1955年11月 琉球史料研究会第一回総会
1955年12月 琉球史料研究会『琉球』1号□表紙題字・謝花雲石/表紙絵・大城皓也/東恩納寛惇「海表恭藩について」/稲村賢敷「宮古の家系考証」/喜捨場永珣「日琉古語辞集」/「琉球氏姓集」/城間朝教「琉球松の話」/外間正幸「玉陵庭出土品発掘記」/平敷屋朝敏「苔の下」/「自了絵・東恩納先生書簡より」/

1956年1月  『王代記』発刊

1956年4月 『琉球』第2号□島袋全発「行政区画と官衙」/奥里将建「円覚寺文化再認識(上)」/新屋敷幸繁「日本小歌史上の薩摩と琉球」/「琉球氏姓集」/仲吉朝敏「拾い集められた雑品(上)」/仲吉朝睦「のろこもいのマガタマ」/「混効験集」/通信抄ー金関丈夫・東恩納寛惇・比嘉春潮・鳥越憲三郎・仲吉朝睦(世田谷区玉川奥沢町)・桜田勝徳・島袋盛敏・宮良当壮・酒井卯作・三島格・吉田嗣延

1957年10月 『琉球』第6号□東恩納寛惇□『琉球』を読むー本誌も創刊以来足かけ三年、五巻重ねて、どうやら三号雑誌の危険区域を脱したもののようである。比嘉寿助君が、各家系譜の覆刻以来、採算のむずかしい仕事を引き受けて、郷土文献の研究保存に、全力を傾倒していられる事に対し、まことに感謝に耐えないものがある。私がここに若干苦言を呈せんとするのは本誌の健全なる成長を希い、比嘉君の事業をして有終の美をなさしめんとするの老婆深切からである。私は比嘉君を始め同人諸君が私の真意を汲み、これを認容する雅量を有せられる事を信ぜんと欲するのである。 

本誌には、毎号同人の研究発表の外、古典の覆刻版を附録にしてあるが、有り難い事に思っている。但し同じ事なら、その古典の選択に、今一段の考慮をし、今一段の研究的態度を示してほしいものである。吾々が古典文献の覆刻を希求するのは、一には保存の意味からで、かけがえのないものは、少しでも多く印行して残さない事には亡んで了う。現に郷土図書館に架蔵されていた、親見世日記や久米村日記の如き、極めて貴重な文献であったのに、戦災にあって滅んで了った。尚家の諸氏系譜もそうである。王代記やその類似の本は、古典覆刻とさえ云えば誰もが最初に手がけるものであるから類本が少なくない。和学と云えば平敷屋が持ち出される。才人には相違なく、又あの時代にあれだけの和文和歌を作った事も、多とするに足るものがあり又その数奇な運命も同情を買った所以であろうが、どちらかと云えば、一介の文学青年でその作品も、芸術的史料的価値は、それほど高くない。これに比べると、識名親方の思出草や、久志親雲上の雨の夜物語が、はるかに優れて居り、又その頃の沖縄の芸文全体をうかがう作品としては、浮縄雅文集がある。これ等をさしおいて、お座なりの『苔の下』など持ち出すにも及ばない事である。

喜安日記を出したのはよいとして、それならば異本を校合して、しっかりしたテキストを作ってほしかった。個人が校訂の任に当たったかは知らないが、まちがいだらけで、私も最初の間は、少し朱を入れて見たが、終いに腹立たしくなって、やめて了った。校訂者自身によく読めていなかったと見えて、なまじいよみがなをつけたものに、読みちがいが少なくない。苟も研究会と銘打ってある以上、権威ある研究の結果を示して欲しいものである。

琉歌集にしても、琉球新報社の富川本の覆刻では意味をなさない。この歌集には近代人雑歌なども多く取入れてあるから、それ等は削除すべきである。琉歌の「かなづかい」でも、おもろの本体にかえすべきであろう。山田有幹氏の正誤文には卓見が多い。しかし吾々が不満に思うのは、それほどの見識があり用意があるならば、何故に出す前に、自ら厳密な校訂を加え、動かないテキストを作らなかったかと云う事である。

混効験集にしても、流布本に誤りの多い事は吾々が已に指摘した。出す位ならば、博物館架蔵の評定所本を出してほしかった。坊間流布の活字本などを無批判に出して見たところで仕方がないではないか。要するに、ただ、出すと云うのではない。研究を発表し、権威あるものを出してもらい度いものである。

これまで私が読んだ中では林清国の天女伝説の研究が出色である。特に天女伝説が、王都の周辺に分布していると云う発見は、天女即王女説に有力な示唆を与える卓見である。同君は又丹念に、研究資料を採集されたようであるが、この種の努力に対しては、深く敬意を表せざるを得ない。ただしかし、その引用の系図は、いかなる性質のもので、何程の信ぴょう性のあるものかを、つきとめていただき度いものである。(忘言多罪)7月3日


『向姓金武家家譜』琉球史料研究会




1966年6月 比嘉寿助『南大東村誌』南大東村役所