04/22: 2014年4月/金城宏次
2004年2月14日ー『沖縄タイムス』新城栄徳「うちなー書の森 人の網⑯」(追記)
□(略)先月は舅・金城宏次の85歳(申年)生年祝が読谷であった。楚辺公民館で合同、自宅では孫20人に囲まれ盛会に終わった。舅の祖父英三は旧藩時代、福建省を往来したことがあり、その父は読谷山間切最後の地頭代としてつとめた。舅の父・金城三平は沖縄県国頭郡各間切島組合立農学校(後の県立農林学校)の2期卒業、同期生に前川亀助、宮城久保、宮里貞寛、中村権五郎らが居た。1期にカキ王と云われた宮城新昌が居る。卒業生が海外雄飛でアメリカやハワイに渡航するなか、三平は読谷で教員をつとめた。地元で信望があったが早逝した。
舅は尋常高等小学校卒業後、上阪。福田自動車の製造工、昭和15年、自動車運転免許を取得。同年に西淀川区で徴兵検査で甲種合格。昭和16年1月10日、熊本西部二十四部隊(輜重兵第六聯隊)自動車隊に入隊し、半年間の教育修了後、東シナ海を経て上海に到着。独立自動車部隊・独立輜重自動車隊、更に輜重兵第二十二聯隊(原第七九三八部隊)に転じた。杭州の西湖近くに駐屯した。尾崎秀樹『西湖のほとり』に「西湖の孤山には乾隆帝の『四庫全書』を納めた文瀾閣があった(略)西湖の地はマルコポーロも足をとめているし、日本の空海もはるばるこの地を訪れている」とある。舅がかの地で戦死していたら20人の孫たちは存在しなかった。
西湖
西湖の紹介
西湖(せいこ)は、中国浙江省杭州市にある湖。 西湖の自然の島である孤山、西湖を分ける堤の苏堤、白堤、杨公堤、人口の島である小瀛洲、湖心亭、阮公墩、分けられた湖の外湖、西里湖、北里湖、南湖、岳湖、これらをまとめて形状を「一山、三堤、三島、五湖」と称される。2006年に、中国の国家AAAAA級旅行景区に指定される。2004年発行の第五版人民元1元札裏面の図案として、西湖の三潭印月が採用されている。 名称からして都市や山の西にある湖ということで、中国に数ある西湖であるが、単に「西湖」と言えば、この杭州の西湖を指す。その美しさは、古くから多くの詩にうたわれ、絵にも描かれ、詩人?蘇東坡が春秋時代の美女?西施にたとえたほどで、それが西湖の名の由来ともなった。 (→樂遊中国)
前列右から2人目が金城宏次
戦友たちから金城宏次宛のハガキ
1982年10月11日『琉球新報』「金城宏次さん/わたしの秘蔵品ーラジオ電蓄」
軍歌「戦友」を「支那事変」に従軍した新城慶喜小父(画家の新城兄弟の父)から聴かされたことがある。京都丹後学会のホームページに「歌の作者は真下飛泉、発表は1905年。前年には与謝野晶子の『君死にたまふことなかれ』が出ていた。真下には戦争体験はない。知人から奉天大会戦の悲惨な経験をつぶさに聴いて感動し、この歌を作った」とある。
軍歌が似合う時世になった。森繁久弥の歌う「戦友」を聴きながら記す。亡き戦友への鎮魂」の歌である。満州の「赤い夕日に照らされて/友は野末の石の下」。
2004年3月27日ー『沖縄タイムス』新城栄徳「うちなー書の森 人の網⑲」
□前に舅の戦時中のことを書いたら当時の戦友から、電話があり体験を20分も話してくれた。その翌日2月16日の本紙社会面に「戦争今昔伝えたい」として平良真六氏と宮良作氏の記事があった。そして真六氏の二女・次子さんから「先日、タイムスで新城さんが”軍歌”に触れていた」からと記事にあった真六氏の「回帰」と題する軍歌が送られた。
舅は終戦を経て昭和昭和21年9月、バンコクを出航し浦賀上陸、復員した。帰郷、米駐留軍施設の輸送部隊勤務を経て沖縄バスに勤務。
戦前の嘉手納比謝橋下方
□(略)先月は舅・金城宏次の85歳(申年)生年祝が読谷であった。楚辺公民館で合同、自宅では孫20人に囲まれ盛会に終わった。舅の祖父英三は旧藩時代、福建省を往来したことがあり、その父は読谷山間切最後の地頭代としてつとめた。舅の父・金城三平は沖縄県国頭郡各間切島組合立農学校(後の県立農林学校)の2期卒業、同期生に前川亀助、宮城久保、宮里貞寛、中村権五郎らが居た。1期にカキ王と云われた宮城新昌が居る。卒業生が海外雄飛でアメリカやハワイに渡航するなか、三平は読谷で教員をつとめた。地元で信望があったが早逝した。
舅は尋常高等小学校卒業後、上阪。福田自動車の製造工、昭和15年、自動車運転免許を取得。同年に西淀川区で徴兵検査で甲種合格。昭和16年1月10日、熊本西部二十四部隊(輜重兵第六聯隊)自動車隊に入隊し、半年間の教育修了後、東シナ海を経て上海に到着。独立自動車部隊・独立輜重自動車隊、更に輜重兵第二十二聯隊(原第七九三八部隊)に転じた。杭州の西湖近くに駐屯した。尾崎秀樹『西湖のほとり』に「西湖の孤山には乾隆帝の『四庫全書』を納めた文瀾閣があった(略)西湖の地はマルコポーロも足をとめているし、日本の空海もはるばるこの地を訪れている」とある。舅がかの地で戦死していたら20人の孫たちは存在しなかった。
西湖
西湖の紹介
西湖(せいこ)は、中国浙江省杭州市にある湖。 西湖の自然の島である孤山、西湖を分ける堤の苏堤、白堤、杨公堤、人口の島である小瀛洲、湖心亭、阮公墩、分けられた湖の外湖、西里湖、北里湖、南湖、岳湖、これらをまとめて形状を「一山、三堤、三島、五湖」と称される。2006年に、中国の国家AAAAA級旅行景区に指定される。2004年発行の第五版人民元1元札裏面の図案として、西湖の三潭印月が採用されている。 名称からして都市や山の西にある湖ということで、中国に数ある西湖であるが、単に「西湖」と言えば、この杭州の西湖を指す。その美しさは、古くから多くの詩にうたわれ、絵にも描かれ、詩人?蘇東坡が春秋時代の美女?西施にたとえたほどで、それが西湖の名の由来ともなった。 (→樂遊中国)
前列右から2人目が金城宏次
戦友たちから金城宏次宛のハガキ
1982年10月11日『琉球新報』「金城宏次さん/わたしの秘蔵品ーラジオ電蓄」
軍歌「戦友」を「支那事変」に従軍した新城慶喜小父(画家の新城兄弟の父)から聴かされたことがある。京都丹後学会のホームページに「歌の作者は真下飛泉、発表は1905年。前年には与謝野晶子の『君死にたまふことなかれ』が出ていた。真下には戦争体験はない。知人から奉天大会戦の悲惨な経験をつぶさに聴いて感動し、この歌を作った」とある。
軍歌が似合う時世になった。森繁久弥の歌う「戦友」を聴きながら記す。亡き戦友への鎮魂」の歌である。満州の「赤い夕日に照らされて/友は野末の石の下」。
2004年3月27日ー『沖縄タイムス』新城栄徳「うちなー書の森 人の網⑲」
□前に舅の戦時中のことを書いたら当時の戦友から、電話があり体験を20分も話してくれた。その翌日2月16日の本紙社会面に「戦争今昔伝えたい」として平良真六氏と宮良作氏の記事があった。そして真六氏の二女・次子さんから「先日、タイムスで新城さんが”軍歌”に触れていた」からと記事にあった真六氏の「回帰」と題する軍歌が送られた。
舅は終戦を経て昭和昭和21年9月、バンコクを出航し浦賀上陸、復員した。帰郷、米駐留軍施設の輸送部隊勤務を経て沖縄バスに勤務。
戦前の嘉手納比謝橋下方