巻藁を建てしみじみと古武道説きし本部サールー
剛柔流宮城長順さかしくも怪力乱神語らざりけり
カマースー・ジラマー・アサギー・町ヌウター天真爛漫神にかも似む
いくさ果て地球削りて首里三平那覇四町にも消えし小路小
ここだくの学徒散華の古里に洋行をして鬼哭聞きしも
さにつらふいもの前髪偲ばるる福木の影も今はあらなく
初恋の胸をこがしてさまよひし小路消したりこちたきいくさ
文語歌を新仮名をもて書く馬鹿の消ゆるを祈る沖縄歌壇に


2014年4月6日 奥武山公園