1906年1月 『琉球新報』「沖縄座 不如帰」

1916年12月



徳富蘆花
生年: 明治1.10.25 (1868.12.8)
没年: 昭和2.9.18 (1927)
明治大正期の小説家。名は健次郎。肥後国(熊本県)葦北郡水俣に,徳富一敬,久子の次男として生まれる。徳富家は代々惣庄屋,代官などを勤めた旧家で,兄蘇峰(猪一郎)は民友社を興し,『国民之友』『国民新聞』を創刊したジャーナリスト。母方の叔父には幕末の開国論者横井小楠,叔母に婦人矯風会創立者で女子学院初代院長の矢島楫子など,近親に知名人が多い。蘆花には賢兄猪一郎に対する「負け犬」意識があり,徳富の富を兄とは異なる「冨」の字で生涯通した。同志社入学,キリスト教受洗,伝道に従事したが,再入学した同志社を失恋により中退。その事情をのちに「黒い眼と茶色の目」(1914)で描いた。明治22(1889)年上京して兄の民友社に入社,翻訳などに従事。同33(1900)年刊行の長編小説『不如帰』の成功により兄から自立。同年『自然と人生』を刊行するとともに「おもひ出の記」(単行本化で『思出の記』に改題)を発表,長く青少年を魅了したこの自伝的長編は150回以上繰り返し読んだ読者もいたという。さらに「黒潮」(1902)で政界を批判して兄と決別。日露戦争後にトルストイ訪問の旅に出て帰国後,東京郊外に半農生活をはじめ,随筆集『みゝずのたはごと』や一青年士官の悲劇と乃木将軍を描いた長編『寄生木』(1909)を刊行。晩年に自伝小説『富士』があり,伊香保で兄と再会して没した。<参考文献>中野好夫『蘆花徳冨健次郎』全3巻 →コトバンク


不如帰【ほととぎす】-徳冨蘆花の長編小説。1898年―1899年《国民新聞》に連載。海軍少尉川島武男と妻浪子の結婚生活が,浪子の肺結核のために破れる悲劇を描く。陸軍大将大山巌の長女をモデルとする家庭小説で,作者の出世作。《金色夜叉》と並んで新派悲劇の代表作となっている。/ヤースナヤ・ポリャーナにおけるトルストイと蘆花 1906年夏

徳富蘆花夫妻 1920年1月 ニューヨークにて撮影



1976年1月 『100周年記念 熊本バンド展』鶴屋百貨店〇徳冨蘆花『竹崎順子』(1923年)「洋学校生で信者仲間の阿蘇の赤峰瀬一郎は、熊本の西なる岡を敷島のバンカア・ヒルとわれは唱へん、と詠みました。バンカア・ヒルは米国独立戦争の火蓋を切った丘であります。東が西を摂取して、一天四海に『日』を輝かす旗挙げの岡として、花岡山は人類の歴史に永久に聳えねばなりません。」
〇熊本バンド(くまもとバンド)は、1876年(明治9年)1月30日に熊本県熊本市の花岡山で、熊本洋学校の生徒34名が、米国人教師L.L.ジェーンズの影響を受けて、自主的に奉教趣意書に署名してプロテスタント・キリスト教に改宗し、これを日本に広めようと盟約を交わした集団のこと。直後に、熊本洋学校は閉校になり、その後新島襄の同志社英学校に移り、卒業後は同志社大学、日本組合基督教会の重鎮になり基礎を築いた。→ウィキ


1977年10月 新派創立九十周年記念公演『不如帰』国立劇場


1993年7月 『歌舞伎座百年史ー本文篇上巻』「不如帰」松竹株式会社/株式会社歌舞伎座


1972年3月~1974年9月 中野好夫『蘆花徳冨健次郎』全3部 筑摩書房

1985年4月『マスコミ市民』第201号<追悼 中野好夫先生>久野収「ある私的追悼の辞」、新崎盛暉「沖縄問題から見た中野先生」
 久野収ー1962年には、有限会社「思想の科学社」の初代社長に就任。
1993年には『週刊金曜日』の創刊にも関わり、死去するまで編集委員を務めた。 大阪府立中央図書館には久野の蔵書約2000冊が遺贈され、2005年2月には「久野収図書収蔵記念展」が催された。




2014年5月7日、ジュンク堂で京都大学学術出版会『内海忠司日記1928−1939ー帝国日本の官僚と植民地台湾』を見た。内海忠司という名は『大阪球陽新報』によく登場していたので紹介する。

1917(大正6)年12月24日  『琉球新報』「一昨夜の県庁員及記者団大親睦会ー辻花崎で、末吉麥門冬君は内海(島尻郡長)さんをつかまえて大男会をやろうじゃないかと双肌を抜いて胸を叩く・・・」


1939年1月1日『大阪球陽新報』内海忠司「新春の辞」

1939年7月1日『大阪球陽新報』内海忠司「浪人瓣」


1939年7月20日『大阪球陽新報』石川正通「狂員・狂語・狂想」