05/03: 1994年9月4日 関西国際新空港、開港/世界にいちばん近い街 難波
2024-1-19産経west 古墳時代、15代応神天皇の招きで百済から日本に渡り、漢字や論語をもたらした-といわれる王仁(わに)博士の有名な歌がある。
《なにはづに さくやこのはな ふゆごもり いまははるべと さくやこのはな》
この「なにはづ」は万葉仮名では「奈尓波ツ」と書かれていた。その後「難波津」という漢字があてられた。阿部学芸員によれば「古事記には『浪速』、日本書紀には『難波』とあります。そして、もうひとつ大事なのは読み方(音)で、表記は使い勝手のいい漢字をあてたのでしょう」という。
難波駅から梅田を望む
1893(明治26)年ー大阪道頓堀角座で琉球太鼓踊り
□1893年7月『歌舞伎新報』「琉球芝居ー沖縄県琉球には昔より音楽師と称えて一種の歌舞を演奏するもの士族の間に伝えられ居たるところ去る明治22年中いづれも俳優の鑑札を受けて我が役者の如きものとなり其の組5組もあるよしにてこのたび其の一組が大阪角の芝居へ乗り込むことに決定し既に去る2日を以って那覇港を解覧し本日ごろは遅くも到着したる手筈なるがー」
「琉球国演劇」の横断幕があるのが角座。下が角座で配られたもの
明治33年4月21日 『琉球新報』社告「職工数名募集」
大阪鐵工所(Osaka Iron Works)→日立造船
沿革
創業者E.H.ハンター 明治・大正 [編集]1881年(明治14年)4月1日 - イギリス人実業家・E.H.ハンターにより、大阪鐵工所(Osaka Iron Works)として創業。
1900年(明治33年)4月 - 桜島工場が操業開始。
1907年(明治40年) - 日本初の洋式捕鯨船「第二捕鯨丸」を建造。
1908年(明治41年) - 日本初のタンカー「虎丸」を建造。(スタンダード石油向け)
1911年(明治44年)9月 - 因島船渠株式会社を買収し、因島工場とする。
1914年(大正3年)3月 - 株式会社大阪鐵工所に改組。代表者は、E.H.ハンターの子である範多竜太郎。(→ウィキペディア)
明治14年7月 『朝日新聞』広告「沖縄県泡盛酒」
明治15年5月 『朝日新聞』広告「琉球カスリー西平筑登之」
明治17年2月6日 大阪中之島自由亭で尚典新婚帰郷の饗応に岩村通俊、西村捨三ら参加。
明治17年3月 大阪西区立売堀に鹿児島沖縄産糖売捌所設立。
明治17年5月 大阪商船会社、大阪北区冨島町に開業。
知花朝章氏談ー明治19年の事であった。尚家東京御邸では、本県商業及産業の不振を遺憾に思はれて、此際是非商業及産業の発展期せらんものとて本県に汽船会社の設立を計画された。そして大阪鉄工所主人の範多氏と契約の上金75,000で新造汽船一隻を英国に注文された。会社は株式組織にして資本金は75,000その8分は尚家の持株とし、残り2分は一般希望者から募集して愈汽船会社の設立を見るに至った。(→大正6年9月『琉球新報』)
明治20年6月18日『神戸又新日報』「球陽丸、此の程初航海をなしたる同船は1昨日神戸港へ着船」
明治21年4月27日『日出新聞』「琉球人、数名大阪に来りて西区立売堀に南通5丁目に三ヵ所の倉庫を借り入れ琉球物産会社を準備中。」
明治26年6月 寺内某が来沖し那覇の料理屋・東家の協力で沖縄芝居の俳優、囃子方を雇う。7月ー大阪道頓堀角座 8月ー京都祇園座 9月ー名古屋千歳座で興行。
明治28年4月1日 京都で第四回内国勧業博覧会(~7-31、113万人が入場)沖縄県事務所は上京区新麩屋町仁王門超勝寺内
明治33年4月21日 『琉球新報』社告「職工数名募集」
明治33年4月21日 『琉球新報』社告「職工数名募集ス望ミノモノハ本社事務掛ヘ名刺差出スベシ/但二十二歳以上三十五歳以下ノモノニシテ保証人ヲ要ス/四月二十一日/琉球新報社」
明治33年5月9日 『琉球新報』「大阪鉄工所の職工募集ー本紙にも広告せるか如く長浜真欣及び本社の小那覇朝親の名義を以て大阪鉄工所の職工募集を為せるが右は直接に同鉄工所より依頼を受けたるにあらず広運社長護得久朝惟氏が在阪の折り同鉄工所主より職工募集の依頼を受け更に氏より小那覇長浜の両氏に依託したる次第なりと云ふ募集人員凡そ三十名計の予定にして一旦募集に応じ職工雇契約をなしたる時は大阪迄の運賃並に衣食住其の他小遣い銭等は一切鉄工所より支給する筈にて而して雇契約期限経過し一人前の職工となりたる上は其技量に応じて相当の俸給を与えて更に雇を継続するか或いは之を他の鉄工所又は汽船の機関師等へ昇進するの楷梯にて六七年間も鉄工所に雇いれて一人前の職業を覚えたる以上は自分の生活には毫も差支なきのみならず自分の腕次第にて立派な生活を為し得べしとなり殊に西洋各国に於いては鉄工の需要多ければ鉄工の職業を覚えたる後には望み次第にて西洋各国へ行くも自由にして実に鉄工は今日の世界に於いて前途有望の職業なりと謂ふべし偖て一人前の鉄工となれば凡そ幾許の俸給を与ふるやと云ふに其技量に依り各々差あるべしと雖とも若し其職工に於いて中学校卒業以上の学力を有せる者ならば鉄工所に於いては之を雇ふ日給百圓位も貰ひ得べき良職工を養成し得るの見込みなりと云ふ尤も今回の募集は必ずしも教育ある者に限れるにあらざれば身体強壮にして苟も志望の者は奮って之に応ずべし但し応募の手続き及び詳細の事は小那覇長浜の両氏に就き承合すべきなり」
広告「今般大坂鉄工所より職工募集の依託を受候に付年齢十六歳以上二十二歳以下の男子三十名を募集す希望の方は御申込あるべし但契約の方法等は本人若は父兄の御来談を煩す/首里 長浜真欣/新報社内 小那覇朝親」
明治33年7月21日 『琉球新報』「鉄工所職工志願者の出発ー過日来募集中なりし大坂鉄工所の職工志願者は都合三十三名にして長浜真欣氏これを引き連れ昨日出港の球陽丸便より出発せり」
明治34年7月21日 『琉球新報』「労働社会の不名誉ー昨年広運社長抔の尽力にて大阪鉄工所へ入所したる職工等にて入所間もなく逃げ帰り周施人等に対し不穏の挙動をなす者ありたる趣きは当時の紙上にも記載したるが其後何の消息もなかりし故残留者は真面目に各自受持の業務に従事し居るものと思ひの外逃亡したる十九名の外更に此程五名の逃亡者あり鉄工所よりは周施人に対して損害賠償請求の督促を申し来りたる由なるが其金額は総計六百九十五圓二十八銭にして周施人等の迷惑一方ならずと云ふ最初非常の熱心にて希望し長浜真欣氏が引率されて上阪したるものは三十三名なりしが今は二十四名は逃亡し残留して誠実に勤め居るものは僅々九名に過ぎず逃亡者の滞在日数は短きものは十日間長きものは二百三十九日間にて本県の労働者が此等逃亡者の為めに信用を害したること甚しと云ふ/鉄工所残留職工の書簡ー別項所載の通り大阪鉄工所二十四名の職工の不始末は実に言語同断にて本県の労働者が忍耐力なく規律と信用を重んぜざるを広告したるも同様逃亡者の所業は実に憎むべき事なり これに 引換へ 当銘朝弼、山村三良、渡久山朝常、又吉東茂、花城清彰、山口全保、花城清順、島袋慶紀、譜久村朝祥九名の残留者は猶ほ真面目に勤務し此程周施者の許に左の書簡来りたる由 『(前略)早速御礼申上へき筈の処多忙に取紛れ乍不本意御無音に打過ぎ候段御海恕被下度候残留者九名は無事入職誠に難有奉存候此九名は結約書之通り是非五年間相勤め沖縄人之数多逃亡者等の不真面目までも取返し乍不肖第一県下の名誉を挙くる心得を以て日夜勉強致し居候(中略)残る九名早晩とは相異り工所長甲賀様よりも日々懇々御高諭を蒙り望外の喜びに不堪実に誠の子の如く御教示被下候事御通知申上候云々』此書簡の趣きにては逃亡者共は鉄工所の取扱ひが残酷にてそれに堪へず逃亡したるが如き事情抔は一切これなく全く彼等の怠惰なるより僅かの労働に堪へず同県人の面目までも汚したること明白なり」
《なにはづに さくやこのはな ふゆごもり いまははるべと さくやこのはな》
この「なにはづ」は万葉仮名では「奈尓波ツ」と書かれていた。その後「難波津」という漢字があてられた。阿部学芸員によれば「古事記には『浪速』、日本書紀には『難波』とあります。そして、もうひとつ大事なのは読み方(音)で、表記は使い勝手のいい漢字をあてたのでしょう」という。
難波駅から梅田を望む
1893(明治26)年ー大阪道頓堀角座で琉球太鼓踊り
□1893年7月『歌舞伎新報』「琉球芝居ー沖縄県琉球には昔より音楽師と称えて一種の歌舞を演奏するもの士族の間に伝えられ居たるところ去る明治22年中いづれも俳優の鑑札を受けて我が役者の如きものとなり其の組5組もあるよしにてこのたび其の一組が大阪角の芝居へ乗り込むことに決定し既に去る2日を以って那覇港を解覧し本日ごろは遅くも到着したる手筈なるがー」
「琉球国演劇」の横断幕があるのが角座。下が角座で配られたもの
明治33年4月21日 『琉球新報』社告「職工数名募集」
大阪鐵工所(Osaka Iron Works)→日立造船
沿革
創業者E.H.ハンター 明治・大正 [編集]1881年(明治14年)4月1日 - イギリス人実業家・E.H.ハンターにより、大阪鐵工所(Osaka Iron Works)として創業。
1900年(明治33年)4月 - 桜島工場が操業開始。
1907年(明治40年) - 日本初の洋式捕鯨船「第二捕鯨丸」を建造。
1908年(明治41年) - 日本初のタンカー「虎丸」を建造。(スタンダード石油向け)
1911年(明治44年)9月 - 因島船渠株式会社を買収し、因島工場とする。
1914年(大正3年)3月 - 株式会社大阪鐵工所に改組。代表者は、E.H.ハンターの子である範多竜太郎。(→ウィキペディア)
明治14年7月 『朝日新聞』広告「沖縄県泡盛酒」
明治15年5月 『朝日新聞』広告「琉球カスリー西平筑登之」
明治17年2月6日 大阪中之島自由亭で尚典新婚帰郷の饗応に岩村通俊、西村捨三ら参加。
明治17年3月 大阪西区立売堀に鹿児島沖縄産糖売捌所設立。
明治17年5月 大阪商船会社、大阪北区冨島町に開業。
知花朝章氏談ー明治19年の事であった。尚家東京御邸では、本県商業及産業の不振を遺憾に思はれて、此際是非商業及産業の発展期せらんものとて本県に汽船会社の設立を計画された。そして大阪鉄工所主人の範多氏と契約の上金75,000で新造汽船一隻を英国に注文された。会社は株式組織にして資本金は75,000その8分は尚家の持株とし、残り2分は一般希望者から募集して愈汽船会社の設立を見るに至った。(→大正6年9月『琉球新報』)
明治20年6月18日『神戸又新日報』「球陽丸、此の程初航海をなしたる同船は1昨日神戸港へ着船」
明治21年4月27日『日出新聞』「琉球人、数名大阪に来りて西区立売堀に南通5丁目に三ヵ所の倉庫を借り入れ琉球物産会社を準備中。」
明治26年6月 寺内某が来沖し那覇の料理屋・東家の協力で沖縄芝居の俳優、囃子方を雇う。7月ー大阪道頓堀角座 8月ー京都祇園座 9月ー名古屋千歳座で興行。
明治28年4月1日 京都で第四回内国勧業博覧会(~7-31、113万人が入場)沖縄県事務所は上京区新麩屋町仁王門超勝寺内
明治33年4月21日 『琉球新報』社告「職工数名募集」
明治33年4月21日 『琉球新報』社告「職工数名募集ス望ミノモノハ本社事務掛ヘ名刺差出スベシ/但二十二歳以上三十五歳以下ノモノニシテ保証人ヲ要ス/四月二十一日/琉球新報社」
明治33年5月9日 『琉球新報』「大阪鉄工所の職工募集ー本紙にも広告せるか如く長浜真欣及び本社の小那覇朝親の名義を以て大阪鉄工所の職工募集を為せるが右は直接に同鉄工所より依頼を受けたるにあらず広運社長護得久朝惟氏が在阪の折り同鉄工所主より職工募集の依頼を受け更に氏より小那覇長浜の両氏に依託したる次第なりと云ふ募集人員凡そ三十名計の予定にして一旦募集に応じ職工雇契約をなしたる時は大阪迄の運賃並に衣食住其の他小遣い銭等は一切鉄工所より支給する筈にて而して雇契約期限経過し一人前の職工となりたる上は其技量に応じて相当の俸給を与えて更に雇を継続するか或いは之を他の鉄工所又は汽船の機関師等へ昇進するの楷梯にて六七年間も鉄工所に雇いれて一人前の職業を覚えたる以上は自分の生活には毫も差支なきのみならず自分の腕次第にて立派な生活を為し得べしとなり殊に西洋各国に於いては鉄工の需要多ければ鉄工の職業を覚えたる後には望み次第にて西洋各国へ行くも自由にして実に鉄工は今日の世界に於いて前途有望の職業なりと謂ふべし偖て一人前の鉄工となれば凡そ幾許の俸給を与ふるやと云ふに其技量に依り各々差あるべしと雖とも若し其職工に於いて中学校卒業以上の学力を有せる者ならば鉄工所に於いては之を雇ふ日給百圓位も貰ひ得べき良職工を養成し得るの見込みなりと云ふ尤も今回の募集は必ずしも教育ある者に限れるにあらざれば身体強壮にして苟も志望の者は奮って之に応ずべし但し応募の手続き及び詳細の事は小那覇長浜の両氏に就き承合すべきなり」
広告「今般大坂鉄工所より職工募集の依託を受候に付年齢十六歳以上二十二歳以下の男子三十名を募集す希望の方は御申込あるべし但契約の方法等は本人若は父兄の御来談を煩す/首里 長浜真欣/新報社内 小那覇朝親」
明治33年7月21日 『琉球新報』「鉄工所職工志願者の出発ー過日来募集中なりし大坂鉄工所の職工志願者は都合三十三名にして長浜真欣氏これを引き連れ昨日出港の球陽丸便より出発せり」
明治34年7月21日 『琉球新報』「労働社会の不名誉ー昨年広運社長抔の尽力にて大阪鉄工所へ入所したる職工等にて入所間もなく逃げ帰り周施人等に対し不穏の挙動をなす者ありたる趣きは当時の紙上にも記載したるが其後何の消息もなかりし故残留者は真面目に各自受持の業務に従事し居るものと思ひの外逃亡したる十九名の外更に此程五名の逃亡者あり鉄工所よりは周施人に対して損害賠償請求の督促を申し来りたる由なるが其金額は総計六百九十五圓二十八銭にして周施人等の迷惑一方ならずと云ふ最初非常の熱心にて希望し長浜真欣氏が引率されて上阪したるものは三十三名なりしが今は二十四名は逃亡し残留して誠実に勤め居るものは僅々九名に過ぎず逃亡者の滞在日数は短きものは十日間長きものは二百三十九日間にて本県の労働者が此等逃亡者の為めに信用を害したること甚しと云ふ/鉄工所残留職工の書簡ー別項所載の通り大阪鉄工所二十四名の職工の不始末は実に言語同断にて本県の労働者が忍耐力なく規律と信用を重んぜざるを広告したるも同様逃亡者の所業は実に憎むべき事なり これに 引換へ 当銘朝弼、山村三良、渡久山朝常、又吉東茂、花城清彰、山口全保、花城清順、島袋慶紀、譜久村朝祥九名の残留者は猶ほ真面目に勤務し此程周施者の許に左の書簡来りたる由 『(前略)早速御礼申上へき筈の処多忙に取紛れ乍不本意御無音に打過ぎ候段御海恕被下度候残留者九名は無事入職誠に難有奉存候此九名は結約書之通り是非五年間相勤め沖縄人之数多逃亡者等の不真面目までも取返し乍不肖第一県下の名誉を挙くる心得を以て日夜勉強致し居候(中略)残る九名早晩とは相異り工所長甲賀様よりも日々懇々御高諭を蒙り望外の喜びに不堪実に誠の子の如く御教示被下候事御通知申上候云々』此書簡の趣きにては逃亡者共は鉄工所の取扱ひが残酷にてそれに堪へず逃亡したるが如き事情抔は一切これなく全く彼等の怠惰なるより僅かの労働に堪へず同県人の面目までも汚したること明白なり」